65 残り香

「あ、あの人の香りがする」


 マンションのエレベーターに乗り込もうとしたら今日も香ってきた。


 私が住んでいるより上階に住んでいる、ある男性の香りだ。

 もしも私がそういうものに詳しければ、どこそこのなんとかって香水だ、とか言えるのだろうけど、生憎、女子力が地に転がるほど低い私には、そんな能力はなかった。


 誰のものかを知ったのは偶然だった。

 ある日、私が一階でエレベーターを待っていると、たまたま降りてきた男性から同じ香りがした。そんなありふれたことから残り香の持ち主を特定できた。


 その人は、一言で言うなら、


「かっこいい人」


 だった。


 すらっと細身の長身、大きめのサングラスに少し茶色がかった前髪がかかり、少し下を向いて憂いを帯びた表情。マスクで顔の下半分はよく見えないけど、なんとなくテレビでよく見るある歌手で俳優にそっくりだと思った。

 ファッションも普通の会社勤めではない。なんだかおしゃれで美容師さんかもしくはホスト? そんな感じ。


 だからといって、その人に恋をしたとか、そういう気持ちは全くない。あえて言うならファンのような気持ち、推しとすれ違ったらきゃっきゃと喜ぶ、女子中学生のような感情であった。


 それに、かわいらしいパートナーがいるのも知っている。

 やはり茶色がかった髪をまとめたり、流したりして、きれいにメイクした女性と腕を組んでエレベーターから降りてくるのを何度も見ているのだ。


「一体どんな人なんだろうなあ」


 ミステリアスなところも良い。そして、知らなくてもいいとも思っていた。スターは見えないところがあってこそ、と私は思っている。


 そんなある日、ある場所でスターの素顔を見てしまうこととなった。


 ある場所であった市町村主催の農業祭。私はそこに仕事で参加していた。


 会場には新鮮な野菜や果物が並び、市販より安くいい品が手に入るということで、来客でいっぱいだった。子供用の屋台なんかも出ている。ちょっとしたお祭り。


 スタッフだった私があちこち見て回っていると、


「こんにちは」


 いきなりそう声をかけられた。


 一瞬誰か分からなかった。

 髪をスカーフか何かで三角巾のようにまとめ、下半分はマスク。割烹着かっぽうぎに動きやすいパンツ姿の多分若い女性。


「えっと、あの申し訳ないんですが」


 誰か全く心当たりがないので正直にそう言うと、その方はハッとしたように、


「あの、同じマンションの」


 そう言ってマスクをずらして見せた。


 誰か分かって愕然とした。

 あの、残り香の人のパートナーだ。


「あ、ああ、あ、いつもどうも」


 我ながら間の抜けた挨拶だと思ったが、そう言って小さく何回か頭を下げた。


「いえ、分からないでも無理ないです」


 その方は軽やかにそう言って笑った。


「主人も一緒なんです、ほら」


 言われた方を見てみると、やはり頭にスカーフを巻き、作業着の上下のその後姿、細身の長身って、もしかして……


 女性が声をかけてこちらを振り向いたその顔は、


(うーん、もしかしてと思うけど、よくわかんないな)


 が、素直な感想だった。


 声をかけられ、つかつかと歩いてきて、


「あ、いつもどうも」


 そう言ってぺこりと頭を下げてくれても、何の感慨もない。


「あ、こちらこそ」


 一応そうは言ってみたけど、なんだか全く知らない人と挨拶している気分。


「あの」

「はい?」


 思い切って奥さんに言ってみる。


「すみません、いつもお見かけする時と雰囲気が違ったもので、最初は気がつきませんでした」

「ああ」


 私の言葉に奥さんが笑いながら返事をしてくれる。


「そうですよね、いつもはマンションでしかお会いしていないですよね」

「すみません」

「いえいえ、こちらこそ」


 失礼かなと思った質問にも笑顔で答えてくださって、ちょっとばかりホッとする。


「いつもはこうなんですよ」


 そう言ってくるりと回ってくれると、見るからに農業に従事する人、という雰囲気だ。


「土まみれ、汚れまみれで農作業でしょ? だから、たまのお休みの日は二人であんな風に着飾ってお出かけするんです」

「あ、なるほど!」


 いつもは一部の隙もない完璧なファッションに身を固めている姿しか見たことがなかったけど、それはこのご夫婦にとっては「晴れの日」の証なのだそうだ。


「普通の日、『の日』と、いつもとは違う『晴れの日』のメリハリをつけることで、どんなにしんどい日があっても乗り切れるんです」

「それはもちろん2人だから、ですよね」


 私がからかうようにそう言うと、奥さんはうふっといたずらっぽく笑って、


「ええ、まあ」

 

 と答えてくれて、ご主人は表情を変えないまま、照れくさそうに少し横を向かれた。


 その日以来、エレベーターで残り香を嗅ぐと、


「あ、今頃手をつないでどこかにお出かけなのね」


 と、思うようになった。


 そして、お二人が作った野菜を置いてあると聞いた産直スーパーに足を運び、その作品を手にしては、うっすら残る土の香りにも鼻を動かすようになった。


 土の香りが残り香になるなんて、思ったこともなかった。

 でも今ではパフュームも、土の香りもどちらも大事な、エモい香り。

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