残り香ボンベ

かがみん

残り香ボンベ

 二分の一成人式を終えたその日、犬飼さんからお手伝いを頼まれた。犬飼さんはぼくにとっての「おとなりさん」にあたる人。犬飼って苗字なのに犬アレルギー持ちで、年齢不詳のおじいさん。とっても穏やかな人柄で、近所の小学生にいっつもあめ玉をくれるようなやさしい人なんだけど、だれもそれに口をつけたことがない。ぼくだってそうだ。

 だって、犬飼さんの家はごみやしきだから。

 去年の秋ぐらいのこと。お気に入りの半袖シャツが少し頼りなく思い始めた頃に、犬飼さんの家にごみが溜まりだした。はじめは砂場で作った小山みたいに小規模なものだったけど、次第にそれは積もりに積もって、ついにお庭にまで広がってしまった。そしてごみやしきの出来上がり。

 その犬飼さんが、部屋の片づけを手伝ってほしいと言い出した。

「今日の夜大事なお客さんが来るから、その前に綺麗にしておきたくてね」

 断る理由もなかったから、ぼくはとりあえず首を縦に振った。


 初めて入る犬飼さんの家はひとつの洞窟のようにも思えた。そしてとても臭い。お腹の中からなにか湧き上がりそうな、とにかく酸っぱいにおいだ。この家にあるものは、もしかしたらみんな納豆みたいに醗酵しきっているのかもしれない。

「じゃあ始めていこうか」

 犬飼さんはテレビで見たビックダディーみたいにタオルを巻いて、むんっと鼻息を吐いた。もしかしてこのおじいさんはこの量のごみをぼくら二人だけで片づけるつもりなのかな、と思って周りを見回してみた。けれど、そこにはただただごみの瓦礫が積み重なっているだけで、この家にはぼくと犬飼さんの二人きりらしい。どうしたって仕方ないから、ぼくは意を決して真っ黒なごみ袋をえいっと開いた。

 片づけ始めて分かったことだけど、犬飼さんの家にはとにかく食べ物の空が多い。逆に服とか本とか日常生活で使うものとかのほとんどはしっかりとしまうべきところにしまわれていて、たぶんぼくの家とおなじぐらいしっかりしている。だからこれは捨てるべきか捨てないべきかみたいな、そんな面倒くさい相談はする必要がなかったから、作業は流れるように進んだ。

「犬飼さんはさ、ここまでごみが溜まるの、なんとも思わなかったの?」

 田植えの動きを逆再生したみたいに作業している犬飼さんを横目に見ながら、ぼくはそう聞いた。

「家内がいなくなってからついついそこらへんに放り投げるようになってしまったからね。気づいたらこんなになってたんだよ」

「ふーん」

 そういえば犬飼さんの奥さんがこの家にいなくなったのはいつ頃だったっけと思いながら、ぼくは三個目のごみ袋に手を伸ばした。


 結局、家のものを片付け終えるのに二時間くらいかかった。犬飼さんがお茶にしようと言ったから、一緒にお茶を飲むことにした。ついさっきまで雪崩ごみに覆われていた縁側も、今では木目の単調さまでしっかり分かる。

「ねぇ、なんで犬飼さんはいきなり掃除しようと思ったの?」

 犬飼さんの淹れた熱すぎる緑茶を持て余しながら、ぼくはいちばん気になっていたことを聞いた。さっきは大事なお客さんが来るって言っていたけど、それがだれなのか、ぼくは知らない。

「実をいうと、今日家内が帰ってくるんだ」

 一瞬だけ間をおいてから、犬飼さんはそう言った。それはとてもよろこばしいことであるはずなのに、でもその表情はあまり晴れ晴れしたものじゃないことはぼくでもすぐに分かった。

「家内は半年ぐらい前にここを出てって、そのまま帰ってこなかったんだ」

 それは。それはたぶんニュースで毎日見かけるような行方不明の話のことで。しかも奥さんの体は、おおよそ人とは呼べない状態で見つかったらしい。

「あまりに突然のことだったからね、何日間かは何も手に付けられなくなったよ。そのあともなんだか無気力な状態が続いて、そのへんからごみを捨てなくなってしまった」

「それでごみやしきに?」

「……ごみやしきか。うん、そうだね。けれどね、ときどきこの家に一人でいるとあいつがふらっと帰ってくるような、そんな気がしてたんだ。帰ってくるなり間抜けた声で、なんでこんなに散らかしたんだって言われるような気がしてね。だから、捨てようにも捨てられなかった」

 きっと、というか絶対、犬飼さんは奥さんのことが大好きだったんだろうなと思う。だって、奥さんのことを話しているときの犬飼さんは生き生きとしていて、今がとっても楽しそうだもん。 

「けど、思い直したんだ。あいつが帰ってくる家はきれいにしておいたほうがいいだろうなって」

 ――家内は綺麗好きだったから。

 そう言う犬飼さんの目は少し寂しそうで、無理をして強がっているような気がした。

「ごめんね。少し湿っぽい話になってしまったかな」

 茶碗の底を見ると、緑茶に溶けきらなかった茶葉が身を寄せ合って沈んでいた。この茶葉たちは、たぶんこのお茶にとっては余り者で、それぞれが形を保つためにこうやって固まってるんだろうな。

 でも犬飼さんは今、どうしたって一人だ。それでいて犬アレルギーだから愛犬なんていやしない。崩れそうで崩れそうで、必死なんだ。

「ぼくもね、ママから言われるんだ。勉強机は綺麗にしなさいって」

 唐突に口を開いたぼくに対して犬飼さんは少し驚いたみたいで、砂漠に打ち上げられたイルカを見るみたいにこっちを見ている。

「勉強机はお勉強をするためのものだから、綺麗にしておいたほうが集中できるでしょって」

「あぁ、そりゃあもっともだ」

「でもね、ぼくはね、ちょっと散らかってるほうがちょうどいいなって思うんだ」

 そう、ぼくは思うんだ。

「うーん、それはどういう考えでだい?」

「変に小綺麗にしてるよりさ、ちょっとぐちゃぐちゃなくらいのほうが自分のものだって思えるでしょ?この机はぼくのもので散らかってるからぼくのもの。犬飼さんの家は、犬飼さんと奥さんのもので散らかってるから、犬飼さんと奥さんのもの」

 そう言い終えて、ぼくはどうしても喉が乾いてしまったから、残りの緑茶を一気に流し込んだ。底に沈んだ茶葉はやっぱり苦かった。

「家庭訪問のときだってさ、ママが変に家の中を綺麗にするから落ち着かないんだ」

「うん、それはそうかもしれないね」

 犬飼さんの目は、まだうるうると光っている。まずいな、泣かせちゃったかな。

「きみの言う通り、少し散らかってるほうがあいつも安心するかもしれないな」

 

 その日の夜、奥さんの骨は役所の人に運ばれて帰ってきた。


「ねぇ聞いた?犬飼さんの家が綺麗になったんだって」

「え、リフォームしたってこと?」

「ちがうちがう。庭まであったごみが全部まっさらになくなったの」

 次の日、学校では犬飼さんの話で持ちきりだった。学校でも犬飼さんの話が聞けるのはうれしかったし、それにその片づけを手伝ったのはぼくだ。だからぼくは一日中、ゴジラを倒したウルトラマンみたいな気分だった。あれ、ゴジラはウルトラマンの敵じゃなかったっけ。

 うちに帰って、犬飼さんの庭を覗いてみた。昨日まであったごみの山は当然だけどなくなっていて、少しだけ寂しい気もした。けど、庭の草木たちが気楽そうによろこんでいるのを見て、まあいいかって思った。

 

 そしてまた秋が来て、ごみやしき記念一周年。犬飼さんの庭には、カップ麺のUFOが転がっていた。散歩から帰ってきた犬飼さんが飴玉をくれたから、ぼくは初めてそれを舐めてみた。はっか味のにおいで、鼻の奥がすんとした。

  

 

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