海を見上げる

壺天

海を見上げる

「海に身投げする気持ちって、どんなものですか?」


 開かれた窓に、薄いカーテンが遊ぶ。

 風は潮の匂い。

 窓辺に並んだ空っぽのフラスコから外を眺めれば、深い青の海がガラスに歪んでいた。


「子供の頃から泳ぎ慣れて、あなたにとって恐ろしさを感じるだけのものではないとしても……命を投げ出す覚悟で飛び込む、その瞬間の心はどんなものですか?」


 主治医が、寄せる風を背にして微笑む。

 随分楽しげに、つい先ほどまでの問診をカルテに書き込んでいる。

 本質であるはずの診察を終えてする質問にしては、ひどく直接的な内容だった。

 答えない私に、主治医はそれ以上求めない。

 落ちた沈黙は、別に答えを強く求めるほど執着もないという証だった。


 安物のボールペンと紙がこすれる音が、波音に溶ける。

 高台に建つこの診療所は、町の湾をよく見渡せた。

 特に診察室であるこの角部屋は、一等眺めがいい。

 空との境界、そのさらに先までのぞき込める気がする。

 この景色を目当てに、私は何度もここへ足を運んでいた。

 でなければ、こんなところに用など作りたくもないとも思いながら。

 潮風が髪を結うていくのを手でいて、私は目を伏せた。

 誰にも何も、明かすつもりはなかった。

 それくらい今私は、この世界の誰一人として信用していない。

 誰もが、私の恋心を否定するだろう。

 この心を抱えて海に飛び込む行いを、愚かで浅ましいと。

 大切な……大切なこの恋ごと踏みにじるだろうと予感していたから。


 誰もが、海から還った私に変わるよう求めた。

 けれど、それはただ人が生来持つ反発を招くだけのものでしかなく、私をより一層頑なにした。

 私はこの恋を捨ててまで、他に欲しいものなんてなかったのだ。





 故郷は、海辺の小さな湾にあった。

 町は広く、狭い。

 子供の頃は、この町のはずれまでが私の世界だった。

 小さな体には世界は大きくて、どんなに走り回っても抜け出せそうにないと思っていた。

 しかし、人は成長して思い知る。

 子供の頃に見ていた世界はこんなにも小さく、密接な人間関係によって、より狭苦しく感じるのだと。

 いや、人とのつながりの息苦しさは、もっとずっと前に、私たちは気づいている。

 それでも、同じ里という繋がり以上に、選ぶものがなかったから。

 その他を知らなかったから、留まり続けているに過ぎない。



 ほら、身投げしただよ。

 本当に、一体どうしちまったんだろうね?

 先生のところに通ってるんだろう。

 あの先生なら、まぁ何とかしてくれるだろうが……きっと、気が触れてるに違いないよ。


 かわいそうに。



 顔なじみの、声が忍ぶ。

 子供の頃から私の名前を呼んで、いってらっしゃい、おかえりなさいと認めてくれていた声。

 でも今は、なんだか自分の知らないものを遠巻きにするように潜められている。

 みんな、私が変わってしまったように思っている。

 そうだ、私は変わった。

 小さい頃から自分でも否定してきた望みに抗うことを止め、変わることを選んだ。

 だから、もう二度とこの町に馴染なじむことはないだろう。

 だから、以前の私へ戻るという期待をかけられる眼差しが、ひどく息苦しい。

 それは、私が変わる原因となったもの。

 大切な私の恋を捨てることを、求められているということでもある。

 そんなことを、受け入れるわけには、いかない。

 なのに町は全体が私を飲み込んで、異端の私が、また自分たちと同化することを望むよう。

 ここはもう、私が安らかに息ができる場所ではなくなっていた。



「戻ったの?」

 家の玄関を入ってすぐ、母が私を認めた。

「先生はなんて?」

 診察の用は、母も知っている。

 身投げ未遂という前科のために、両親は私を一人で歩かせたがらない。

 それでもどうにか粘って、私は一人であの高台にある病院に行くのだ。

「何も」

 素っ気なく、変わり映えしない受診だったと応える。

 母は私の投げ寄越した返事に、ほっとしたような、残念がるような、曖昧な表情で口ごもった。

 何も変わっていないことに、心安らいだのだ。

 一方で何も変わらなかったことに、落胆している。

「ねぇ、どうして何も言わないの?」

 疲れたように伏せた顔から、問いが落ちる。

「どうして、何も言ってくれなかったの?」

 前の月のない夜、私は海に身を投げた。

 そしてそれを必死の思いで引き上げ抱きしめた母は、きっと冷え切っていた私の体を思い出すように小さく震える。

「あなたを失いたくないの。お願い、もう海には行かないで」



「好きな相手がいるのよ」

 つぶやいた言葉は、母にとってようやく取りすがれそうな糸だったはずだ。

 はっとこちらを見た顔は「なら、その人を連れてくるなり、結婚するなりすれば……」と私に言う。

 でも私は知っている。

「どんな相手でも、いいわけではないんでしょう?」

 試すような口ぶりで返した問いに、母は困った顔で目をらした。

「そりゃ、よっぽどひどい人間なら、私たちもうんとは言えないけれど、」

 子を想う、臆病な母の心が揺れる。

 なんて、優しいのだろう。

 なんて優しくて、真っ当な人なのだろう。

 だからだ。

「会わせられる、相手ではないのよ」

 母にも、父にも、私は幼かった私の心を奪った相手を教えられない。

 打ち明ければ否定されると子供心に直感し、この年まで押し殺してきたのだ。

 きっと両親も、この町の誰一人として、私の恋を祝福しない。


 どうして、私は真っ当な道を選べなかったのだろう。


 突き上げる哀しみとやる瀬無さに、私は再び玄関扉を開け放って走り出していた。

 背後で母が私を呼び止める声がする。

 立ち止まる訳にはいかなかった。

 今は誰の存在も、心も、自分の中に受け入れることはできない。

 内側で、心が身をよじって苦痛の悲鳴を上げた気がした。

 私の恋が、『できない』と絶叫していた。

 できない、会わせる事なんて、この恋を知られることなんて、できない、だって、

「人ですら、ないのよ」

 私の恋は、そういうことだった。





 月がない夜だ。

 そうだ、あの身投げの夜から、月は一つ循環したのだ。

 遠くで、私を探す声がする。

 海辺は砂浜も断崖も等しく、夜を照らす火の光で阻まれていた。

 私を探す町の全員が、私の望みを理解しているのだ。

 海に行くことを、必ず阻もうと光が燃える。


「こんばんは」

 

 背後からかけられた朗らかな挨拶は、むしろわざとらしかった。

 振り向けば、主治医が白衣を脱ぎながら歩み寄ってくる。

 それもそうだ。

 ここはあの高台の診療所の裏にあるバルコニー。

 切り立った高台の、海に張り出た岬の先端にある、水平線を臨める場所だ。


「みなさん、あなたを探していましたよ。ここにも来ていないかと言われました。そのときはまだ僕はあなたを見ていなかったので、いいえと答えましたけれど」


 敷き詰められた煉瓦れんがの床を、ゆっくりと靴音は横に並ぶ。

 腰丈より少し高いだけの柵の、ほんの少し先は、もう打ち寄せる波音のるつぼだ。

 

「この海に身を沈めたいと願う人は、実は、なかなかに多くてですね」


 私と同じように夜の海を細めた目で眺め、医者は笑う。

 若い男だ。

 少し離れた、隣の大きな町に古くからある、医院の跡取り息子だという。

 篤志家とくしかの父親にこの診療所を前任と交代で任され、一年ほど。

 優しくて、たおやかで、誰の心にも水のように沁み渡ってしまうような男だ。

 私の町の者はみな、とても良い跡取りだと誉めそやす。

 誰もがこの男を信用している。


 例え『まだ見ていなかったから』というロジックに沿っているとしても。

 このバルコニーに忍び込んでいた私の存在を知っていたにも関わらず、いけしゃあしゃあととぼけてみせることができるような男を。


 男のにっこりと笑った顔に、私は最初から浸食を感じてた。

 人の心に滲んで侵すような、そんな気配を受け取っていた。


「潮鳴りの夜ですよ。海の呼び声が一際届く夜だ。呼び声があるから、引き寄せられる。――――だけどあなたは、おそらく自ら求めて海に向かおうとしている」


 どうしてだか、分かっていた。

 男は、きっと来るだろうと。


「あなたが前に身を投げようとした夜だ」


 また、その選択をするんですね?

 強張った体を海へ向けたまま、私は目線だけを男へ流した。

 月明かりに浮かぶ、歪んだ目元がいとわしい。

 振り切るように顔を背け、遠い闇の水平線に挑んだ。


「本当の私の心は、ずっと決めていました。それを、周囲が望まないだろうと、押し殺してここまで来ただけ」


 もう、こうすることだけが、私の願いです。


 煉瓦を、蹴る。

 柵を飛び越え、最後の土を踏んだ。

 あとは重力が導くまま。

 それなのに、


「海に落ちたいですか? なら、僕があなたの望みを叶えましょう」


 強く引かれた腕が痛い。

 未だ遠い水面をじっと眺めてから、首を回した。

 男が笑っていた。

 それは、何かが抜け落ちたような笑みだった。

 抜け落ちているのは、なんだろう。

 気づかいであるとか、優しさであるとか――――人で、ある事とか。


「僕は、いわゆる海にむ術師の生まれでしてね」

「じゅつ、し?」

「そう。その昔、陸の王子に恋した人魚に足を与え、海から送り出したアレですよ」


 男は滔々とうとうと出自を語った。


「僕の血族は女ばかりのものでして、僕は数代ぶりに生まれた雄なんです。生家では、元々この辺りの陸の有力者との結びつきを重視していたので、僕をその家に養子に出した。海で術師になれるのは、雌の個体だけでしたから。僕は用なしということです」


 海の術は、雄の男にはなじまない――――が、陸に上がれば話は別。

 雄の体は、陸と相性がいい。

 特に、海風と山風の吹き溜まるこの土地は、絶妙に男の力を活かす。

 だから、男は陸で生きるように養子に出された。

 人として潜み、陸に馴染んだ能力を資質として、医師にまでなった。


「でも、僕にだって海の血は脈々と受け継がれている。魔の力だって、たとえ僕一人では成しえなくとも……」


 歌が聞こえた。

 まじないをつむぐ歌だ。

 それは海の底、いずり回る海の魔女たちのいざない。


「大丈夫、僕と、僕の母や姉たちが、あなたを海に沈めてあげます」


 恋をした。

 叶わぬ恋だった。

 しかし年月と共に肥大した想いにとうとう打ち負かされ、私は私を海に沈めたいと願った。

 その願いを肯定するように、海に巣くう魔女の末裔は笑って頷いた。

 

『ただ身を投げるのでは、あなたの本懐は違うのでしょう?』と。


 全てを見透かしたように私を誘う。


「あなたを、僕たちの魔術で海の底へ導きましょう。ただし、一度この魔法にかかれば、あなたは二度と陸へは上がれない。そして、海を浮かび上がることもない」


 沈みの魔法はその命を重く鎖で包むように、海底へ縛り付けるものだから。

 それでもいいかと確かめた男に、私は迷わなかった。

 最後の寄る辺へ縋る声で、構わないと返した。

 最早心は溺死寸前。

 このまま恋が叶わなければ、早晩精神を擦り切らせて死に至るまでには逼迫ひっぱくしていると、自分でも分かっている。

 だから、どちらにしろだと私は願った。



「それができると言うのなら、どうか、私を海に沈めてください。

 あの方の所へ、連れて行って下さい」



 男は優しい笑みで、湾に広がる町を指さした。


「では、故郷に別れを。あなたは最早、この波打ち際より先。深い真の闇以外に在ることは叶わない身の上となるのだから」


 首を振った。

 別れなど言わない。

 あれを故郷は、もう思わない。

 私には資格がない。

 捨てられなかった想いを選び、陸に生きてほしいと望んでくれた人々を裏切る私には、決して。


 惜別し、許しをう資格すら、ない。



「後悔はないと、受け取っても構いませんね?」


 潮騒が、ずっと下の波打ち際の飛沫しぶきが。

 私を引き止め、陸へ生きることを願った故郷の人々の嘆きのように騒ぐ。

 けれど、それらに私の決断が打ち消されることはついぞなかった。



「くどい話だわ。さぁ、お願い。誰かが私を見つける前に、どうか、


 私を海に沈めてちょうだい」



 闇夜だ。

 月灯りはなく、大海の魔である魔女の力は、新月の加護の元、最高潮に高まる。

 海の底砂を這いずり回る魔女たちの歌が、遠く深海から届く。

 男はそれらをり代に、魔法を紡いだ。


「では、貴女に永年の縛りを。魂を水底へ引きずりこむ、重科の鎖を」


 許されざる呪歌が、私の魂を侵す。

 ただ一途、一つの恋を抱き続けた精神に、とぐろ巻くように染み渡っていく。

 魂が魔女たちの歌に誘われるように、断崖の底に打ち付ける波打ち際へ寄せて。

 体がひどい荷重を抱えていくのを感じながら、私は男の手を離れ、海へと落ちていった。


 ああやっと、と思う。

 やっとあの存在の元へ行ける。

 ずっと、好きだった。

 好きだった、誰に理解されなくても。

 好きだった、だから。

 会いに行く、あなたに、


 あいにいきたい。





 目覚めれば、そこは海の底。

 遥か頭上に揺らぐは、きっと水面の船の灯り。

 どうしてと思った。

 深海に光なんて届かないことは、百も承知であったのに。


「おまけですよ。あなたの恋心に感銘を受けた、私の祝福です」


 延々と続くような周囲の闇から溶け出して、男は現れた。

 なぜいるのかと目で問えば、肩をすくめてほくそ笑む。

 もの欲しそうな様子に、ああ、代金が必要なのかと思えば、


「そのような野暮は言いませんよ」


 私の思考を読んだように、目が細まる。

 そしてすうと、ほっそりとした指で頭上を示し、恍惚こうこつと言ったのだ。


「ほら、あなたの愛がすぐそこに」


 見上げた。

 私は全身を焦がす熱情にあおられ、がむしゃらに海を見上げた。

 雄大な影が泳いでいた。

 光ないはずの水底に、私は魔女の祝福によって愛しい存在を視認する。

 巨鯨であった。

 白亜の肌を悠然とくねらせ大海を行く、幻のような鯨だった。

 月などないのに。

 ここは深海。

 光りすら食われる世界なのに。

 鯨はまるでその身の内から仄かに発光するように、優美な光に包まれ海流を行く。


 ああ、ああ、


 ――ああ!!


 万感が喉をほとばしり、あぶくになって海に昇る。

 ずっと、ずっと。

 恋い慕った存在が、かつてなく近いところにいる。

 私はたまらず手を伸ばす。

 幼かった遠い日。

 その姿を目の当たりにしてより、決して忘れられなかった恋に手を伸ばす。




 けれどその手は、白鯨には届かない。




 海に沈むことを願った魂は、海に浮遊し泳ぎ去る相手に、触れることは叶わない。

 ただ、しかし生涯に一度だけ。


「あの白鯨が生を全うし、抜け殻の体が海砂に朽ちゆくその時だけ。あなたはきっと、触れ合うこと叶うだろう」


 耳元で男がささやく。

 それは魔性の歓喜。

 男はいつの間にか着込んでいた闇のような外套がいとうを脱ぎ去り、私を抱きしめた。


「ああよかった。よかったですね。これであなたはもう誰にも邪魔されることなく、その恋を見つめ続けられる。決して触れること叶わずとも、交じり合うこと叶わずとも。あなたはただ一途に、その恋を燃やしていればいい」


 そして男はそんな愚かな契約に縛られた魂を、この海の底でずぅっと囲い続けるのだ。


 遠い水底からでも目を奪われるほど美しい恋の瞳を持つ娘だと。

 その魂を手の内にするため陸にまで上がり、ずっとこの時を待っていたのだと。


 よろこびによじれる魔性の瞳に、私は、




 自分と同じだけ降り積もった、密やかな恋の存在を知ったのだった。

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海を見上げる 壺天 @koten-3

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