紅芳夢

伊島糸雨

紅芳夢


 汚れきった服を裂き、露わになった土気色の肌に刃を翳す。

 肉体こそが花を育てる。おぞましくも美しく、強かで、枯れることのない徒花あだばなを。

 硬化する前の、柔い枝を切り落とす。腕と脚、腹と胸。滴る血はそのままに、保存容器へと移していく。

 汪紅瑞はかつて、私にこう言った。

「花の価値に相応しい扱いをしなさい」

「花の価値と苗床の価値は、同じものと思いなさい」

 私はあのひとの忠実な僕として、その教えを守り続ける。故に、痩せこけ、肋が浮き、色も艶も喪失した抜け殻を、私は慈しもうと思う。丁寧に、丁重に。

「なぁ、お前は美しかったよ」

 一際立派な右眼の花を断つ。断面から溢れた雫が一筋、彼女の目元に浮かび、血涙となって流れていく。

 彼らの棺に花は要らない。

 范静玲ファン・ジンリン、美しい人。花を売るお前の芳しい香りを、私は今でも覚えている。



郁金香チューリップ桔梗ききょう水仙すいせん金盞花きんせんか水菖蒲アヤメ……えーと、ちょっと待ってね、今の相場は……」

 ズレた電子眼鏡スマートグラスを押し上げ、名前を呟きながら保存容器から花を取り出してから、雨欣ユーシンは手元のタブレットに目を向けた。音声入力された項目から取引額が算出され、彼女がそれを荷台の上から読み上げる。「このくらいかな」

「やっぱり安くなってるな……」

 私が舌打ちまじりに口にすると、彼女は「そうねぇ」と間延びした声で渋面をつくり、

「最近はどうも、大規模庭園で栽培するのが流行ってるみたいでね」

 ロクでもないのが増えたよ、と肩を竦めた。

「迷惑な話だ。汪姐ワンジェが黙ってないだろ」

「ああ、まったくだね。早々に潰してくれると、こちらもありがたいんだけど」

 取引用の携帯端末を取り出し、ケーブルで雨欣のタブレットと接続する。互いに認証を済ませれば、決済は完了だ。「この後一杯どうよ?」と誘われるのに断りを入れて、「一杯じゃ済まないだろ。また今度」と私は言った。

 排気ガスを撒き散らしながらトラックが消えていくのを見送る。もったりとした空気が過ぎ去った後を、薄く磯の匂いを孕んだ風が吹き抜けていく。廃倉庫に隣接した自走式巨大立体駐車場には、薄闇と静寂が等しく満ちていた。

 自前の車両に乗り込みラジオをつけると、日本語の歌が軽やかな調子で流れ出した。細かなニュアンスは未だによくわからないが、音の連なりは嫌いじゃない。端々を口ずさみながら、煙草に火をつけ、エンジンをかける。アクセルを踏めば灰色の景色は移ろって、青空の下、再開発の予定を無限に延期し続ける投棄区画を走っていく。

 廃墟を抜ければ人通りも増し、さらに進めば屋台や商店が並ぶ通りに入る。いつもなら夕飯にはまだ早い時間だったものの、昼食を食べ損ねたのもあり、空腹に耐えかねて行きつけの店の前で停車した。

シェンさん、いらっしゃい」

 奥から顔を出した店主に挨拶を済ませ、「魯肉飯ルーローハン一つ」と言うと「いつものね」と笑顔が返る。初めて口にしたのは日本に来てからだが、かなり気に入って頻繁に食べていた。

 何をするでもなくしばし待つと、湯気の立った丼と惣菜が盆で運ばれてくる。「はい、お待ち」

 礼を言って早速ありつこうとしたところで、携帯端末が震えた。メッセージを広げると、「庭へ」とだけ書かれている。呼び出しの定型文だ。仕事の依頼だろうか。

 時間は特に指定されていないので、多少はゆっくりできそうだと思いながらレンゲを動かす。ひとまずは、腹ごしらえを済ませたい。



 日々を生きるとき、時折、私がまだ弱く、幼く、この手に何も抱えていなかった頃を思い出す。

 資源の枯渇、感染症の流行、気候変動に地殻変動、致死的な疫病の蔓延だって、当時の私には遠い出来事だった。二世代前のオンボロテレビで国営放送の教育番組を見ていると、急にやってきて番組を遮る煩雑で不可解な情報の集合でしかなく、私が了解可能な範囲を超えた、面白くもない非現実フィクションに過ぎなかった。

 現実がようやく私に実感を与えたのは、級友が姿を消した時だった。

 明朗快活な春霞チュンウは、両親とよその共同体単位コミュニットに買い物をしに行って一人だけ帰ってこなかった。聡明な明華ミンファは、一家心中で死にきれずに孤児になった。悪ガキの暁蓮シャオリェンは働くために学校を去り、村一番の美人だった静玲ジンリンは、一家である日姿を消した。

 静玲とは特に仲が良く、頻繁に顔を合わせていた。彼女の家は花屋を営んでいたが、世界的な動乱で花の仕入れができなくなり、その余波で店を畳まざるを得なくなった。そして、一言の挨拶も何もなしに、彼女は消えた。

 かき乱されたのは、私の家も例外ではなかった。父は政府軍に徴兵され、母はその間に蒸発した。私は叔母に引き取られ、彼女は無愛想ではあったものの、父の死亡通知が届いてからも面倒を見てくれた。

 しかしその叔母も、私が成人する前に奇病に侵され、真っ赤な花を全身に宿して死んだ。当時は種類まではわからなかったが、あれはきっと柘榴ざくろだったのだと思う。

 叔母を殺した奇病は、寄生性擬花形成腫瘍症きせいせいぎかけいせいしゅようしょう──あるいは、ギリシア神話において死後冥界の王ハデスの手で花へと変えられた精霊ニュンペーに因み、琉刻レウケ病と呼ばれている。〝種子〟と呼ばれる白色の微小幼体が口や傷口から体内に侵入することで感染し、増殖と成長の過程で肉体の各地に根を張って、やがて花を象った肉腫──擬花腫瘍ぎかしゅようを皮膚の上に形成する。生物を花園へと変じさせ、苗床とした肉体を糧に、季節外れの徒花を開花させる寄生生物感染症だ。感染者の血液・体液に対する暴露が主な感染経路で、この病の特徴でもある発作性の嘔吐にも細心の注意を払わなければならない。治療法も、未だに確立されないままだ。

 にもかかわらず、この偽りの徒花は、「肉の花」という異常性や植物本来の大きさに左右されず発生する希少性から密かに観賞用としての価値を見出され、黒社会においては高額取引の対象となっている。そのため、感染者の密告や、金を必要とする人間が自ら感染を望むケースも場所によっては少なくない。

 初めて故郷の外に出た時、私の腕には赤い花があった。両手いっぱいに摘んだそれを袋に詰めて、なけなしの金で鉄道に乗り込んだ。行き先は近隣で最も大きな共同体単位コミュニット。春霞が消えた街だった。

 感染の危険性もさほど理解せず、よく生き残れたものだと今では思う。幾度も発作的な嘔吐を繰り返した叔母の汚れた部屋の中で、事切れた苗床から肉と皮膚でできた枝を切りとった。その時、私は情動の繊細な部分も切り落として、浅ましく生きると自らに定めたのだと思う。

 戦火を逃れて日本に流れ着いてからは、港湾部のスラム街で一年ほど過ごした。物乞い、盗み、隣人を売ることも厭わなかった。そんなことを繰り返し、このまま死ぬのかと思っていた矢先のことだ。汪紅瑞ワン・ホンルイという名の華僑に拾われたのは。

「あなた、名前は?」

 悪臭漂う暗がりで、彼女は私を見下ろした。そして差し出された手を掴んだ果てに、今の私が存在している。

 汪姐は私に充分な生活と教育を授けてくれた。そして、彼女の盟友であった江汐チャンシーは、花屋・・として生きるすべて──墓を暴き、死体を漁り、花を携え日陰で売りさばく日々を、私に与えてくれた。

沈黎花シェン・リーホアです」

 港湾部旧市街に屹立する都市の楼閣、その上層にある〈ティン〉と呼ばれる部屋は、無機質な冷たさで私を出迎えた。前時代的なネオンに彩られた中華街を見下ろす一室は、一面の紅に満たされている。そして壁面に埋めこまれた巨大な液浸標本の容器と、それらを照らす青い光、浮かぶ泡沫と、滴るような紅い花たち。

「いらっしゃい」

 石蒜ヒガンバナのケースを愛おしげに指先でなぞりながら、紅い旗袍チーパオに身を包んだ女が現れる。私はその仕草を見るたびに、少しだけ心が揺れる。

 港湾部に巣食う黒社会の女帝、汪紅瑞ワン・ホンルイ

 彼女からはいつも、華やかな悪徳が匂っている。

「急に呼び出してごめんなさいね。頼みたいことがあって」

 彼女は「座って」と言って中央のテーブルを指し、自身も私の向かいに腰を下ろした。身のこなしは悠然と艶やかで、いつも目を奪われる。彼女は呼吸を挟んでから、薄く紅を塗った唇を開く。

「今回は、特別な花でね。もう雨欣ユーシン辺りから聞いたかもしれないけれど、大規模庭園をやっている馬鹿共も探している逸品なの」

「特別、ですか」

 私が復唱すると、彼女は頷いた。目を見据え、柔らかな声音で続ける。

「元より、そっちの方には退場してもらうつもりでいたのよ。ちゃちな商売をしている分には見逃していたけれど、最近何かと鬱陶しいし、スラムから人を拉致して花を植え付けるなんて迷惑以外の何ものでもないから。でも、そんなところに、花の話が入ってきた。大きく状態がいいとなれば、私としても当然惜しい。先を越されるのは癪に障る。だから、あなたに依頼するのよ、黎花。腕の良い花屋の、あなたにね」

 お願いできる、と汪姐が言う。尋ねる形をとってはいるが、それだけだ。意味するものが変わることはない。

「種類は?」

牡丹ムーダン

 間髪入れずに、答えが届く。

「紅い、牡丹よ」

 病的な紅の蒐集家は、そう言って淡く微笑んだ。



「今日からこの人があなたの老師せんせいよ」

 日本語を学び街での生き方を学ぶ中で、汪姐は私を紅楼の地下にある奇妙な部屋へと連れて行った。解剖室に似たその部屋の中心には背の高い女性が立っていて、汪姐の言葉と共に押し出される私を静かに見下ろしていた。

「こいつが?」

 ぶっきらぼうな問いに、汪姐は頷いた。「そう。あなたの一番弟子」

 蛍光灯の粘つく光に覆われて、その人は古の洞穴に住まう虚ろな怪物のようだった。名乗るべきかと口を開きかけたが、「名前は知ってる。そんなのはどうだっていい」と遮られた。彼女は顔を上げて汪姐と視線を交わしてから、再びこちらを見て「ひとつ答えろ」と言った。

「何がなんでも生きたいか?」

 何を当たり前のことを、と当時の私は考えた。どこに死にたくてスラムを這いつくばる奴がいるというのだろう。私は一も二もなく首肯して、彼女はその様子を愉快そうに眺めていた。

「なら、ここで生きるためのすべてを教えてやる。逆らうなよ。友の期待を裏切りたくはない」

 彼女はニヒルな笑みを浮かべて私の髪を乱暴にかき混ぜた。汪姐とは違う手つきで、けれどどこか温もりを感じる触れ方だった。

 私は老師せんせいの弟子となった。師は名を江汐チャンシーと言った。区別がつかなかったが、どうも日本人らしいという話は、しばらく経ってから風の噂で耳にした。

 江汐は汪姐の盟友として、長らく組織を支え続けていた。汪姐が始めた琉刻レウケ病末期患者を対象とする擬花ビジネスの先鋒となり、花屋として大きな成果を出してきたのだという。彼女はそういった諸々のことを自ら誇ろうとはしなかったが、〝授業〟の前に汪姐の〈庭〉で茶を飲みながら談笑する姿には、これまでに裏打ちされた確かな親密が見え隠れしていた。汪姐が旗袍チーパオを着るようになったのも、「イメージ戦略だ」と言って江汐が勧めたからだという。

 汪姐の護衛に断りを入れ、ひっそりと扉を開ける度に、私は彼女たちが二人でいる時にだけ見せる表情を垣間見た。紅楼の女帝としてでも、地を這う花屋としてでもない。それぞれが個人として正しく相対し、尊重と慈しみの中で心を通わせる瞬間だった。

 密かな羨望があり、脆弱な夢としての現実があった。日本に来る前、受け止めきれない喪失は荒波となって過去を襲い、成長を願ったいくつもの芽を洗い流してしまった。無二の友、大切な人。一度失くしてしまったものがこれから先得られるものかと、幼い諦念を重ねていた。

 スラムで拾われ育てられた子供は数多く存在したが、江汐から直接指導を受けているのは私だけだった。汪紅瑞という人物が沈黎花という女にどんな資質を見たのかは定かではない。ただ、私は師たる江汐の想定よりも早くに、花屋が必要とする知識と技術の多くを修めていった。人体の機能と構造から、感染症にまつわる諸般の知識、琉刻レウケ病の性質と擬花腫瘍の扱い、そしてそれらの実践まで。花屋の仕事がいかに危険で命を危険に晒すかについても、江汐は余すことなく語って聞かせた。銃の扱いや護身術、生活上の知恵も彼女から教わった。汪姐は時間ができると私たちの様子を見に来ることがあり、「調子はどう?」と聞かれると、江汐は決まって「まだまだだな」と肩を竦めた。

 やがて、江汐が難度の高い依頼をこなす傍、私も次第に単独で花を採取することが増えていった。当初は仕事もすべて汪姐から直接伝達されており、成果物は必ず汪姐へと納められた。私は十全に管理され、収集された花々は彼女の管理の元、お抱えの仲介人を通じて売り捌かれていた。

 雨欣ユーシンと出会ったのはその頃だ。彼女もまた汪姐に拾われた子供だったが、私と違って諸々の商売を担うために育成された存在だった。江汐の後押しを受け、自身の管轄の範囲で花の採取から交渉までを担うようになってからというもの、雨欣ユーシンと共に仕事をする機会は何度もあった。「他人に深入りするな」とは江汐の弁だが、私たちは互いの事情に対して驚くべき無関心を発揮しながら、だらだらと個人で関わり続けた。中華街の飯屋で酒を飲む時も、過去を語らず、未来を望まず、今あるもののみをただ憂えていた。

 欲をかかず、今を生きるために最善を尽くせ、と江汐は言った。

 私は彼女に教えてやりたい。大丈夫。生温い諦念だけが今も私たちを包んでいると。



 端末に送られた仮の身分は、公にも名が知られている医療ボランティア団体のものだった。港湾部でも精力的に活動し、各種治療から看取りまで手広くこなしている。怪しまれずに動き回るなら、最適な肩書きだった。

 昼寝をしていた雨欣ユーシンを電話で叩き起こし、車両に道具一式を詰め込んで中華街を出た。彼女の本職は花の仲介だが、持ちつ持たれつの関係が続くうちに、気がつくと相棒のような存在になっている。彼女の酒盛りに付き合う代償は、仕事の際の運転手だ。

 幾つかの検問を偽装IDで通過すると、通りを歩く人々の装いは徐々に変化を見せた。外見は個人の所属する社会階層を色濃く反映し、健康的で標準化された清潔さを、まるで外敵からの防壁のように神経質に纏っている。

 排他的な都心部には、景色にも、街頭広告のホログラムにも、そこで暮らす人間にも、意図的に色素を抜かれた無垢があった。燈りは絶えずともそこに温もりはなく、ただ光源としての機能のみが望まれている。

 世界的な混乱の季節は、人を極度の潔癖へと変えてしまった。今やこの国の法は一定の民族に類する者のみを庇護の対象として、それ以外を異物と見做し、存在しないものとして扱うようになっている。移民のIDでは満足な医療福祉支援も受けられず、それゆえに私たちは、身分を、民族を、言語を偽り、この地に相応しく受容される形に擬態しなければならなかった。アイデンティティは無用の長物で、しかも偽造IDなんてものが手に入るのは一握りに限られている。

 汪姐に指定されたのは、港湾部の埋立地に形成された投棄区画の中でも不法移民の居住地スクォッター・スラムと化している一画だった。不法占拠地区スクォッター・スラムはたいてい、後戻りできないパズルの様相を呈している。違法に増築された構造物は幾重にも積み重なり、あらゆる利便性や権利を無視して増殖した。人々は僅かな隙間を行き交い、病や虫と共存している。慣れ親しんだ光景だった。

 徐々に公道を逸れて他の車両から遠ざかる。投棄区画に近づくにつれて、景色は不衛生と乱雑を取り入れ始めた。入り口には通行止めのポールがあったはずだが、乱雑に破壊されて見る影もない。

 雨欣に車で待つように言って、簡易防護服を着用し、剪定器具一式を背負って澱んだ隘路に踏み込んでいく。晴れの昼間だというのに、周囲はどこまでも薄暗い。壁面を這う配管は漏水し、肌にまとわりつく湿った空気の中を泥の腐臭が漂っている。日の届かない路地の翳りを、盗電によって賄われた電光が瞬きながら照らし出し、染み付いたぬめりが歪んだ煌めきを返す。

 携帯端末の仮想地図ホロ・マップを頼りに通りを進み、雑居ビルの密集地に入っていく。目的のマンションの裏口の扉は、錆び付いたまま開放されていた。侵入し、表層を欠いたむき出しの階段に靴音を響かせ上っていく。地上階にはまだ人の気配がかすかにあったものの、当該階へ近づくにつれて明らかに静けさの度合いは増していった。忌避されているかのような不自然な閑寂が、澱のように沈殿して足元を埋めた。

 たどり着いた先で鉄扉の前に立つ。鍵はなく、僅かに開いた隙間から不規則に咳き込む音がした。

 扉を開け放つと、嗅ぎ慣れた悪臭がたちどころに鼻をついた。ごく狭い一室には、幾つかの壊れた家具、床にぶちまけられた吐瀉物、古びたベッドの上には、苗床と化した女と思しき人影がある。舞い上がる埃を、染みの浮いた天井からぶら下がる剥き出しの電球が照らしていた。

 そこには確かに、鮮烈な紅い牡丹が咲いていた。

 足を踏み出し、女の病状を確認する。擬花腫瘍ぎかしゅようは腕と脚に幾つかと、服を盛り上げている大きめのものが三つ、そして左の眼窩を完全に潰す形で咲いた大輪の花が一つ。花は開いてから時間が経っており、開ききるのも時間の問題だろう。加えて、左眼の花に至っては──多くの罹患者が同様の症状を呈するように──脳を圧迫して意識障害を起こしている可能性が高い。重症、末期。手の施しようもない。

 感染してから逃げ込んだのか、ここで感染したのか。衛生環境は最悪に等しく、とてもではないが長居する気にはなれない。「……手早く済ませよう」そう独言ひとりごちながら、端末で女の顔を撮影する。こんな無法をしていても、相手はあくまで感染症だ。感染経路の把握と飛び火の防止のため、汪姐は苗床の照合を徹底させていた。

 撮影から間も無く不法移民の捜索リストを元に人物照合が開始され、画面にモンタージュ画像が描き出される。しばらくして示された結果に、私は思わず息を飲んだ。

 女の名は、范静玲ファン・ジンリン

 私の記憶にも、同じ名をした女が佇んでいる。



 范静玲は、村一番の美人だった。「花のよう」なんて陳腐な言葉が、これ以上なく似合うほどに。

 彼女の家に立ち寄ると、店先には甘く豊かな香りが漂っていて、色とりどりの花の合間には決まって彼女の姿があった。私を見かけると嬉しそうに笑って、懸命に手を振っていたのを思い出す。

 静玲からはいつも、甘い匂いがした。一緒に遊ぶ中で、ふと距離が近づくと、私は思わず動きを止めたものだった。すると彼女は不思議そうにこう笑うのだ。「どうしたの、黎花リーホア

 牡丹の咲き誇る肉体へと目を向ける。痩せこけた肉体に、血の気の薄い肌。口元には、吐瀉物の跡が残っている。

「これがお前だって? 冗談だろ──静玲」

 まったく馬鹿げたことに、彼女を見て最初に湧いてきたのは「これがあの范静玲ファン・ジンリンなのか?」という疑念だった。私の知っている彼女は、十代の頃の可憐な姿で停止している。彼女は、こんな、うらぶれて見捨てられた枯れ木のような女ではなかったはずだ。暗く、不衛生で、崩れゆくばかりのこんな場所は、お前には似合わなかったはずだ。繊細な指で花を愛で、晴れた日には店先で眩しそうに目を細めるのが、お前には似合いだったはずだろうに。

 画面に映る彼女の経歴は、ほとんどが空白に覆われている。数度の違法行為と、擬花腫瘍の売買に関わった記録だけが足跡を示し、そこに私の知る彼女の姿はない。

「黎花には赤い花が似合うよ。ほら、例えばこれ──牡丹、とか」

 そんな幼い言葉を交わしたこともよく覚えている。牡丹の花はたおやかで美しかった。けれど静玲は、花の苗床と化し、栄養を奪われ汚れた彼女は、ただただ醜く死を待つだけだ。

 懐かしさがあり、憐憫があった。しかしその一方で、かつて抱いた感傷や寂寥はとうに腐り果て、死体を載せた床に残る人型の染みのようだった。昔日に立つ静玲との繋がりは絶たれたまま、接続することは二度とない。

 ここに来るまで、ずいぶんと色々なものを捨ててきた。家族、故郷、祖国、平和、そして健全さ。理想も指標もありはしない。だから負け犬のように路地裏の水溜りを跳ね飛ばし、主人の命ずるままに閉塞の中を駆けずり回る。腕に抱いた花がどれだけ鮮やかで美しくとも、私はそれと交わらない。卑しく、浅ましく、他者の花を盗み続ける。

 そういう宿命だった。私たちの望まぬ再会も、不可解で不条理な選択の巡り合わせなのだろうか。

「……だ、れ?」

 乾いた唇が微かに動く。反射以上の意味をほとんど持たないような、虚ろな問いかけだった。私は唇を噛み逡巡してから、偽りの身分を告げる。「初めまして。医療ボランティアのチャンと言います。通報を受けて、あなたを治療に」

 女は残った右目をくるくると動かして、時間をかけて私に焦点を合わせた。「お医者、様……?」声は掠れて小さく、滞留する廃墟の影に消えてしまいそうだと思う。「ええ、そうですよ」白々しい嘘だが、これ以外の手は思いつかなかった。

 衰弱は見た以上に著しかった。琉刻レウケ病では症状が急激に悪化するケースは少なくなく、そういう場合は大抵、寄生生物の方が宿主を無理に生かそうとして苦痛の期間が延長することになる。人の残骸──過去に対応した罹患者たちも皆、一様にそう形容する以外にない有様ではあったが、彼女はそれがより顕著だった。

 これまでの経験と、教え込まれた採取の手順に則れば、私はこの時点で注射器を手に取るべきだった。持ち込んだ剪定器具──琉刻レウケ病罹患者を安楽死させ、花を採取し、その遺体を焼き尽くすための道具たち──は、私の選択を待つように沈黙を保っている。私は選ぶだけでよかった。私はただ、己が職務に忠実であればそれで良いはずだった。

 苗床と化した以上は、生かすだけ時間の無駄だと考えていた。苦痛を徒らに長引かせ、混濁する意識が人間性を失っていく様を眺めることに、どれほどの意味があるのかと。今でもその思いは変わらない。変化する余地のない現実として、私に重くのしかかっている。

 だというのに、私は──その一歩を、割り切ることができなかった。

 私の知る言葉で、これはきっと未練と言うのだろう。

「……あなたは、どうしてこんな場所に?」

 応答に期待はしていなかった。もとより知る必要のある情報でもなく、ただでさえ死にかけの状態で、まともな会話が成立するとも思えなかった。これは私の自己満足だと、言い聞かせながらの言葉だった。

 だから、静玲が私の言葉に応えた時に安堵に似た息が漏れたのは、仕方のないことだったと思う。

「……昔」

 静玲はどこか懐かしむように、ゆるやかに言った。

「昔、まだ海を渡る前は、花屋だったの、私の家は。季節ごとにたくさんの花を揃えて、店先で売っていた……、けど、花が消えて、お金がなくなって……他の移民に紛れて、ここに……。誰にも別れを言えなかった。友達──確か、リー……」

「……黎花リーホア

「そう、黎花、だったかな。よく、一緒に遊んだ……」

 変わり果てた声で名前を呼ばれ、その音の連なりが耳奥でひりついた。寝返りも打てず、花の根に脳を圧迫されて視覚に障害が出た状態で、何もできないまま、ぼんやりと染みの浮いた天井を見つめている。この、社会の片隅で。この、都市の廃棄場ゴミ溜めで。

 私こそがその友であると伝える気にはなれなかった。この場、この状況で、間も無く崩れゆく彼女に語るべきものを、幼い沈黎花は持たなかった。二人の間で揺らいでいた文脈は、既に終わりを迎えている。これから起こるのは、二度目の終わりに過ぎないのだと思う。

「ずっと……怯えて暮らすしか、なかった。パパも、ママも、すぐに死んだ。病気だった。わ、わたし、だから、汚いことたくさんしたん、です。それで、ずっと来て──この前、一週間……たぶん、そのくらいに、捕まりそうに、なって。逃げて、きて……病気だって気付かなくて、動けなく、なって……誰も、助けてくれなくて……、つ、罪を……穢れ、が……わたし、あるから。だから、わたし、きっとこうなん、ですよね、先生……醜い、この、身体で……」

 嗚咽とも呻きともつかない音を、栄養を奪われ枯れ木と化した肉体で奏でていた。甲高く通り抜ける隙間風に攫われて、跡も残さず消える程度の悔悛だった。

 こめかみを涙が伝う。その対の位置では、泥中に浮かぶ蓮の如き気高さで、大輪の牡丹が咲き誇っている。

 人の終わりは醜悪だ。どんなに秀麗に彩られたとしても、その表層の下では、苦悶と後悔と悪足搔きの痕跡がくっきりと残る。目の前の、この一人の女のように。

 けれど、私は首を振ってその事実を偽った。「お前は美しいよ、静玲」

「私がこれまでに見た何より、お前は美しいとも」

 それは紛れもない本心でもあった。花の価値は苗床となった人間の価値とイコールで、私は静玲の生の過程を知り得ない。だからこそ、私が知り得た過去の一点と現在の一点において、私は彼女の美を保証する。

 これが、今できる最大限の、私からの手向けだった。

 静玲の表情は徐々に彩りを失い、夢現を揺蕩って呆と弛緩した。唇の合間からひゅーひゅーと呼気を漏らし、うわごとのようにポツポツと言葉を残す。私はもう声も上げなかった。語るべきものは、もう何もなかった。

「わたし、にはね、先生。十代、のあの頃が、一番、幸せだったの……。パパとママがいて、黎花も、みんなが、いて。花が、あって……わたしにとっての、春だった。春は好きよ。暖かくて、柔らかいから……」

 櫻花サクラ桃花モモ水仙スイセン郁金香チューリップ水菖蒲アヤメ銀蓮花アネモネ杜鵑花ツツジ勿忘草ワスレナグサ門氏喜林草ネモフィラ──彼女は歌うように花の名を諳んじてみせた。いくつもいくつも、弱まる声も意に介さずに、鮮やかなグラデーションを描く晴天の花畑を彼女は駆けていく。私にはその姿が克明に想像できた。私は覚えている。私だけが覚えている。共に過ごした懐かしい日々のことを。

 そして、消え入る灯火の最後の光として、彼女は言った。

「──それから、牡丹。牡丹の花は綺麗ね、先生。今でも夢に見るのは、紅い花の色だもの……」

 微かな吐息だけが残って、それ以上の言葉は続かなかった。突然のことに死んだかと思ったが、息はある。気を失っただけのようだった。

 私は立ち上がり、剪定器具に手をかける。

 打ち捨てられた廃墟にあって、牡丹は一層気高く妖艶に咲き誇っている。うっすらと開いた目蓋の奥で、濁った瞳が小刻みに揺れる。安楽死のための薬剤は私の手中に握られて、凍える廃墟の陰鬱を満たし、活躍の時を今か今かと待ち望んでいる。

 都市の片隅、貧困と澱みと病に彩られたこの埋立地ゴミ溜めで、友が朽ちて実体を失い、ただ微睡みの記憶に変じてゆくのを目の当たりにする。

 錆びつき軋む思い出の彼方で、笑顔は花に埋もれていく。

「さようなら、静玲」

 呟いて、薬剤を首筋に注射した。

 時間はかからない。微弱だった生命活動は瞬く間に終わりへ向かい、震える瞳は動きを止めた。

 虚ろな視線を目蓋で隠す。湿った匂いに顔を上げると、汚れた窓を水滴が流れていった。

 いつの間にか、雨が降り出していた。


 携帯式簡易焼却炉コフィンの小窓から見える身体は、時間をかけてじりじりと焼けていった。私はバランスの悪い錆びた椅子に腰掛け、肉体が燃え尽きるまで見つめていた。

 花と遺灰を回収し、防護服と手袋にマスクを外して廊下に出る。雨水は汚穢おわいに腐臭と溶け合って、音を立てながら側溝を流れていく。懐から取り出した端末の電源を入れ、煙草に火をつけると、すぐに雨欣ユーシンから通信が入った。画面に間抜けな猫のアバターが出現し、『終わった?』と口を開く。

 静玲は死に、紅芳はこの手の中にある。私は芋虫のように伸びた灰を落とし、「うん」と言った。

『迎えに行く。待ってて』

 猫が消える。吐き出した煙は湿った空気の中を気だるげに揺蕩って、ゆっくりと霧散していく。



「ご苦労様。大変だったでしょう」

 かけられた労いの言葉に「いえ。それほどでも」と紋切り型の返事を送る。汪姐はにこやかに、「報酬はしっかり振りこんでおいたから」と言った。

 花の入った保存容器を手渡すと彼女はそれを一瞥し、中身については一切触れないまま、コレクションに加えるよう側近に指示を出した。彼女は私に座るよう勧めることなく、私も要件以外は口を閉ざした。聞きたいことは山ほどあった。「あなたはどこまで知っていたのですか」「私を向かわせたのは、わざとですか」そんな、意味も生産性もない間抜けな問いばかりが、次々に浮かんでは消えていった。

「今日はいい日ね。あなたが花の採取をしてくれている間に、邪魔者も片付いたし」

 汪姐の瞳は私の目を捉えたままだ。誰に語りかけているのかは明らかなのに、どうしてか目眩がした。

「少人数でやってたみたいでね、頭を潰したら後はあっという間。庭園の方はこちらで処分することになったから、もしかしたらあなたの手を借りるかもしれない。その時はまた連絡する」

「……わかりました」

 もう行っていいわ、と汪姐は背を向けた。目頭を揉むと、視界のふらつきは穏やかになった。私はわかっている。私は理解している。この件はすべて彼女の内で完結し、過去以上の広がりを持ち得ないのだと。私たちはどこまでも、偽りの花に呪われているのだと。

 必要な言葉と時間だけが、私たちの間に横たわっている。交わされるはずだった二度と語られることのないたくさんの言葉たちは、ヘドロとなって全身に絡みつき、この肉体を美しい苗床につくり変える。そして勇ましく咲いた花たちは、私たちよりも雄弁にその存在を語るだろう。無言の空想と、振り切ることのできない罪悪感によって。

 汪紅瑞。私の姉のようで、母のようでもあった人。

 彼女が花を集める原動力は、失くしたものへの妄執だ。

 私に生きる術を与えてくれた人。彼女の死を、私もまた忘れることはない。

 感染者数が多く、他の花屋の動向もいまいち読めないと言うので、最悪やらなくても問題ないと汪姐は言ったそうだ。対して江汐は、余所者が下手に処理をして感染を拡大させることを懸念して、依頼を受けることを決めたという。二人で行くようにという汪姉の提案が受け入れられることはなかった。彼女は何も言わないまま、たった一人で行ってしまった。

 何日も戻らない日が続いた。しびれを切らした汪姐が調査を指示したことで、目標となっていた重症者たちが、武装した数人の花屋と共に焼却されていたことがわかった。江汐らしき遺体はなく、行方の知れぬまま一週間近くが過ぎていった。

 汪姐の振る舞いはこれまでと変わることなく、その内奥を測り知ることは難しかった。ただ、沈黙が増え、執務室に嗅ぎ慣れた煙草の香が漂ったのが、唯一明らかな変化だった。

 江汐の生存を私は不思議と疑わなかった。あれほど強く逞しい人が、こんな場所で野垂れ死ぬはずがないと確信していた。彼女は私とも、スラムで目にしてきた人々とも違う。事実として遺体は見つかっていないのだ。何か訳あって、どこかに身を隠しているだけだろう──一週間、そんなことばかりを思いながら日々を送った。

 江汐からメールがきた日は、朝から重い雲が垂れ込めていた。場所の指定に加え、道具一式を持って誰にも言わずに一人で来るように、という短い文のみが添えられていた。私は師の言葉に従順だった。あの時汪姐に知らせていればこんなことにはならなかっただろうかと、今でもよく考えている。答えが出たためしは一度もない。

 埋立地にある建設途中で放棄されたビルが目的地だった。静寂は泥濘のように沈殿し、階段を上る足を重く鈍らせる。冷たい灰色は青みを帯びて、熱を奪うように私を取り囲んでいた。

 江汐は四階の片隅に横たわっていた。「江汐!」私が駆け寄ると、彼女は疲労を滲ませた声で「遅い」と言った。身を起こす様子もなく、私は近づくにつれて全身から力が抜けていくのを感じていた。

「死んでたら、どうするつもりだったんだ」

 力なく笑う頬には、本来ありえない小ささの、揺らぐ炎のような紅い花が咲いていた。

「因果応報、ってな。よく言うだろ、この国じゃ……」

 上半身にかけていた上着を払い除けると、筋肉質な白い肌には膿んだ傷が幾つも残り、その中央、豊かな乳房の合間には、成長した石蒜ヒガンバナが一輪大きく花開いていた。

 誰が見ても手遅れなのは明らかだった。どうしようもない裏切りだった。馬鹿げたことなのに、「どうして」と口は動いている。乾いてひび割れた唇を歪めて、江汐は言う。「うっかりしてた。待ち伏せして襲われた。全員ぶっ殺して消毒もした。でも負傷して、感染した。まだ説明がいるか? 喋るの、結構辛いんだが」

 江汐が咳き込んでも、私は近づくことができなかった。もはや防護服なくしては、彼女に触れることもできない。

 汪姐の元に戻らなかったのは感染拡大を避けるため。一人で行ったのは私を連れていっても無意味だと踏んだため。それは理解できた。ただどうしても、最後の一つを認めるのが、怖くてたまらない。

 どうして、私だけを呼んだのか?

「黎花」

 私は沈黙して、鮮やかな紅をつけた彼女の顔を見つめるしかない。

 他に、どうすればよかったというのだろう。

「私を殺せ。花を摘んで、あいつに渡せ。この耐え難い苦痛をお前が止めろ。そのために、私は今まで待っていたんだから」

 注射器の冷たさに、手の震え、迫りくる死の匂いと、花の呪い。

 これでいいんだ、と彼女が笑う。これでいいんだ、と私は思う。

 それから先のことは、詳細を語る意味もない。

 私は江汐との約束を果たした。彼女の花にはその一件で生じた損失と比べ物にならないほどの価値があったが、汪姐は決して手放そうとしなかった。あの日、〈庭〉となる前のこの部屋で、じっと石蒜を見つめる姿を、今でもはっきりと覚えている。

 ただ一人帰った私を、彼女がどう思ったかは知る由もない。

 ただ、それでも、私が江汐を奪ったのだと、そう思わずにはいられなかった。

 歪な論理だと理解している。けれど、私が汪姐に身を捧げるには、十分すぎる理由だった。

 たとえ、この関係が、錆の浮いた紛い物でしかないとしても。

 たとえ、どんな仕打ちを受けたとしても。

黎花リーホア

 部屋を出る間際、私は汪姐に冷徹と人情の共存した微笑みを見る。彼女は冷静で、穏やかで……どこまでも、残酷だ。

「お別れは、できた?」

 黙する私を見て小さく笑い、慈愛と憐憫を混ぜ込んで、静かに、けれど朗々と詠うように、彼女は告げる。

「あなたは知っているでしょう。人の命は夢のように醒めることを。雨に打たれた花のようにあっけなく散ってしまうことを。けれどね、黎花。濡れた花は芳しく、悔悛を伴う花は大輪となるのよ」

 ほら、と視線を投げた先には、蒼白の輝きに閉じ込められた肉の花々がある。生きるためと摘んできた、病の証──私はこれなしに、誰かと繋がっていることができただろうか?

 叔母、静玲ジンリン雨欣ユーシン江汐チャンシー、そして汪紅瑞ワン・ホンルイ。誰もが花に埋もれて、顔も見えない。

 そしてそれは、私も同じ。

「友は、大切にね」

 踵を返したところに、家族だったあの人が言う。私は呼吸を止めて、喉を塞ぐ想いを飲み下した。

「わかってますよ、汪姐ワンジェ……」

 言い聞かせるように、わかっています、ともう一度、呟いた。



 花屋として別々に行動することが増えても、江汐は変わらず私の師だった。たまの休日がうまく被ると、彼女は私を車で連れ回し、「経験しとけ」と言って色々のことに私を押し込んだ。突然部屋にやってきては入り口に立ち、「ちょっと面貸せ」と顎でしゃくって、私の要望を聞くでもなく港湾部を巡るのが常だった。私の体験を増やそうとしているのは明らかだったが、彼女は真意を口にしなかったし、私もあえて聞こうとは思わなかった。明言されない曖昧な関わりには、それ相応の安穏があったからだ。

 現前する事実について十全な説明をする一方で、物事の事情や背景というものについて彼女はあまり語ろうとしなかった。江汐自身の経歴や紅瑞との関係がその代表で、信憑性の定かではない噂話ばかりを遠い波音のように耳にした。

 彼女のこれまでについて、ふと尋ねてみたことがある。スラムで発生した小規模な集団感染の処理を終え、久方ぶりの休みとなった日だった。江汐は例によって私を連れ出し、仕事に使う剪定器具の新調と早めの夕食を済ませてから、暗闇の迫る埠頭近くで車を止めた。彼女のお気に入りスポットだった。晴れた日の夕方には、落日がよく見える。

 江汐は車外に出ると煙草を取り出して火を点けた。細い煙の糸が解けるように宙に上っていく。隣に並び黒々とした海を眺めていると、横から煙草とライターを差し出された。なんの気紛れかと思って見上げると、「もういい歳だろ」と江汐は言った。断る理由は思いつかなかった。

 沈黙の中で息を吸うたびに、火はじりじりと口元へと近づいた。元より雑談のようなものはあまりしてこなかったが、その日は何かを話さなければと、不合理な焦燥が燻っていた。

 煙草の燃え尽きる様に、不吉な予兆を見たのかもしれなかった。

「江汐は、どうして花屋に?」 

 彼女はこちらを一瞥してから「気になるか?」と言った。試されているようだと思ったが、実際はただ話題に困った結果に過ぎなかった。正直に「それほどでもない」と答えると、彼女は「馬鹿だな」と言って笑った。

「けど、馬鹿になら教えてやってもいい。すぐに忘れるだろうからな」

 江汐は煙を吐き出す合間に、ゆっくりと語り始めた。

「……あいつと出会った時、私は医大生でな。親も医者で、港湾部に病院を持ってた。まだ比較的平和な時期だったから、後を継げばいいと思ってたよ」

 でもまぁ、そうはならなかったわけだ、と彼女は続ける。

「黒社会のドンパチに巻き込まれて、どうしてか私だけ生き残った。それで、親の仇をぶっ殺した側にいたのが汪紅瑞だったというわけだ。で、ここからが笑えるんだが──ちょうどお前くらいの歳のガキが、私の前に仁王立ちしてこう言うんだ。『私を助けて』ってな。流暢な日本語で、偉そうに。馬鹿じゃないのか、と当然思ったよ。それはこっちの台詞だろ、って。私がイカれたのか眼前の女が正気じゃないのかわかったもんじゃない──だから、手をとった。めちゃくちゃに混乱したまま、そいつに賭けてみようと思った」

「汪姐は……」どうしてそこに、と繋げる前に、江汐は言葉を切り出している。不可解な焦りの渦中にいるのは、私だけじゃないのかもしれないとぼんやり思う。

「あいつはこの辺の黒社会を牛耳ってた親玉の娘で、後継者争いの真っ只中だった。邪魔者を潰すのと、実績を積む必要があった。それだけだ。私に声をかけたのも甘っちょろい同情がほとんどだろう。今も時々、そういう甘さを見せてくる。馬鹿なやつだよ。でも、あいつのために生きるのは、なかなか気持ちがいいもんだ」

 そう言ってから、あっという間に灰になった煙草を放り捨て、もう一本出そうとして手を止めた。私はまだ半分も行っていない。急いだほうがいいだろうかと吸い方を模索していると、思いついたように頭上から声が降ってくる。

「お前はいるか、そういう相手」

 別に過去形でもいいが、と言う補足は慰めにもならない。一瞬だけ雨欣ユーシンの顔がチラついたが、彼女は不良行為を共にする悪友に近い気がして、すぐにかき消した。記憶を探り、年月を超えた先で、一人だけ思い当たる影があった。

 彼女は花を片手に携えて、店の前を通る私に笑顔で手を振っている。

「……昔は、いた。よく一緒に遊んでいた子で、家が花屋だった」

 花屋、のところで江汐は笑った。「そりゃあいい。今のお前なら、花の話で盛り上がれる」

 土の上で咲くのと肉の上で咲くのでは訳が違うだろうと思ったが黙っていた。匂いや感触は記憶に頼る他にないが、擬花腫瘍の外見はほとんど実在の花そのままだ。花の種類についても講義は受けているし、その意味では確かに、会話になるかもしれない。もし仮に、再会が叶えばの話だが。

「生きているかもわからないけど、また会えたら、その時には」

 フィルターまでの数ミリを一息に吸う。地面に落とした吸い殻を踵で擦り、煙と共に息を吐いた。

 白い靄は風に攫われ、広大な海へと漕ぎ出していく。江汐は中途半端に持ち上げた煙草を箱に戻し、「戻るか」と言った。私は海を見つめたまま、小さく頷いた。

 車内に戻り、暗がりにエンジンの重低音が響く。江汐はハンドルに腕をかけると、言い聞かせるようにこう呟いた。

「たまになら、夢を見てもいい。生者の特権だ」

 カーステレオのボタンが押され、ラジオから日本語の歌が流れ出る。江汐は鼻歌と共にアクセルを踏む。



「まったく、どうしてあんたが潰れてるのさ。いつも肩を貸す側のくせに」

 運転席に座る雨欣ユーシンの呆れ顔がバックミラーに映る。「悪い……」口を開くのも億劫だったが、どうにか声になったらしい。「次飲むときは私も誘ってよね。もちろん奢りで」

 後部座席に身体を預け、景色がゆっくりと流れゆくのをぼんやりと眺めた。車窓から覗く都市の景観は滴る雨粒の中で歪にたわみ、差しこむ深夜の街明かりが薄暗い車内を色とりどりに染め上げていく。雨は一日中降り続け、都市のおもてを艶やかに濡らしている。カーステレオから流れるラジオの音が車内に籠り、運転席の雨欣が日本語の歌をうろ覚えのまま口ずさむ。

 酩酊とゆるやかな旋律が、視界を朧げにする。私は夢心地のまま窓に指を這わせ、その冷たい滴りを内側から感じ取る。ここに一つの大きな壁がある。壁は強固に世界を隔て、そのために私たちは互いを顧みることがない。この温度も何もかもが、今となっては遥かに遠い。手を伸ばせども、決して届かぬほどに。

 誰も彼もが、ずっと迷子のままでいる。都市の迷宮を彷徨いながら、大地に埋もれた糧を拾い集め、今を生かすために必死に足掻く。本当は欲しいものがあったはずなのに、この地に来る前から、追い求める色はどこかにあるはずなのに。映し出されるのはいつも、渾然とした色彩の渦ばかり。

 冷たく、清潔で、凡庸であれという不透明な摂理が支配するこの場所で、自身が向かうべき場所を私は知らない。

 雨が悲鳴を霞ませる。異物であった私たちの声も、いつかはこの街に溶け、かき消されるのだろうか。

「少し、眠る……」

 目蓋を下ろしながら呟くと、雨欣は口を閉ざし、ステレオの音量を下げた。雨音とラジオのノイズが、意識の上をサラサラと流れていく。目蓋の裏で、血の薄紅が静かに脈打っている。

 夢にまで見た花の色は、私の身体に宿ってもなお、かぐわしいあかを放っている。

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紅芳夢 伊島糸雨 @shiu_itoh

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