56
もみじは
だが、彼女は倒れなかった。
歯を食いしばり、頭から流れる血が目に入っても眼光は鋭いままだ。
それでも、やはり無理をしているのがわかるほど呼吸は荒く、顔色は血を流し過ぎているせいか、白粉でも塗りたくったかのように真っ白だった。
「一心ッ! こっちに来なさい!」
「バカ野郎ッ! 死にかけてるくせに出てくんなよ!
「いいから来いッ! あんたの傷を治したらさっさと寝るから! 後は全部任せるッ!」
もはや一心のほうを振り向く体力もないもみじは、両足をプルプルと震わせながら吠えるように大声を出した。
そんな彼女に叫ばれた一心は、こんな状況で笑いながら近づいていく。
そして、もみじの手を掴み自分の胸に当てる。
「この程度は地獄じゃないんでしょ!? だったら私が次に目を覚ましたときに……さっきと同じように……たいしたことなかったって言ってみなさいよッ!」
もみじの手から暖かい光が現れ、一心の体を包んでいく。
流れていた血が止まり、焼け焦げた傷が修復されていく。
「あぁッ! 絶対にあいつを倒して、こんなのたいしたことないってまた言ってやるからなッ! だから寝ちまったまま死ぬんじゃねぇぞ、もみじッ!」
「あんたの……言葉……聞くまで……死ぬかってってのぉ……」
もみじがそう言うと、糸が切れたマリオネットのように倒れかけたが、一心は彼女を支えてゆっくりと床に寝かす。
彼が顔を上げると、そこには先ほどもみじによって吹き飛ばされた人型の炎――自我を失ったニッコロ·ロッシが立っていた。
ニッコロは一心を見つけると、まるで獣のような走り方――両手を床につけて四つ足の状態で向かってくる。
対する一心は身構えると、もみじが倒れているところから移動した。
燃え盛る屋敷内を走り回り、少しでももみじから離れようとニッコロから逃げる。
「さて、偉そうに言ったけどどうすりゃいい、俺?」
崩れてくる天井を避けながら一心は考える。
手を出せばこちらが火傷を負う。
一応ニッコロにもダメージはありそうだが、殴り合いを続けた結果はよくて相討ち。
それでは意味がない。
死んだらなんにもならない。
自分は地獄を生き抜いて幸せになるんだと、自ら命を絶った
「でも飛び道具なんてねぇし、武器のある部屋も燃えちまってるし、そもそも俺、銃苦手だし。やっぱ取っ組み合いしか手がねぇか」
一度逃げ出したものの、一心には炎そのものであるニッコロ相手の対抗策など考えつかない。
彼の戦闘技術は、殴る、蹴る、掴んで締める投げ飛ばすなどの肉弾戦以外に術がないのだ。
同じく
現時点でそれは望めない。
「考えろ俺ッ! なんかあるだろ!? 相手は火だ! 火の弱点は……水だッ!」
追いかけてくるニッコロから逃げながら、一心は子供でも思いつくようなアイデアが閃いた。
さすが俺! と言わんばかりに笑みを浮かべて、水が使えるところへと向かう。
一心がパッと思いついたのはキッチンと浴室だ。
だが大量の水をぶっかけなければ意味がないと思い、彼はトレーニングルームにあったシャワールームを選択。
ニッコロをトレーニングルームまで誘導する。
「よし、こいつを使えばッ!」
シャワールームへとたどり着いた一心は、シャワーヘッドを手に取る。
姫野家のシャワーはシングルレバー混合栓。
一つのハンドル操作で吐水、止水ができ、レバーハンドルと連動したバルブによって、湯水の通水路の開閉を加減し、吐水量や湯温を調節するしくみだ。
一心はレバーハンドルを操作してバルブを開き、シャワーヘッドから思いっきり水を出す。
「さあ来やがれ! その体を消火してやるよッ!」
狭いシャワールーム内でそれぞれ個室のようになっていた囲いを破壊し、シャワーヘッドを持って身構える一心の前に、出入り口からニッコロが入ってくる。
叫びながら襲いかかってくる人型の炎に向かって、一心はシャワーヘッドをかざした。
水圧を最大まで上げ、ニッコロの全身に冷たい水を浴びせる。
「グワァァァッ!」
水を浴びたニッコロは苦しみの悲鳴をあげ、その場でのたうち回っていた。
やはり水が弱点だったと、一心が勝ち誇っていると――。
「なッ!? 嘘だろッ!?」
突然ニッコロの体から火柱が上がって爆発。
いわゆる水蒸気爆発が起こった。
自宅で揚げ物油や石油ストーブなどの油が原因の火災時に、慌てて水で消火しようとしてはいけないと言われている。
その理由は、たとえば油などでの火災に水をかけると、火が付いた油などが飛び散ったり、水より軽いガソリンなどが水の上に広がり火災が広がる恐れがあるからだ。
ニッコロの体は油ではなく魔力によって生み出されている炎だが、それに近い現象が起きたようだった。
水蒸気爆発で一心がいたシャワールームは破壊され、その衝撃で窓を突き抜け、彼は外へと放り出されてしまう。
「くッ!? なんだよッ!? 火の弱点は水だろッ!? なんで爆発するんだよッ!?」
義務教育さえろくに受けたことのない一心には、どうしてニッコロの炎を消化できないのかが理解できない。
これがもし
外へと放り出された一心を追いかけ、破壊されたシャワールームからニッコロが飛び出してくる。
ニッコロの体の炎はさらに勢いを増しており、爆発の衝撃でダメージを負っていた一心はすぐに捉えられ、その燃え盛る両手で押さえつけられてしまう。
掴まれた部分が皮膚の焦げる嫌な臭いを放ち、その痛みで一心は悲鳴をあげるが、覆いかぶさるように押さえられたため身動き一つできない。
次第に呼吸までもできなくなり、一心は体を焼かれながら意識まで失いかけていた。
「く、そ……。こ、こんなとこで……」
それでも唇を噛み堪え、なんとか反抗を試みるが、もはやニッコロに対する手など一心にはなかった。
絶体絶命。
このまま一心は焼死してしまうかと思われたが――。
「こ、これは……?」
突然彼の全身から青い炎が溢れ出した。
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