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「これこそが〈聖胎マリア〉──我らが母なのです」

 ご覧、と修道士長のアンナが手で示した先に、母なるものは広がっている。

 それは、鈴生りの果実によく似ていた。

 ドーム状の巨大な空洞に、瑞々しい赤い実が無数に連なっている。天井に伸びる柱には雫型の槽が隙間なく垂れ下がり、その房が室内を埋め尽くしている。房の合間を、肌色の腕を生やした棒が、床と天井に掘られた溝に沿って忙しなく行き交っていた。

 年長の子たちが、〈生命の樹セフィロト〉とか、〈果樹園ヴィニヤード〉と呼んでいるのを聞いたことがある。

 私たちは皆、ここから生まれるのだという。世に生を受けてから七年は〈聖胎マリア〉の中で育まれ、八年目からは保護棟に入っていく。大いなる神秘の結晶、恵みの賜物なのだとアンナは言った。

 この施設は中枢棟に併設される形で存在している。普段は立ち入りを禁じられているが、今日は見学として特別に許可がおりていた。年に数度の貴重な機会だ。

「人は皆〈聖胎マリア〉より生まれます。聖地へと至った偉大なる先祖は、百五十三の生命の種子を〈聖胎〉に託しました。〈聖胎〉は自らの中でそれらの種子を掛け合わせ、この大地でも健やかでいられるよう、肉体に刻まれた呪いの残滓いじょうを取り除き、より良きものとしてくださいます」

 アンナはいつも通りの堅苦しい表情で私たちを睥睨すると、ふっと相好を崩して、柔らかな口調で言葉を続けた。

「その結果が、あなた方です。〈聖胎マリア〉は、かつて女性が担っていた生誕の秘蹟を、一身に引き受けてくださいました。そして、不要となった生誕にまつわる機能を人から取り去り、さらには、人々を争いに駆り立てた性の分裂を融和させ、我々を一つに近づけたのです。

 次代の師父はあなた方の中にいます。〈生餐サクリメント〉のためにも、健やかによく学び、兄弟姉妹のための働きを為すように」

 はい、と皆の声が木霊する。では戻りましょうか、というアンナの言葉に従い、私たちは母の元を後にする。

「すごかったね。私たち、あそこから生まれたんだ……」

 熱に浮かされたように口にしたのはバーバラだ。「私はなんだか、むずむずしたよ」とはアポロニアの言。

「あのご先祖様の血が流れてる、って聞いたら鳥肌立っちゃった」とクララが言い、「この聖地を見つけた人たちだもんねぇ」とサウィナが追従した。

「自分がどこから来たのかわかると、面白いよね」隣を歩きながらマリナが言った。「カタリナは、どうだった?」

 五人が一斉に私を見た。注目されると何だかこそばゆい。「私は──」

「──見れて、良かったと思う。あんなもの見せられたら、信心もいっそう深くなるし」

 でも、と私は続けた。おおよその感想は同じだったが、疑問もあった。

 誰も話題には出さない。特に知りたいと思っている様子もない。私もたいていは「まぁいいか」と思って過ごしているけれど、こういうことがあると刺激を受けて興味が湧いてくる。

 私は言った。

「〈生餐サクリメント〉って、何なのかな」

 みんなが顔を見合わせた。代表するように、クララは「さぁ……」と首を傾げた。

「救疫の秘蹟に関わることなんでしょ? 修道士長も先生たちも、『秘蹟についてみだりに語ることは冒涜ですよ』って言ってたし」

 マリナは頷き、

「きっと、知らなくてもいいことなんだよ」

 ね、と言って私を諌めた。

「……まぁ、そうだけど」

 そう言われることはわかっていたので、すぐに引き下がった。知らずとも生活を送る上で支障はない。所詮はただの好奇心だ。「勤勉は美徳だが、余計な好奇は悪徳である」とも教わっている。

 結局、私はそれ以上の疑問を口にはしなかった。誰も答えを持っていないのは明白だったし、マリナがあのように言っているのに、わざわざ追求する意味も見出せなかった。

 儀式については、ほとんどが謎に包まれている。具体的な内容は伝えられず、知る術もない。だから、儀式は漠とした指標として位置付けられ、身を寄せ合って漫然と過ごす日々が続いていく。

 勉強と試験は将来的に与えられる役割に関わると聞いていたから、私もマリナも頑張っていた。無知ゆえに具体的な理想は描けない。ただぼんやりと必要に迫られて、私たちはよく学んだ。

 基礎的な語学や計算、使いどころのわからない〝一般常識〟に加え、頭にパッチを貼り付けて映像を見たり、数日の様子を記録されたりすることもあった。

 努力の甲斐もあってか、私とマリナは試験においてとりわけ優秀な成績をおさめていた。重視されたのは二つの要素、孤立性持続点数と共感性融和点数だ。私は前者が全体で最も高く、後者が最も低かった。対してマリナは両者共に高得点を叩き出しており、総合点で彼女に敵う人は誰もいなかった。

 試験を通して、私たちは適正を見出されていく。共感能力が高く求心力のあるバーバラと、情に流され易い彼女に道を示し支えるアポロニア。話を作り語るのが得意なクララと、そのお喋りを温かく受け止めるおっとりとしたサウィナ……。「互いにとって良きものであれ」その言葉に倣い、ほとんどの配偶子同士は、相補的な関係を維持しながら成長していく。それは私とクララも同様だった。マリナは私と外の世界を繋ぐ楔のようなものだったし、マリナにとっての私は、不意に湧き起こる孤独を共有できる最も身近な存在だったのだ。

 時は豊かに、ささやかな幸福を乗せて過ぎ去っていった。

 やがて、私たちは二つのクラスにわけられた。私とマリナを含む数組と、それ以外だ。〝集会〟のメンバーと離れ、部屋も変わって六人は二人になった。説明は最小限だった。「役割の違いだよ」と先生は言った。

 白く清潔な箱庭で、呪いと無縁のままに時を重ねる。外の世界に触れることなく、無形の知を積み上げていく。常識と習慣は人々の中で共有されている。〈バイブル〉で読むような異端の存在が生じる隙もなく、秩序は保たれ、私たちは愛と慈しみによって守られている。

 健やかであれ。清らかであれ。

 その愛と願いは、かつての人類と同じ道を歩まないための、最大限の抵抗なのだろうか。

 旧世界が終末を迎えたのは、ずっとずっと昔の話だ。終わりが近い六十近くの老人たちが生まれるよりも、ずっと前の話。まさか、その時の後悔が、戒めが、未だに生きているとでも言うのだろうか。

 想像もつかないことだ。私にとっては、物語なんかよりも遥かに幻じみている。

「当時を生きた人は、もういないはずだよね」

 戯れに話を振ると、マリナは配給の〈万能食マナ〉を飲みこんで、そのように言った。

「だとしたら、どうしてそんな習慣が続いてるんだろう。だって、理由がないでしょ」

 自分の体験にないものにそこまで執心できるものなのか。それがどうしてもわからなかった。彼女はうーんと唸ってから、

「どうかな。もしかしたら、やめられないのかも」

「やめられない?」

「帯化した花が何世代にも渡って続くように、ね。システムとして記述プログラムされた結果、その摂理の円環、連鎖から逃れられなくなる」

「望もうと望むまいと、関係なく、ってこと」

「そうだね」

 マリナは頷いて〈万能食マナ〉を齧った。口の端に滓が付いている。指を差すと照れくさそうに「ありがと」と言って指先で拭った。

 〈万能食マナ〉は食物プラントで生産され、皆に等しく配給される。大切な恵みだからしっかり食べるように、と先生たちは言い、他に選びようもないので、唯々諾々と従っていた。

 マリナの言に従えば、この食事も〝習慣〟と似たようなものだろうか。システムの一部、全体を円滑に進行させるための部品ソースコード。望ましい結末を得るための予定された記述プログラム……。

 やめられず、逃れることもできない無限の輪。それは、ずっと続いていくものであるに違いなかった。変化を拒み、形に固執し、過去から現在を貫いて、未来まで、ずっと。

「お隣、いいかしら」

 抜け道のない思考に沈みかけたところで、背後から呼びかけられて現実に引き戻される。声の方を見ると、サウィナとクララが皿を持って立っていた。「どうぞどうぞ」二人が座ったところで、今度はアポロニアとバーバラがやってくるのが見えた。「マリナのところに行こっか」「うん」彼女たちとも簡単に挨拶を交わした。食事の時間は数少ない交わりの時だ。〝集会〟のメンバーで集まり、紡錘形で歯応えのある〈万能食マナ〉を半ば義務感で胃に収めていく。会話が唯一のスパイスだ。

 しばしの団欒だ。もう王国の物語を書くこともなくなってしまったが、それでも、皆で集まることができるだけで、マリナは嬉しそうだった。

 マリナが楽しければ、私も楽しかった。私の喜びは彼女の喜びと相関リンクして、そうでなければ私の日々はもっと無感動で、感情に乏しいものになっていただろうと思う。一人だけでは馴染めない。一人きりでは、耐えられない。

 でもそれは、皆同じことだ。配偶子のシステムは、人間個々の脆弱性を配偶子間で補うことにこそ意味がある。そうして互いを繋ぎ止め、毎日をやり過ごすのだ。

 だから、私とマリナの絆が時間の経過とともにより一層深くなっていったのは、最早必然としか言いようがなかった。外在する互いの存在を尊び、他の組の子がそうであったように、言葉を交わし触れ合うことを好ましく思った。私たちは先生に教わったやり方で肌を擦り、重ね合わせ、共感とは遠いエゴイズムの接触による悦びを知った。私はマリナを理解していた。マリナは私を理解していた。

 恐れるものは、何もなかったのだ。

 〝全員同じ〟という凡庸さと、平坦に整えられた時間を、ただ飲みこんでいればそれでよかった。そうしていれば、明日も未来も永遠も、信ずるに足る価値があると思っていられた。

 二人でいれば、きっと大丈夫、と。

 そんな信仰のまやかしが、何よりの真実だったのだ。

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