[四日目 19時55分・現実世界]
扉が開く音と同時に、峰岸秘書は立ち上がった。入ってきたのが彼の仕える藤川議員ではなく、その幼馴染の官僚であることを確認すると同時にわずかに肩を落とす。
表情に変化がないぶん、内心が露骨に伝わってくるのが面白い。
「おかえりなさいませ、梶原様」
「ただいま。すまんな、あいつじゃなくて」
いえ、別に、と峰岸秘書はキッチンスペースに向かおうとした。それを制して、中央省から帰ってきたばかりの梶原は自分でお茶を入れる。
「そのような仕事は、私が……」
「茶を入れるのは立派な仕事だ。『そのような』という言葉をつけるようなものではない。それに君は藤川の秘書だ。必要以上に、私に気を遣う必要はないよ」
不慣れな手つきで緑茶を入れ終わると、梶原はカバンから書類を取り出した。お茶の熱さが抜けるのを待つ間に、溜まっていた通常業務を一つ片づける。
猫舌でも飲めるくらいにお茶が冷めた。一口飲む。
「ゲーム内の方ではいろいろと動きがあったようだが、峰岸君の方でなにか気になる部分はあったかな?」
「NPCから『人型のモンスターを倒す』ための訓練が提示されました。また、二人は未公開エリアである『夜と雪の国』というところに誘導されています。そこで人型のモンスターと戦う可能性があると考えられます」
「ゲームの中とはいえ、人の形をしたものと戦い、それを倒す……か」
「本人たちには非常にストレスがかかるでしょうね。いわゆる『盛り上げ』のために、可能性のみを提示しただけである可能性も捨てきれませんが」
そうだな、と官僚はうなずいた。
「または、これをもとになにかしらのアンケートが実施される可能性もある。それに……だめだな、可能性の話だと、推論が無限に広がってしまうな。一度止めて、新情報を共有することにしよう」
梶原はお茶に口をつけ、喉を湿らせた。
「本部からの情報だ。ゲーム内での二人の言動について、ご家族からの感想が取れた。本人である――少なくとも、ご両親がそう感じるようなものだということだ」
「本部はどのような雰囲気ですか?」
「解決策どころか事態の全容すらつかめない状況だ。忙しさに殺気立つことすらできないでいるよ。意識不明の原因調査と治療だが、国内外からの研究者の受け入れが進んでいる」
医療団、とでも称すればいいのかな、と梶原は湯呑の縁に形だけ口をつけた。
「現在の時点で二百名を超えている。そして、まだまだ拡大している。病院近くのホテルは、二つとも国が借り切る形になった。ロビーはさながら学会のようになっているよ」
早すぎませんか、と秘書が眉を寄せた。
事態が全世界に波及しているため、各国に動きが出るのは理解できる。だが、それが実際の行動となって表れるには、手続的にも、準備的にもそれなりの時間を要するはずだ。
「早く動かざるを得ない状況に追い込まれたからね」
その言葉と共に扉が開き、藤川議員がつかれた顔で入ってきた。ソファーにだらしなく座る。秘書が素早くお茶を用意した。礼を言って半分ほど飲む。
「ロウちゃんの名刺交換が役に立ったよ、ありがとう」
「それはなによりだ。今回の件に関わっている人物がいたのか?」
「いいや。でも、そこからの紹介をつなげる形でなんとか食い込めたよ。一部、日本語どころか英語すらも使わないで話すことになったけれども――テレビの外国語会話教室は見ておくものだね」
それで、皆さんが焦っている理由だけれどもね、と藤川議員は姿勢を正した。いつも漂わせている笑みが表情から消える。
「例の配信告知は、かなりまずいところでも表示されていたらしい。具体的にいうと、各国の軍事関係でね」
秘書が首を傾げた。
「社会生活の運営に関わる部分についてはあの映像は表示されなかったのではないですか? 調査では、病院ではロビーにおいてある案内板などはハックされたものの、診療中や手術中の各画面についてはその対象外となっていたことが確認されています。電車や飛行機の運行システムも同様。そして、軍の関係についても、一切の侵入を許さなかった――となっていたかと」
「表向きは、というか、軍の一般的な部分については、確かにその通りだったようだね」
すると、と梶原官僚の目が冷たく光った。
「核兵器関連施設は侵入されたのか」
藤川議員はうなずいた。
重い沈黙が落ちる。
「それも中枢部のみを狙ったようにあの映像が流されたらしい。現場はパニック状態に陥ったとのことだよ」
藤川は残るお茶を飲み干した。
「一般の人たちは、感想はゆるいものが多いよね。なにか大変なことが起きた。でも、一時的なもの。大事なところは侵入されなかった。まあ空いた時間で、この少年の冒険と帰還を見守りますか、みたいな感じ。だが――各国政府は、この問題に対しての対処を最優先とせざるを得ない状況に追い込まれている」
藤川議員は手帳を取りだした。研究者、医療者を派遣した国のリストを見ながらつぶやく。
「核兵器施設への侵入情報が確認できたのは三か国。でもまあ他の保有国も同様だろうな。所持を公には認めていないところも含めてね。なるほど、官邸は忙しさを煮詰めた状態になるわけだね」
他国の機密情報を口先一つで抜いてきた議員は息を小さく吐いた。
「対策本部を先行して立ち上げておいたのは正解だったな――少なくとも、三人の帰還については切り離して動くことができる」
それにしても、と梶原はあきれたように幼馴染に目を向けた。
「よくそんな情報を手に入れたな」
「真心があれば話は通じるものさ」
藤川がいたずらっ子のようにわらう。
「そこに利益の調整と、相手の面子の立て方と、共犯意識をほんのちょっと加えれば、たいていは上手くいくよ」
秘書の唇の端にわずかな笑みが浮べた。二人からは見えないところで、右のこぶしを強く握り、小さく振る。自分が仕える政治家のすごさを世界に向けて大声で自慢したい気持ちをそれだけの仕草で抑え込むと、峰岸はお茶のおかわりを入れた。
「それにしても、『運営』はなにを考えているのでしょうね?」
「さあねえ。なにも考えていなくて、単にこの事態を楽しんでいるのなら、楽でいいんだけれどもね」
藤川議員の端末が鳴った。失礼、と席を立ち、部屋の隅で通話をする。話はすぐに終わった。二人のところに戻ってくる。
「文ちゃんおばさんからだ。俺たち三人に大先生からデートのお誘いだよ」
藤川は頭をかいた。
「二人とも、夕飯はまだだよな。喜べ、今晩はすき焼きだぞ」
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