【005】踏み込んだ世界

 浅見とは別れ、帰路に着く。その際に今後の連絡用としてスマホを渡された。

「ただいま」

 相も変わらず穏やかな部屋に戻り、ベッドに横たわる。

 疲労が知らぬ間に溜まっていたのか、瞳を閉じればすぐ意識を手放しそうである。

「夢、じゃないよな……」

 安直にほおを引っ張ってみる。当然だが痛みを感じる。

 ずっと胸に引っかかっていた記憶の空白。その手がかりが掴めるかもしれないという高揚感と、良からぬ世界に足を踏み込んでしまったかもしれないという不安感が心をむしばむ。本当にこれが正しかったのだろうか。

 身体を起こし、アルバムを引っ張り出す。見覚えのない顔とともに嬉しそうに笑っている自分の写真を見る。朝に会ったもこの思い出の中にいるのだろうか。そんなことを考えながらぼんやりしていた。

 すると突然、浅見から貰ったスマホが騒ぎ始める。慌ててスマホをとる。

「あー、もしもし。聴こえているかい?」

 電話越しでも浅見の落ち着いたその声色は変わらなかった。

「はい、大丈夫です。どうしました?」

「君には了承をしてもらった訳だけど、実際に知らないだろう?」

 その言葉の後、耳元でピコンという音がした。どうやら何かの位置情報を送ってくれたらしい。

「今、実際にその場所でミモリさんが対処してくれてるんだが、気になるなら行って見てみるといい。無理にとは言わないけどね」

 そこは距離もそこまで遠くない土手沿いである。まだ少々眠たいが、夜風に当たっていれば目も覚めるだろう。重い身体を起こし、薄手の上着を羽織ってから軽い散歩のつもりでドアノブに手をかけた。


 小走りで目的地に向かう。もう春だというのに、夜はまだ肌寒い。

 そろそろ着くな、そう思った時、目的地の方向から金属音がした。浅見の言っていた通りであれば、この先にあの少女がいるはずだ。走る速度をやや速め、土手に急いだ。

 目的地には一人の少女のほか、禍々まがまがしい大きな人型のもやの塊がいた。

 「なんだ……あれ……?」

 まだ少し距離があるというのに身はすくみ、手が震える。

 心のどこかでどうせ作り話だろうと思っていた自身を一蹴いっしゅうしたくなるほどの威圧感。今まで"危険"と言われても実感がなかったが、目の前の異形は確かに畏怖いふに値するものであった。

 それゆえに、あの怪物に一人で立ち向かっている少女が異常に見えた。震える身体では思うように声が出せず、ただ、その行く末を見守ることしかできなかった。

 そんな心配をよそに彼女は軽やかな一歩を踏み出し、怪物の真正面まで近づく。怪物もそれに反応し、瞬きの間に拳は振り下ろされた。その拳は地面をえぐり取るほどの怪力であるが、彼女を捉えることはなかった。

「力勝負をする気? 残念だけど、貴方が私に勝てる要素はひとつだってないのよ」

 彼女はぴたりと動きを止める。その好機を逃すはずもなく、怪物は両手を組み、空高く振り上げ、叩き潰さんとする。

「見せてあげるわ」

 鈍い音とともに彼女はその無骨な日本刀で重い一撃を受け止め、その剛腕を羽虫のごとく、いとも容易く払った。

「さ、次の攻撃は? まさか、この程度じゃないでしょうね」

 涼しい顔をした彼女は怪物を挑発する。それに激昂げきこうした怪物は咆哮ほうこうをあげる。すかさず撃ち込まれる拳を彼女は刀で軽く受け流す。怪物は接地した右腕でそのままぎ払おうとするが、それは再び彼女によって弾き返される。

 圧倒的な力でねじ伏せんとする無茶苦茶な戦い方。しかし、彼女は全く気圧けおされず、凛とした振る舞いのままである。

「あなた、本当に芸がないのね。単純作業は終わりにしましょうか」

 その言葉と同時に彼女は無防備となった怪物の懐に飛び込む。――そして、一撃。

 怪物は真っ二つに裂け、波にさらわれる砂の城のように、呆気なく夜の闇に消えていった。決着した途端、緊張の糸が解け、その場に崩れる。それに気づいた彼女はこちらに目を向ける。彼女の右腕に刻まれた真紅の刺青いれずみは次第に消えていく。

「貴方は、さっきの。まあ、大方浅見に職場見学するよう言われたんでしょう? ご感想はいかが?」

 満ち満ちた月光に照らされ、微笑んでいる彼女はとても美しく、そして同時に、恐ろしくも思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る