39

動きやすいトレーニングウェアと着替えた一心いっしんは、鬼頭おにがしらにヘッドギアとオープンフィンガーグローブを付けてもらっていた。


すでに彼もゆきも対角のコーナーに立っている状態だ。


始める前にもみじの提案で、一心のセコンドには鬼頭、ゆきのほうには彼女がつくことに決まる。


虎徹こてつさんかしずかさんどちらかにレフェリーを頼みたいんですけど、いいですか?」


もみじがゆきの立つコーナーからそう言うと、二人は顔を見合わせていた。


たかが練習のスパーリングだというのに、まるで実戦形式ようだと、もみじの提案にまたも肩を落としている。


「ダメですか? レフェリーがいたほうが緊張感が出るんだけどなぁ」


「私がやる……」


静はやれやれとでも言いたそうな動きで着ていたジャケットを脱ぎ、虎徹に渡す。


それから彼女は、渋々ながらリングへと上がった。


静がリング上がろうとしていたときに、一心は鬼頭に不満をぶつけていた。


彼はゆきを相手にヘッドギアなど必要ないと言い、外してくれと声を荒げている。


「いらねぇよ、こんなの。相手はあのチビッ子だぞ。俺まで手が届くわけねぇじゃん」


「油断するな。どんな相手でも手抜かないのが戦場の鉄則だと教えただろう」


「それはわかってるけどさぁ。相手があいつじゃなぁ……。なあ、ホントにマジでやっていいのか?」


「お前に手を抜けと言っても無理だろう。あと一つだけ言っておく」


「なんだよ?」


「ゆきもディヴィジョンズのメンバーだ。まともやればお前のほうが上なのは当然だがな」


鬼頭にそう言われても一心はピンとこなかった。


結局自分のほうが上だと、鬼頭も認めてるじゃないかとしか思っていない。


そして、両者のセコンドである鬼頭ともみじがリングから出ると、レフェリーを任された静が口を開く。


「ルールは一応なんでもありだけど、私が危険だと判断してたら、すぐにでも止めるから二人ともそのつもりで」


静の言葉を聞くと、リング中央で一心とゆきがオープンフィンガーグローブを付けた右手を突いて合わせ、それが試合開始の合図となった。


(いい機会だ。こいつに俺がどれだけ凄いのかわからせてやる!)


一心は内心でそう意気込んだが、ゆきの顔を殴るのには抵抗があったのか、左のローキックからボディブローで仕留めようと距離を詰めた。


だがゆきは、バックステップでこれを躱す。


さすがに上段も打たないと試合運びができないと判断し、一心は下がったゆきに向かってジャブを放ったが、スパンと叩かれて拳を落とされてしまう。


「鬼頭さん、あれって……」


「パーリングだ。以前はあんな技できなかったが、もみじが教えたんだな」


虎徹は一心のコーナーへと行き、鬼頭に声をかけた。


どうやら二人には、ゆきがやっている躱し技――パーリングというのを知っているようだ。


パーリングとは、相手のジャブやストレートを払うテクニックだ。


払うというのはパンチの軌道を変えるという意味で、一直線に勢いを付けて伸びてくるパンチは、実は横からの力に弱い。


出てくるパンチをほんのすこし横から僅かな力で触るようにするだけで、パンチの軌道が変わり、自身のダメージを防げるのだ。


主にボクシングで使用される技術である。


試合は一心が一方的に攻めているが、ゆきはすべての攻撃を見事に避けてみせいた。


「あっちゃー、一心の奴、バックステップとパーリングだけで全部捌かれちゃってるよ」


「完全に攻撃を封じられたな。だが、ゆきの腕力で一心を倒すのは難しい。ここからどうするか……」


虎徹と鬼頭が話していると、ついにゆきが攻撃へと転じた。


フットワークを使い、一気に一心の懐へと飛び込んで左のボディフックから右のアッパーで顎を突き上げる。


「ぐッ!? こんなんでやられるかよ!」


一心は耐えて反撃に出るが、先ほどと同じように彼の攻撃はゆきには当たらない。


バックステップとパーリングですべて躱されてしまう。


素人から見ても一心のほうがパワーもスピードも上だが、どうしてもゆきを捕らえることができない。


(一心のほうが総合的には勝ってるけど、ディフェンス力に差があり過ぎる。さてはもみじ嬢、こうなるとわかっててやらせたな……)


二人の動向を見ながら静は思っていた。


殴り合いならば一心のほうが強い。


それは鬼頭や自分、虎徹を含め、たとえプロの格闘家相手でも一心が勝つだろう。


しかし、実際はそんな単純なものではない。


たとえ自分よりも相手の実力が上でも、戦い方次第では負けることがあるのが実戦だ。


「クソッ! さっきから逃げ回りやがってッ!」


一心は声を張り上げながら、先ほどのゆきと同じように彼女の懐へと飛び込んだ。


掴んでしまえば勝てると思ったのだろう。


速い、たしかに一心の動きは速い。


ゆきと比べれば明らかにスピードが違う。


だが、それでも来るとわかっている攻撃は格闘技の経験者からすれば格好の的だ。


「不用意に突っ込むと……」


鬼頭がそう口にした次の瞬間、一心の顔面にゆきの上段回し蹴りが突き刺さった。


「ガハッ!?」


「カウンターをもらう」


タックルに入ろうとして一心が屈んでいたのもあって、背の低いゆきでも十分に深く当てられたクリーンヒットともいうべき一撃だ。


一心はこの一撃でダウン。


マットに倒れたが、すぐに立ち上がってゆきへと向かっていこうとしたが――。


「ストップだよ、一心。これ以上は意味がない」


静によって止められた。


一心は納得がいかない。


ただ小突かれて転んだだけだと、試合を続けるように怒鳴り出す。


「あんな蹴りなんか効いてねぇよ! やらせてくれ静さん!」


「だけどあんた、今のまま続けたって……」


「いいじゃないですか、静さん。続けましょう。次はもう少しそいつのスタイルに合わせてあげますから」


静が迷っていると、ゆきが笑みを浮かべてそう言ってきた。

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