【022】深青

 ゆっくりと深呼吸する。こんなことで精神が落ち着くとは思えないが、今はこれしか思いつかなかった。

 傍らでは彼女がじっと見つめている。与えられた時間は長くない。これでどうなるかなんて見当もつかない、事態が悪化する可能性だってある。それでも。

「やらずに後悔より、やって後悔だよなッ……!」

 朝桐の記憶に干渉できたのであれば、そのもっと奥底、彼の心そのものに触れられるかもしれない。

 左手を朝桐の頬近くにかざす。朝桐を取り囲む見えない球体の障壁。少しでも近づこうとすると黒い閃光に阻まれ、強い力で押し返されそうになる。

 右手で左腕を支える。身体に残った僅かな力を振り絞り、ゆっくりと確実に近づいていく。

「眼ェ醒ませ!! 朝桐!!」

 ようやく指先が朝桐の頬に触れる。その瞬間全てが引き込まれるような錯覚に陥る。先ほどの記憶干渉よりも強い衝撃。今、上を見ているのか下を見ているのか分からないような浮遊感。眼を閉じ、意識を集中させる。ここが朝桐の心の中なのであれば、彼はきっとどこかにいるはずだ。彼の声を、気配を感じ取らなければ。

「誰だ……」

 閉じていたまぶたを開くと、剣道場にぽつんと人型の影がいた。

「朝桐か……?」

 影はその問いかけに反応を示さない。

「俺は孤独で良かった。この世界が静寂であることが心地良かった」

 影は淡々としている一方で、熱を帯びた言葉を放つ。

「怖くなった、拒絶されることが、再びこの世界で一人になることが」

 ゆっくりとその人型の影に近づく。

「あの場所が俺とみんなを繋ぐ全てだった」

 手を伸ばせば届く距離まで辿りつく。

 今にも壊れそうな世界。ここが心象世界とするなら、この崩壊は即ち自我の欠損を示しているのだろう。未守が言っていた『元に戻らない』というのは己を見失い、"願い"の奴隷になり下がるからかもしれない。

「お前はただ、剣道部を護りたいだけなのか? 本当にあそこが無くなったら繋がりも無くなるって思っているのか?」

「お前に何が分かる!」

「分かんねえよ、俺はお前じゃねえから分かるわけねえ! でも、それでも! 俺は、俺らは!」

 影はこちらを見ている。そんな気がした。

「ずっと朝桐の仲間に決まってんだろ!」

 人型の影に亀裂が入り、一部が剥がれ落ちていく。剥がれ落ちた隙間から見える朝桐の顔から涙がこぼれる。

「だが、葉凪。俺はもうダメだ。思考がまとまらない。当然の報いだ、せめて俺の意識があるうちに核である俺を……」

 影が剥がれ落ちた断面から再び侵食が進んでいく。このまま放っておけば、また影で覆われるだろう。だが、なぜか自分には自信が満ち溢れていた。朝桐に手を差し伸べる。

「手を取れ、朝桐。こんな願い

 朝桐の手をとった瞬間、辺りは眩い光で満ちる。

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