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 暖かな日は一日もない。二重の窓から覗く世界は、ひどく寒々しく見える。

 空から翳りが晴れることはなく、教会の外壁はたなびく雲に混じり色褪せる。街の住居群は静けさの中に微かな光を灯し、閉じた目蓋の裏を照らす血のように朧げに霞んでいる。罅割れ凹凸の浮いた地面の端々には奇形の花が咲き、赤や青などの鮮やかな色彩を刻んでいる。

 点々と灯る青白い光に照らされたリノリウムが粘ついた輝きを放つ。時折すれ違う先生が着る修道服の青緑が目に眩しい。呪いからの防御と清潔を意味するその色は、生命と輪廻を示す赤と並ぶ教会の象徴だ。私たちを生かすこの二色は、道端に咲く花のように、淀みを背にしても眩しく映る。

「何を見てるの?」

 振り返った先で、茶色の長髪が揺れる。彼女──マリナは不思議そうな顔をして、わずかに首を傾げた。

「あれだよ」

 問いに答えるつもりで、窓の外を指差した。マリナが寄ってきて隣に並び、「どれ?」と目を凝らす。

「あの花。〈図書館バベル〉で見たのと形が違う。帯化たいか、っていうらしい」

 ややあって「あ、本当だ」と声が上がった。幾つかの花の頭が帯状に連なっている。「なんだか、ちょっと気持ち悪いね」

「呪いのせいらしいね。私たちも、加護がないとあんなふうになる」

「おかしくなっちゃう?」

「かもしれない」

 答えながら、そんな事例は見たこともないけれど、と内心でつけたしておく。大人は皆、加護のおかげで健康だし、私たちはこうして保護棟アサイラムの中で守られている。脅威、という言葉は知っていても、それが意味することの実感を私は持たなかった。

「じゃあ、早く大人にならないと」

 マリナは真面目な顔をつくりつつ、軽い調子でそう言った。

「時間は加速しないけどね」

 おどけて注釈を入れ、二人で小さく笑う。世界の時は停滞している。自分たちが今この地点から成長することなんて、想像もできなかった。ずっと同じままだと思いこんでいる。それでも、ふと周囲を見渡してみると、景色は少し変わって見える。良くも悪くも、私も、マリナも。

 今日は数日に一度行われる〝集会〟の日だった。思わず立ち止まってしまったが、マリナに促されて、先を急ぐ。

「いつか、ここから逃げ出したいと思う?」

 不意に、前を行くマリナがぽつりと言った。「私に聞いてる?」と問い返すと、「他に誰がいるの」と微かに笑う。

 私は歩みを止めずにしばし考えてから、はっきりと答えた。

「思わない。ここより外に、私が生きていける場所があるとも思えないし。それに、不満はないんだ、別に」

 後ろ姿は変わらない。「そっか」と短く応えて、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 不満はない。それは嘘偽りない本心からの言葉だった。というより、不満を抱くほどの選び取りを、私は現実において想像することができなかったのだ。

 どれほど〈図書館バベル〉にアクセスしようとも、得られるすべての知識、思い描けるすべての光景は、私の中で確かな実感を形成しないまま、次第に色褪せ朽ちていく。積み上げられるだけの現実はここにはない。かといって、そんなものが外にあるのかといえば、それも怪しいところではある。検証しようのない問いばかりが山積していくが、それ自体に確かめるべき価値があるのかも、私には判別がつかなかった。

 子供は保護棟から出ることができないと言われている。外に出ると、呪いに侵されて死んでしまうのだと教わった。どうして大人は平気なのか、と聞くと、二つの儀式を経たことで加護を得ているからだと説明された。

 〝大人になる〟とはつまり、加護を得て教会の外へと出ていくことだ。その意味で、私たちは胎内にいるのとそう変わらなかった。羊水の中で外の危険から遠ざかり、浮かび、揺れて、時々身じろぎをする。

 大人という存在自体、私たちにとっては縁の薄いものだった。というのも、ほとんどの人は外で働いていて、それゆえに接触することがあるのは先生たちくらいのものだったからだ。

 先生──つまりは教会に属する修道士の大人たちは、時々、誰かと会話しているかのような独り言を口にすることがある。当然、私たちにその会話の相手は見えないし、誰と話しているのか、なんてことを尋ねても、返ってくるのは「大人になったらわかるよ」という曖昧な答えのみだった。

 見えない誰かと喋るとき、先生たちは皆楽しげだ。

 でもそれは、表出される感情が単一であることを示すわけではない。穏やかな表情で、けれど少し寂しそうだったりもする。マリナはそれを見ると、胸が締め付けられる思いがして、妙に落ち着かなくなるそうだ。

「だって、一緒にいられるわけじゃないんだよ?」

 マリナはそう言ったけれど、私にはその感覚がいまいち理解できなかった。そこにいる・・と信じられれば、それは一緒にいるのと同じではないか、などと考えもした。とはいえ、マリナの言うことはたいてい正しいので、私は「そうかも」と素直に頷いた。

 マリナは、私なんかよりもよっぽど世界のことが見えている気がする。だから、遊んだりする時も、困ったことがあるとついつい頼ってしまう。あまりよくないとわかってはいても、なかなかやめることができない。

 遊び、といえば、教会での暮らしにおいて、娯楽はさほど多くない。物心ついた時から、ままごとや先生が用意してくれる幾つかのゲーム、図書室で本を読む以外は、会話で暇を潰すのがほとんどだった。特に好まれたのは、創作の話を順番に語っていくのと、噂話だった。子供たちの中ではクララがその手の話に長けていて、私とマリナ、バーバラとアポロニア、クララとサウィナの六人でよく集まっては、彼女の語りに耳を傾けていた。

 それが〝集会〟だった。女子保護棟の姉妹のうち、同室を割り当てられた私たちのささやかな楽しみだ。

 与太ともまこととも知れない、曖昧な物語。そこに混ぜこまれた真実の確度は推し測りようもなく、知ろうとも思わなかったが、信憑性の程度はさほど重要ではなかった。その語りが内包する現実の断片が、私たちの妄想の中で生き生きとして、退屈な時間に気を紛らわしてくれればそれで良かったからだ。

 保護棟内の遊戯室にやってくると、既に他の子は席についていた。真っ先にクララが気づいて「遅い」と非難の声を上げる。「ちょっと寄り道」と正直に答えながら、マリナと並んで腰を下ろした。

「今日は、どこから?」

 サウィナがゆったりとした口調で言うと、「王国が衰退し始めたあたりね」とクララが答えた。

「このままなくなっちゃうのかな……」

 そう呟くバーバラは、登場人物に随分と入れこんでいたからか、どことなく寂しげだ。「なんとかなるよ」とアポロニアが励ましていた。

 〈バイブル〉に記録するのは、この中で一番器用なマリナの役だ。前回の内容を〈図書館バベル〉から呼び出して、文字盤に手を添える。

「それじゃ、始めよっか」

 クララが音頭をとって、存在しない王国の物語は再開される。在り得ざる王国──私たちの中で共有される一つの幻想は、苦難と繁栄の時を経て、次第に終わりの時へと近づいていた。

 どんなことであっても、最後は必ず訪れる。生命や魂が循環し、やがて一つの形を成すように。世の摂理として、あるいは次の国へと繋ぐため、滅びの後、今一度やり直すために。

 未来のことは、正直よくわからない。それはあまりに途方もなく、私にできる想像の範疇を優に超えている。けれど、現実の上に形作る物語であれば、まだやりようはあると思えた。偽史を塗り重ね、積み重ね、正しさから遠く離れた場所でなら、私たちは何度だって、やり直すことができる気がする。

 世界が彩りに乏しくとも、私は色を知っている。代わり映えのない日々の中で、言葉を起点に描く光景こそが、他のどんなものよりも、確かな輝きを放っている。


 物事に夢中になると、時間は瞬きの間に過ぎ去っていく。修道士の先生が呼びに来てやっと、礼拝の存在を思い出した。

 〈バイブル〉を脇に抱え、急ぎ足で生骸堂カセドラルへと向かった。曇天の向こうでは太陽が最後の火を燃やし、空には赤が滲んでいる。「急げ急げ」誰かが言った言葉に後押しされて、少しだけ走った。

 教会は、街の行政機能が集約されている中枢棟ターミナルと、二十歳までの子供が過ごす二つの保護棟アサイラム、そして主に礼拝で使用される生骸堂カセドラルの四つの建物を中心に、大小五つの施設が接続して構成されている。中心部には先の三棟が凹状に並び、軸となる中枢棟の背後に生骸堂の尖塔が配置される形だ。

 中枢棟ターミナルには用がないので、あまり行くこともない。老人たちが住んでいて最後の時を待っていると聞くけれど、実際にその姿を見たことはなかった。私たちの生活とは、完全に切り離されている。

 礼拝にはどうにか間に合うことができた。胸を撫で下ろし、各自の席へと向かう。配偶子ごとの割り振りなので、私は変わらずマリナと一緒だ。

 生骸堂カセドラルは、〈バイブル〉で見たゴシック建築というものによく似ている。吹き抜けとなっている身廊には、礼拝で使用される長椅子と儀式のための聖卓が整然と並べられ、くすんだ黄金の装飾は鈍い光を放ち、仄暗い空間にわずかばかりの煌めきを灯している。

 時間になると、一面を静寂が覆った。硬い靴音が反響し、内陣チャンセルに置かれた説教台の奥に一人の男性が姿を現した。生命の証たる暗い赤色の衣に身を包んだ彼こそは、教会の長にして救疫きゅうやく秘蹟ひせきを修めし賢者──師父ロクスだ。

 彼の外見は、もう何年も同じ状態を保っている。一種の不老──これこそが、救疫の秘蹟の為せる業の一端である、と先生はよく言っていた。

「──夕刻の祈り」

 深みのある低音と共に、目蓋を下ろす。幾度も繰り返してきた祈りのかたちだ。師父が救疫生書きゅうやくせいしょの一節を読み上げる声だけが、生骸堂に朗々と響き渡る。

 救疫生書には、争いにより大地が呪われ故郷を失った人々が、苦難の旅路の果てに聖地へとたどり着き、繁栄を手にする物語が描かれている。物心ついた頃には読み始めるので、ゆくゆくは誰もが暗唱できるようになるというくらい、私たちの生活と密接に結びついたお話だ。

 薄眼を開けてちらと隣に目をやると、すぐ傍にマリナの横顔がある。器用で、賢く、穏やかで優しい、私のマリナ。唯一無二の配偶子パートナー。彼女は真面目でもあるから、しっかりと祈りに集中している。

 誰もが皆、生まれた時から配偶子パートナーが決められている。配偶子はのちの儀式における相性の観点から、生理的に近い同性と決まっていて、兄弟姉妹として育てられることになる。例えば、私にとってはマリナがそうで、私たちは一人の時間というものをほとんど持たなかった。それは、いずれ訪れる儀式に向けて、互いを理解し慈しむ心を持つためだ、と先生は言った。

 ここでいう儀式とはすなわち、〈契約コミュニオン〉と〈生餐サクリメント〉だ。私たちは成人までをそれらの儀式のために過ごし、以降は家族や兄弟姉妹のための働きに従事していく。適正ごとに割り振られた役割に沿って、ある人はプラントで食物を育て、ある人は生活必需品の生産を管理し、ある人は教会で修道士となる。

 設計され、予定された行程を私たちはなぞっていく。このゆるやかな秩序の波に揺られ、過去にこの地で生きた人々の骸の上を歩む。

 祈りが終わると、マリナと目が合った。私はぼんやりと、知性を宿したその静かな瞳に、私はどう映るだろうと考える。習慣と化した信仰の日々に、彼女は何を思うのだろう?

 私は、何でもない、という意をこめて首を振った。前を向き、師父の説教が始まると、横から伸びてきた手が私の甲にそっと触れた。血の温もりが、皮膚を柔らかく包みこむ。

 マリナの優しさと親愛を強烈に感じて、私は密かに身を震わせる。そして同時に、私はふと、物語の王国のことを思い出した。滅びゆく国と、崩れ落ちる王座。その後に何が待ち受けるか、まだ誰も知らない。

 どんな賢王も、時の流れがもたらす滅びには抗うことができなかった。けれど、もしマリナが王であったなら、結末は変わっただろうか。

 私が出す答えは決まっている。マリナなら、きっと変えられたはずだ。過大評価だし、多分に贔屓目で見ているとも思う。それでも、私にとっての彼女は、それくらいできて当たり前の存在だった。

 私は想像する。優しき王の元、豊かな繁栄をそのままに、国は次の千年を迎えたはずだ、と。

 重ねられた手の熱を想いながら、私は空想する。

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