幻肢葬

伊島糸雨

幻肢葬


 狭苦しい地下工房街に、汗と埃と油の匂いが充満する。

 雑多な店の連なりを喧騒が満たし、あちこちに金属の鈍い輝きがぶら下がる。傷痍軍人、機械技師、街娼、むき出しの脚に、腕。失くしたぶんを補いながら、自らを顕示するように装飾された機械たち。

 地下工房街アングラのある旧秋葉原地区は、機械で動く人工補綴物じんこうほてつぶつの街だ。戦時中は軍需物資の集積所として使用され、度重なる爆撃で荒廃して以降は、行き場をなくした人々が、非常時の運送ルートとして建設された地下交通網に集まるようになった。そして遺棄された大量のジャンクパーツで商売を始め、そこに目をつけた機械技師たちが続々とやってきて居座っていき──いつしか地下工房街アングラと呼ばれるようになったという。

 地下工房街近辺には、〝カタワラ〟という 人工補綴物嗜好者プロスティシスト向けの店が軒を連ねる一帯がある。古くは遊郭のあったその場所で働くのは、何らかの肉体的な欠損を抱え、それを機械で補っている人間たちだ。人工補綴物嗜好者は彼ら、彼女らを買い、カタワラの人間は機械の不具合や破損を地下工房街で治していく。私の顧客も、ほとんどがカタワラで働く女たちだった。


 単眼鏡で覗き込んだ肘関節部に、一匹の小さな虫を見つける。ピンセットで摘んでその辺に放り出すと、女は腕を曲げたり回したりして具合を確かめた。笑顔。納得がいったらしい。

「ありがと、先生。今度ウチの店に来てよ、サービスするからさ」

 女は上機嫌で帰って行った。誘いに対しては何も答えなかった。残念ながら、昼も夜も休んでいる暇はない。

 次、と声を上げると、薄っぺらい天幕をかきわけて一人の少女が入ってきた。右腕を三角巾で簡易的に吊るし、入り口で所在なさげに立ち尽くす。その稀に見る端正な顔立ちを、私はよく知っていた。

「またか」

 ため息混じりに言うと、彼女──真野谷まのやハルメはゆっくりと頷いた。

 彼女は度々、客に義肢を破壊されてここを訪れる。

 実のところ、私の元を訪れる客の訴えはそのほとんどがたいしたことのないものばかりで、明確な害意によって破壊されてくるのはハルメくらいのものだった。同じカタワラの女なのに、どうしてこんなにも違いが出るのかといつも思う。

 所在なさげに佇むハルメを手招きすると、素直に私の前にやってきた。座るように促してから、「触ってもいいか」と確認を取る。

 腕を吊った布を取り払う。露わになった義手はフレームが歪み、破損した表層部からは内部の人工筋肉が覗いている。筋繊維にもところどころに断裂があるようだ。人工皮膚も、張り替えなければならない。

 左腕と両脚が無事なのは幸いだった。どれも相応に金がかかった最新モデルの擬似神経義肢だ。先ほど診た女のものとはわけが違う。

「とりあえず外そう。机に腕を置いて」

 旧式のパソコンに接続し、コードを入力して触覚を遮断、ロックを解除すると、上腕部で分離できる。義手を預かり、奥で待っているようハルメに言う。彼女は俯きがちに首肯すると、奥の部屋へと引っ込んでいった。

 ハルメは生来的に、ストレスが高じると擬似神経の接続が乱れやすく、義肢の脱力発作や誤作動を起こしやすい体質だ。まだ重大な事故には至っていないが、今回だって、どうなっていたかはわからない。きっと怖かっただろう。

 ハルメは今、カタワラにある鞍崎という女の店で働いている。戦後間もない頃、店を始めたばかりの鞍崎が戦災孤児のハルメを拾い、私の元に預けてきたのが出会いだった。乱雑に取り付けられた粗悪品の義肢を交換しろ、という注文で、終わるまでは預ける、と言われて大層戸惑ったものだ。言葉はなく、動きも緩慢で憔悴しきった様子のハルメの顔を、今でもよく覚えている。

 それから五年近く、私は彼女の義肢のメンテナンスを請け負っている。相変わらず会話はないが、今ではずいぶんと心を許してくれるようになった。

 ハルメその可憐さと従順さから、一部の金持ちに強く支持され、店の一番人気を保ち続けているという。鞍崎もそんな彼女を重宝して、義肢にもメンテナンスにも十分に金をかけていた。

 彼女の現状に対しては店側でも対策を講じているようで、破壊の頻度はわずかに減ってきていると思う。それでもまだ、ハルメはひしゃげた腕を吊るし、折れた足を引きずって私の元へやってくる。有効な解決策は、未だ見つかっていない。

 十時を回ると人々は活動を控え、灯りは消されて夜が訪れる。卓上灯を頼りに義手の内部回路を修繕し終え、灰皿代わりの金属片に煙草を押し付ける。外装の張り替えは、明日に回すことにした。

「ハルメ」

 呼びかけると、奥から彼女が顔を出す。身体を小さく揺らしているのは、片腕の空白でバランスが取り辛いからだ。

 間もなく日付が変わる。「寝ようか」と語りかけると、頷きが返ってきた。ベッドの縁に腰掛け、右腕と同様に左の上腕義手と両足の大腿義足を外し、身を横たえる。まだ育ちきっていない身体には幼さが残り、生地の薄い寝間着には、肋の輪郭がうっすらと浮き出ている。

 露出した右腕の接続部を指先でなぞる。金属と皮膚の境界、引き攣れの漣、生暖かい凹凸……ハルメはくすぐったそうに目を細め、四肢を欠いた胴を縮こまらせる。

 ハルメは痛みを口にしない。顔を歪め、押し殺した息を漏らすだけだ。

 とうに過ぎ去り失われたことで、ふと痛みを覚えることがある。ハルメは長いこと幻肢痛に苛まれていて、こうして一緒にいても、夜中に痛みで目覚めることは多かった。以前──戦前の比較的豊かな時期なら治療もできたのかもしれないが、この世の中だ。薬は一つ一つが非常に高価で、症状を軽減させるために継続して買うととんでもない額になる。私が肩代わりすることも考えはしたが、現実的とは言い難かった。

 私もハルメも、家族と呼べる相手はいない。私が機械技師として従軍しているうちに親兄弟は皆死んだ。年老いた親は流行病で逝き、兄は精神を病んで命を絶った。帰ってきてみれば家はもぬけの殻で、存在の消えた空白だけがすべてを物語っていた。

 ハルメの両親は、倒壊した建物の下敷きになったと聞いている。彼女自身も四肢を潰され、火傷を負い、現在の姿になった。どちらも単なる不幸だったと言えばそれまでだが、人間の頭というのは妙なもので、それが苦痛でしかないとわかっていても、こびりついた記憶を消してはくれない。

 数時間前まで言葉を交わしていた人間が、死体になって帰ってくる。五体満足で動いていた奴が、腕を落っことして戻ってくる。視線を交わした瞳は、片方潰れて穴になる。顔を上げた頃には、帰る場所さえ失っている。

 どこにいても、私にできるのは補うことだけだ。現実に対処し、補完する。どんな予防をしようとも、私たちを打ち据える運命には意味などないのだと知っている。義肢の取り付けも、メンテナンスも、ハルメにしてやれることだって、その場しのぎの延命に過ぎなかった。彼女の未来に待ち構える多くの苦痛から、私は彼女を守れない。

 だからこそ、ハルメにとって、ここが避難所になればいいと思った。私の身勝手な罪滅ぼし、高慢なエゴかもしれないが、この重たい脳みそでは、他の方法など思いつかない。

 わずかにずれた時計の針が一時を回った頃、耳元をかすかな寝息が撫でていった。束の間の安穏、穏やかな時だ。彼女が悪夢に目覚めるまで、私もしばし、目蓋を閉じる。




 ハルメと私を繋いだ鞍崎という女は、戦中の一時期行動を共にした縁で今も何かと懇意にしている相手だった。性格上馬が合う、とかそういうことではなく、むしろ罵り合うことの方が多いのだが、共有できる過去があるという一点において、私たちは友人であり続けていた。

「しばらくハルメを店に出すな。今の状態じゃ危険すぎる」

 深夜、まだ光の灯る飲屋街で私は言った。グラスに注いだ安物のビールはなかなか減ることもなく、泡を弾けさせながら手の中でぬるくなっていく。定期的に訪れる狭い路地の店はさして広くもないが、騒がしい大通りから離れてずっと静かだ。

 対面には鞍崎が座り、頬杖をついたまま緩慢な動作で猪口に日本酒を注いでいる。彼女は左目で私を一瞥してから、「ダメだ」と要請を一蹴した。

「正気か? ハルメも客も、怪我してからじゃ遅いんだぞ」

 現に、その危険はいつでも付き纏っている。ハルメの何が──あるいは人のどんな性が義肢の破壊へと駆り立てるのかについては、私も鞍崎も頭を悩ませ続けていた。補われたもの、本来あるべき肉の代替品。それらに向けられるものが、快楽なのか、怒りなのか、両者が混淆した背徳なのか。生体工学の発展とあらゆるものを損なう争いの増加と共にその数を増していく人工補綴物嗜好者プロスティシストたち。彼らはこの時代を象徴し、私は自身がその類型に属さないと断言できない。

 鞍崎は猪口の中身を一息に飲み干し、苛立った様子で私を睨む。「わかってないな」

「そんなことになるのは、ハルメに乱暴するアホどもだけだ。いつもの連中にはハルメも落ち着いてる。それよりも上客が離れる方がヤバいんだよ。誰があいつの面倒見てると思ってんだ」

 鞍崎の論理は、間違っていない。生きるためには金が必要で、より多くを生かすためにはそれ相応のリスクを負わねばならない。ハルメは補完された四肢によって十分以上の利益をもたらし、これが鞍崎やそこで働く人間に不可欠な要素となりつつあるのもわかっている。けれど。それはいったいどれほどハルメを延命してくれるというのだろう。燻る怒りは矛先を失って肺腑を焼いていく。私は、落ち着け、と深呼吸をして、早鐘を打つ心臓を宥めすかす。

「……いいか。そんな負荷はな、一時のものじゃないんだよ。心を壊して死んだ奴がどれだけいた? ハルメの義肢が精神の負荷で誤作動を起こすのだってな、あの子がまだ痛んでいるからなんだ。お前だって──」

 鞍崎がテーブルに拳を打ち付ける。食器が揺れて擦れ合い、カチャカチャと音を立てた。カウンター奥の店主がわずかにこちらを見た気がするが、気のせいだったかもしれない。

「うるせえな。わかってんだよ、そんなのは……」

 絞り出すような声だった。不意の疼痛を抑えるように、髪と眼帯に隠れた右眼を手のひらで覆う。そして俯き沈黙を挟んでから、乱暴に酒を注いで流しこむ。「お前は私を粗雑なバカだと思うかもしれないが」

「イカれてるのはお前の方だよ、アツキ。いつまで自分の首を絞めれば気が済むんだ?」

 反射的に否定しようと試みたが、言葉が喉に詰まって出てこなかった。声にしようともがくほどに、論理の網は絡まって私を離さない。

 目を逸らしていただけだと思う。私は自分の傷を埋めるためにハルメに執着し、日々鈍い痛みと鬱屈をもたらす幻肢痛から逃れたがっているのだと。ハルメが私を頼っているのではない。依存しているのは、私の方だ。

「ひでえ面しやがって……私が思うに、お前に必要なのはハルメでもなんでもない。精神科医だね」

 そう指を突きつけ、皮肉げに笑う。「……そこまで言うなら紹介して欲しいね」苦し紛れの言葉だったが、鞍崎はお見通しという顔だ。「知るか。そんな奴がいたら私も行ってる」

 私たちが共有し得る過去の一点。吹き飛ばされ、切断され、落っことされた数多の部品たち。悲鳴と苦悶、嘆願と祈り、爆発と銃撃の鳴り響く轟音。あらゆるものが欠けゆく中で、私にできたのはただ補うことだけだった。鞍崎に空いたあの右目の虚ろな穴も、医師の足りない戦地で、処置をしたのは私だったのだ。

「いい加減、こんな商売やめたらどうだ」鞍崎が言った。

「無理だよ」私は頭を振って答えた。「他の生き方がわからない」

 選択肢はきっとあるのだろう。思索を巡らせ方法を探り力を尽くして歩んで行けば、少しは楽にいられるのかもしれない。けれど、それでも、私にはこれしかないのだ。何もしない日々なんて考えられなかった。悪夢から逃れるためには、目を見開いているしかない。

「そうかよ。じゃあ好きにすりゃあいい」

 鞍崎は舌打ちをすると、再び酒を呷った。私は泡もとうに消えたビールを放って、ぼんやりと鞍崎を見つめていた。

 機械と接続し変化した日常に適応したとしても、肉体との境界には存在しないはずの痛みが残る。頭の中で幾度反芻しても乾くことない血色のように、墓に埋める以前の生きた身体を思い出している。鞍崎が頑なに義眼を拒むのは、喪失による空虚や痛みと向き合うことだけが、自分を繋ぎ止めてくれると信じるからだ。破壊の後再生されるべき一切は、いつか築かれた安穏にあっても幻肢痛を忘れることはできない。過去も今も未来さえも灰にする炎で、己を葬り去らない限りには。

 会話もないまま、夜は静かに更けていった。鞍崎は普段見ないペースで酒を飲み続け、そう時間が経たない内に耳を赤くして、テーブルに伏した。

「……なぁ、アツキ。気が向いたらウチに来いよ。お前にまで死なれちゃ、かなわないからな……」

 譫言のように呟き、手を震わせながら徳利を傾ける。普段ならおくびにも出さない弱音だった。らしくもない。

「飲み過ぎだ」

 残った酒を取り上げ、勘定を済ませる。ふらつく鞍崎に肩を貸して、店を出た。

 途中、気持ち悪いと言う鞍崎を路地裏の陰で吐かせてやった。「……すまん」としおらしいのに少し笑い、「昔よりマシだろ」と背をさすった。

 鞍崎は悪人ではない。ただ、命を預け合ったあの時から道はわかたれて、譲れないものと代えられないものが増えただけのことだ。時を経るほど心は固くなり、私たちは生きることばかりが下手くそになっていく。

 ハルメが笑うところを、もう長いこと見ていない。だからこそ、こんな地下ではなく、こんな無力な大人ではなく、温かな日が差す蒼天の下、暴力とも無縁の世界を、いつか見せてやれはしないかと、思わずにはいられない。




 血塗れのハルメが飛び込んできた時、私はまだ診察の最中だった。

 唖然とする客を無理やり帰らせ、息を切らしてへたり込む彼女の元に駆け寄った。鞍崎の店の女が着る白いワンピースには鮮血が滲み、右手首は千切れて先が消えている。露出し鋭利になった金属部は脂っぽい血にてらてらと濡れて、ぽたぽたと赤が滴っている。

 首筋には赤い手の跡がくっきりと刻まれ、服を捲ると、いくつもの痣が露わになった。ハルメは目を見開いて呆然と身を震わせている。鼻先と頬の血を拭い、その身体を抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫だ、ハルメ……」

 生温い呼気が、肩口で不規則に蟠った。

 おおよその事情は想像がつく。おそらくは、乱暴された拍子に義肢が誤作動を起こし、客に突き刺さったのだろう。恐れていた事態が起きてしまったということだ。ハルメの立場を考えれば、状況は最悪と言っていい。

 事故だと説明しようにも、言葉のないハルメに証言は不可能だ。何より、相手はカタワラでわざわざハルメを指名するような客なのだ。報復は避けられないし、鞍崎は立場上身動きが取れないはずだ。こんなところで変に庇っては、自分の方が潰されてしまう。誰も頼れはしない。

 しばらくすると、呼吸が落ち着いてきた。ハルメが顔を上げて私を見る。涙に潤み黒々と光を反射する双眸は、何かを探すようにくるくると蠢いている。私はしばし逡巡してから、一つだけ問いかけた。

「……死んだのか?」

 ハルメは弱々しく頷いた。



 決断は早ければ早い方がいい。何を選んだところで無駄にしかならないとしても、結末までの過程は塗り替えられる。

 私はハルメと逃げることにした。地下工房街アングラも何もかもを捨てて、唯一慈しむことのできる彼女の肉体と、この閉塞から抜け出そうと思った。ハルメの傍にいる方法が、他には思いつかなかった。

 潮時だったのだと思う。元より、この地下に期待を寄せるほどの未来はない。末端部で行き詰まり、ただ鈍い痛みを返すだけだった。喪失を抱えたまま、暖かな希望を抱くこともままならずに、漫然と同じ日々が続いていく──幻肢を大切に抱え、不意に思い出しては涙する日々を繰り返すのだ。

 ずっと、逃げ出してしまいたかった。この憂鬱な記憶から、補いきれない現実から、ハルメが傷つく小世界から。私は「ごめん」と呟いた。ごめん、ハルメ。いなくなってしまいたいのは、私の方なんだ。

 血が隠れるように上着を羽織らせ、いくつかの工具に機材、腕のスペアを鞄に詰める。非常時用の携帯食料を押し込み、隠しておいた札束を引っ掴む。あとは、逃げ切ってから考えればいい。

「行こう、ハルメ」

 惚けたように私を見つめるハルメを起こし、手を引いて走り出す。地図は頭に入っている。地上への出口まではそう遠くない。順調に行けば、十分程度で着くはずだ。

 硬質な指を握りしめ、金属を擦らせながら人波を掻きわける。よろめくハルメを支え、追っ手の存在を意識しながら先を急いだ。今の所、人混みの中にそれらしい影は見当たらない。連中より先に動き出せた可能性は充分にあった。

 地上への道には、物資運搬用の大型昇降機と一般的な小型のもの、点々と突き立つ螺旋階段のおおまかに三種がある。昇降機は街の治安維持要員が警備しているため、選択肢からは外した。多少の時間と労力を伴うが、最も近く安全性が高いのは階段だった。

 地下にいて、地上に用がある人間はほとんどいない。入口周辺にたむろする人影はあるが、気にする必要はなさそうだ。バラックの陰から様子を伺い、頃合いを見て飛び出した。

 駆け込んだ先で、壁に背を預ける。自分の手の震えがありありと感じられて、私はきつく拳を握る。立ち止まってはいられない。先へ行かなければ。

「あと少しだ……」

 ハルメに呼びかけるが、反応はない。それでも、繋いだ手は離さないで、後に続く足音はしっかりと耳に届いた。

 螺旋階段の塔内部は、等間隔に埋め込まれた電灯で淡く照らされている。道行きを照らす光は頼りなく茫漠として、乾いた夜の砂漠に残されるような、そんな感覚を妄想する。どこへ行けばいいのかわからない……空に座す月と星の明かりだけが標となる。いつ果てるとも知れない重苦しい肉体を引きずって、私たちは、あてどなく彷徨い続ける。理想郷を夢見て、無価値な生から逃れるために。

 誰もが孤独で、誰もが痛みの幻影に呻いている。私たちの中で蹲る赤子たちは、その悲鳴を糧に成長し、いつかはこの身さえも食い破るだろう。私たちが必死なのは、終わりまでをどう耐え忍ぶかで、希望とはすなわち、生きるための鎮痛剤に他ならない。

 過剰摂取が身を滅ぼすのは、何であろうと変わらない。無謀な理想の輝きは日陰者を焼き尽くし、手に入らない空虚を植えつけるだけだとわかっている。それでも、ハルメにはせめて、私とは違うものを与えたかった。仮にそれが、叶わぬ願いだとしても。

 だから私は、かつて受けたすべての傷、過ぎ去ってなお痛み続ける幻肢を、地の底に置いて行く。これは埋葬、失くしたものへの葬送だ。この苦界で醜いままに生きるための、一つの終末なのだ。

 ハルメ、と名前を呼ぶ。手が握り返されて、私は微笑んだ。

「いつか、記憶を受け入れることができた時には、墓参りをしよう」

 きっと意味がわからず、首を傾げていることだろう。けれど、別にそれで構わなかった。

 永遠とも思える階段が、不意に途切れた。

 眼前に現れた鉄扉はわずかに開いて、その先の光を細く導いている。取手に手をかけ、一息に引き開けた。

 眩い光に視界が霞む。手を翳して足を踏み出せば、生温い風が髪を攫って吹き抜けていく。

 一面に広がる、青。真白い雲がまばらにたなびき、頭上から降り注ぐ陽光が彼方を白く染め上げている。

 巨大な重機の駆動音が、あちこちで響いていた。瓦礫の山は撤去され、荒廃した地には新たな人工物が芽生え始めている。

 ハルメが小さく足を踏み出して、隣に並んだ。空を見上げ目を細める横顔は、うっすらと笑っているようにも見える。

「さ、行こう」

 私たちは大きく息を吸い、凹凸の残る道を歩いて行った。


 乾いた破裂音が響き渡る。


「えっ」

 腕を引かれてよろめきながら、ハルメの胸に赤が滲むのを見た。何が起きたかわからないというふうに、彼女は自身に空いた穴に視線を落とし、先のない右腕を、私に伸ばしていた。

 そしてもう一度、同じ音が響く。

 ハルメが倒れるのに引き摺られて、体勢を崩す。地面に身体中を打ち付けてようやく、私は痛みを自覚する。

 か細い呼吸は、私のものか、それともハルメのものだろうか。どくどくと傷が脈打つたびに、私の生命が流れ出ていく。地面に擦り付けた頬が熱い。終幕の足音が近づいてくるのがわかる……。

 残った力で、無理やり仰向けになる。「ハルメ、ハルメ」手探りで彼女の指に手を伸ばす。絡め取り、今度は離さないように、きつく握りしめる。

 遠く、男たちの声がする。ぼやけた世界を、太陽が貫く。私はゆっくりと、空に手を伸ばす。

 なぁ、ハルメ。外の世界は、想像よりもずっと、眩しかったよな。

 はるか彼方、届かない光──埋められないなら、どうか、私たちを焼き尽くせ。この激痛を。生と死の、不均衡な幻肢痛を。その熱で、灰にして。

 穏やかな眠りを、私たちに。

 指の合間から、眩い光の放射が見える。

 痛みはもう、感じない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻肢葬 伊島糸雨 @shiu_itoh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ