吉村 栄斗④
結局農業大学での報告会には、まったく集中できなかった。栄斗が思った以上に専門的で難解な話が多かったうえ、偉大な研究者らが醸し出すオーラのようなものがその空間に充満し、ホールの入り口から司会者の後ろの壁まで、ぴん、と張りつめたような緊張感があった。平野はある程度理解できたようで興味深そうに研究者らの報告を聴いていたが、佐々木や神谷はどうだったのだろうか。自分たちの班が行くのであれば、開発に携わっている研究職の社員に代わりに出てもらった方がよかったのだろう。
だが、報告会に集中できなかったのは言うまでもなく真理のことが頭を離れなかったからだということは、栄斗が一番よく理解していた。聴講中はもちろんのこと、報告会が終わった後に班員で集まって得たものを共有している時間でさえ、栄斗は真理のことを思い出して、その場では当たり障りのないことをなんとなく発言してやり過ごした。そうするより外に仕方がなかった。思えば、複数人を相手に話すというのは、あのプレゼン以来のことかもしれないと気づくと、もうそこから何も話せなくなってしまった。少なからず聴講したことから思い浮かんでいたアイデアはあったはずなのだが、プレゼンのことを思い出した途端にそれらは一瞬にして紙吹雪のようにあらゆる方向へ分裂して散っていった。班員があらかた話を終えた後に、二、三杯ひっかけて帰ろうということになったが、栄斗はそれに参加することなく自分の家に急いだ。あの街にいたら、何か自分が自分でいられなくなり、平静を保つということが果てしない辛い作業になりそうな気がしてならなかった。この日はそれ以上、他人と話すことが億劫に感じた。
電車に乗っていると、代々木上原から路線は小田急線から千代田線へと変わった。小田急線の水色が緑色に塗りつぶされ、栄斗の心はほんの少し、軽くなった。それも束の間、農業大学が駅から遠かったせいなのか、ただ過去の呪縛に触れていたからなのか、またはその両方なのか分からないが、身体は全身が気だるく疲労感でいっぱいになり、頭に締め付けられるような痛さが走り始めた。目を細めるようにして痛みをやり過ごしていると、斜め前の方に大学生と思しき十代ほどの若い三人組が楽しげに話しているのが目についた。自分のように仕事に追われることもなく、平日でも仲間と遊び惚けているような彼らが、この時の栄斗には羨ましく、また妬ましく思えてしまった。自分も少し前まではそうであったにもかかわらず。それから自分の家に着くまでは果てしなく遠く感じられた。その日は毎日欠かさずやっていた洗濯もせずに、栄斗は泥のように眠りについた。
自宅に着くと栄斗は倒れ込むようにしてソファに飛び込んだ。ふかふかとした感覚が固まった足腰を優しく包み、そのままでいて良いのだと、まるでソファが語り掛けてくるかのように思えた。体中の力を抜いて、なんとなく栄斗は天井を見つめ、床を見つめる。今日は良くない日だった。というより、ここのところ何をするにしても調子が出ない。自分に活力みたいなものが感じられなかった。ため息をついてもう一度床を見渡すと、部屋は栄斗が思っていたよりも散らかっていた。七割ほど読み進めた自己啓発本、すでにいらなくなった資料のいくつか、なぜか捨てないでいる濃紺の綺麗な紙袋。そんなもののあれこれが、カーペットの上に転がっていた。台所には、洗ってはいるのにラベルのはがれていないペットボトルもある。左腕に目をやると、時刻は十時を過ぎたくらいで、まだまだ眠りにつくには早かった。本来ならばこの程度の散らかりなど軽く掃除してしまえば済む話だが、栄斗の腰はなかなか動こうとしなかった。そう、今寝転がっているそのままで良いのだと、コイツが言うからだ。
「そのままでいいんだよ」
それは真理がよく栄斗に言っていた言葉だった。中でも栄斗は、
午前八時二十四分。ここのところさらに増してきた初夏の蒸し暑さと、閉め切っていたはずのカーテンの微かな隙間から差し込む日の光のせいで、栄斗は目を覚ました。まだ半分ほどしか開かない目を懸命に凝らして眼鏡を探すが、見つからない。やれやれと思い体を起こしてベッドから這い出すと、疲れはとれたのか体は確かな軽やかさに包まれていることに気づいた。少し歩いて洗面所まで行くと、予想した通り眼鏡はそこにあった。やはり昨日は風呂から上がるやいなや、眼鏡をかけるのも忘れるほどに急いでベッドに直行したのだった。眼鏡をかけると、それまでまるで滲んだ無数の綿が広がったように、そしてそれらがお互いの中に溶け込んでいく最中のように境界線が曖昧になった世界が、明らかでくっきりとした色と線に支配された世界へと変わった。そこでようやく目が開けてきた栄斗はクローゼットの上の時計に目をやると、さらに目を見開いた。時刻は八時三〇分を回り、それは栄斗が本来起きるはずの時間よりも一時間以上遅いのだった。どんなに急いでも今日の出勤に間に合わないだろう。昨夜、アラームをセットするのも忘れていたのだ。すぐに会社に遅れるという連絡を入れようと電話を掛けると、
「おーう、どうしたの」こちらの状況など知る由もない神谷が、拍子抜けするような声で電話に出た。
「おはようございます、すみません、寝坊してしまいまして遅刻します。急いで準備して出発するので、すみません」とだけ早口で伝えてしまうと、栄斗は神谷の返答を遮るようにしながら電話を切った。栄斗は「洗う」というより「打つ」ようにして顔を洗ってから少しシワの残る仕事着に着替えると、何か手軽に口に放り込めるようなものがないか探したが、それらしきものはどこにも残っていなかった。あるのはカップ麺と、腹の足しにもならない小さな袋詰めの菓子、冷蔵庫の中にもソーセージやスライスチーズ、それに泥の付いた野菜以外食べ物といえる食べ物はなく、栄斗は残り二五〇㎖もないであろうオレンジジュースをパックの口から胃袋へと流し込み、大急ぎで歯を磨き、だらしなくならない最低限の髪型のセットをしてから家を出た。
徒歩十二分ほどかかる駅までの道のりを、なるべく安全に、息を切らさない程度に、セットを崩さないように、汗をかかないように、それでもその条件下で出せる最も速い速度で栄斗は走っていった。こういった時ばかりは、学生時代に部活動でやらされた持久走の経験が生きる。しかしさすがに朝の固まった体はいうことをきかず、ふくらはぎのあたりが突っ張るようにしてブレーキを掛けた。ようやく電車に乗り込んだ時には通勤ラッシュもピークを過ぎたのか、少しだけいつもの電車よりも空いているようだった。栄斗の焦りとは裏腹に、電車は各駅を一つ一つ丁寧に止まり、その都度に時間をかけて人を吐き出しては吸い込んでいく。車内には栄斗のようなサラリーマンや、目元のあたりをオレンジ色に染めた大学生らしき若い女性、夜勤明けなのか少しペンキのような汚れが付いたままの作業服を着て眠っている中年の男性などがいて、栄斗は電車の中だけで実にこの世に生きる多くの人間を見た気がした。ようやく明治神宮前に着いて千代田線に乗ろうとまた駅の中を走ると、途中にあった小さな鏡に映った自分を見てハッとした。整えたはずの髪型は崩れ、朝起きた時よりもひどい寝ぐせのように跳ね上がり、顔は二十代のそれとは思えないほど渇いてやつれていて、絶えず霧吹きで湿らせているような空気とのあまりのミスマッチに、情けなさよりも諧謔性を多く孕んでいるようにさえ思えた。スマートフォンの充電は三十七パーセント、シャツのシワはさらに複雑さを増して、髪はボサボサで覇気のない顔つきの男が、そこに映し出されている。その光景が面白く、目に焼き付けたいと栄斗は思った。真面目に勤め、努力をして周囲の評価も得てきた男の、その裏の、というよりは真の、中には何も詰まっていない面がここに来て裸のままで飛び出してきそうだった。だが、彼はいつまで経っても鏡の中にこの世から乖離した存在のように閉じこもっていた。ふと我に返ると栄斗は再び千代田線のホームへと急いだ。時間にして自分はどれくらい鏡を見つめていたのだろうか。周囲の人間からすると、「普通の人」ではなかったかもしれない。それに費やした時間を少し悔やみながら、栄斗は赤坂へ向かった。
「すみません、遅れてしまって」息を切らしながらオフィスに着くと、時計の針はすでに十時近くを指していた。
「大丈夫だよ」佐々木が特に気に留めることもなく答える。他の社員や班のメンバーも特に何も咎めたりするようなことはなかった。栄斗は遅れを取り戻すべく仕事にとりかかろうとしたが、少しして集中力は途絶えてしまった。体は軽いのだが、心が重い。胸のあたりに何かつっかえて取れないような不快感がでてきた。ここ最近、あまり充実していないことのストレスなのかと思ったが、ストレスでやられるのは胸ではなく胃の方であるとテレビのコマーシャルで昔見たことを思い出した。どうにかできるだけの仕事をそのまま片付けようとしていると、あっという間に昼休みの時間が来てしまった。それはそうである。何せいつもより出社が一時間半ほど遅かったのだから。昼休みに入るか、それとも仕事をもう少しだけ片付けるか、どうするか。休憩を今すぐにでも取りたいが、栄斗にとって午後が長く感じられるのは、今休憩が取れない以上に苦痛かもしれなかった。どうしようかと考えあぐねていると、佐々木が声をかけてきた。
「お疲れ。まだ早いかもしれないけど、たまには昼一緒にどうだ。前みたいに」懐かしく、嬉しい誘いだった。しかし、それが余計に午後の憂鬱を誘う布石のような気がしてしまい、栄斗は、あ、いいです、ねと歯切れの悪い返事をしてしまった。佐々木が食事に誘うのは、他愛もない話をする時もたくさんあったが、何か栄斗に悩みがある時もあった。今朝の有様から、佐々木は心配しているのかもしれない。気を遣ってもらうのが申し訳なくなってしまったが、久しぶりの誘いを断る気も起きず、栄斗は佐々木と昼飯を一緒に食べに行くことになった。場所は、以前お互いが今より忙しくなかった時によく行っていたお馴染みの定食屋だった。
「最近、大丈夫か」一番恐れていた質問だった。
「大丈夫、といいますと」栄斗はそれが何を意味しているのか理解していたが、聞き返してみた。 ・・・・・
「なんか、新商品の原料供給が見送られちゃってからいまいち締まらないと思ってさ」分かっていた返答ではあるが、いざ改めて言われると胸がチクリと痛む。やはり最近仕事に身が入らないのは、佐々木にはお見通しだったというわけだ。
「すみません、正直最近なにかダメで、いろいろと」そう話している自分は、まさに駅の鏡で見た時の姿をしているのだなぁと栄斗は思った。
「んー、もっかい言うけど、あんなん大したことじゃないよ。な。…ま、優秀な奴ほどたまにある失敗に怯えて、自信なくしちゃうんだよな。そういう時って、誰からの励ましも、否定的に捉えちゃうものだからな」
知ったような口をききますね。それが栄斗の率直な感想だった。確かにあなたにはたくさんの恩がある。こうやって悩みを聴いてもらったことも感謝している。仕事ぶりにも感心している。でも、あなたはその歳でずっと「第二」営業部じゃないか。あなたの同期は、ほとんど「第一」とか、他のエリート街道に行ってんじゃないか。会社の中の世界で見るならば、そんなにあなたは優秀って程でもないのかもしれないだろ。それに―――。
「俺もなんだ」佐々木がついに口を割った被告人のように静かに発した。
「はい?」
「昔やらかしたんだよ、お前がウチ入ってくるよりも前に」
「やらかした、んですか」佐々木が何を言っているのか分からなかった。
「俺な、三十手前って時に第一営業部に昇格したんだよ」
「第一に、ですか?」
第一といえば二十代でそこに昇格するのは至難の業だ。あそこには経験豊富なベテランや他所から引っこ抜いた非常に頭の切れる社員がうじゃうじゃしている。営業に携わる人間なら誰もが、もちろん栄斗も今後の出世を考えるうえで、いつか第一営業部に行きたいと考えていた。そこに、佐々木が今の自分とほぼ変わらないくらいの年齢にして昇格したのである。そしてそれは、もちろん今まで佐々木本人からはおろか、周囲の人間からも一度も聞いたことの無い事実であった。
「ああ。その時は自分が誇らしかったよ。誰よりも頑張って会社に貢献してってさ。でもな、それまで順調だったのに、ある時、まあ三十後半くらいかな。俺のちょっとした勘違いのせいで大事な取引先とのコンペの日程を間違えちまって。そこから契約は打ち切られるわ、会社の人たちみんな怒らせちゃうわで、散々だったよ。結局俺は第二営業部に逆戻り。そこから二十年近く、一度も第一には戻らせてもらえなくなった」
衝撃、という言葉しか出てこなかった。佐々木はこれまでの仕事ぶりからしても、本当に栄斗ら他の社員ではできないような仕事をしてきたし、普段の言動からしても聡明であるとは思っていた。だが、それほどの男でも何か、上層部の人間が発しているようなギラギラした顔つきや、みなぎるような闘志が足りていないように自分は思っていた。しかしそれは、たった一度の失敗で地位も信頼も失ってしまった男の、悟りや諦念といった境地から滲み出た人間性なのだと、佐々木が多くを語らずしても栄斗は理解した。だが、これほどまでに第二営業部からの信頼を集め、今なお冴えない自分などに寄り添ってくれるこの男のことを、なぜ上の人間は頑なに評価しないのか。その疑問を抱くと、栄斗は同時に赤面した。自分はいかに素晴らしく聡明で優しい上司に恵まれ、励まされてきたのか。その有難さを分かったようで実は理解していなく、勝手に佐々木を無能な敗北者のように捉え、彼にもう少しで自らのふがいなさからくるストレスをぶつけようとしたのだ。今の栄斗は身の程知らずで、厚顔無恥であった。佐々木には一切の非がなかった。彼はその温厚な態度からは想像もつかないほどの過酷な経験をし、誰よりも悔しい思いをしながら今日を生きているに違いない。その悲劇に比べれば今の自分のことなど、吹けば飛ぶようなちっぽけな問題に過ぎないと感じた。
「なぜ、今になってそれを教えてくれたんですか。俺なんかに」栄斗は佐々木の顔を見れないまま、俯いて尋ねた。羞恥で真っ赤になった顔を、そんな顔をしていると知られていても、見られたくなかった。
「このままだと、お前が俺みたいになっちまう気がしてな。ま、親心みたいなもんだ」アイスコーヒーを一口飲んで、今は何も気にしていない、とでもいうように佐々木はニヤッと笑って見せた。ただ、佐々木の微笑にはうっすらと「本当はやりきれないけどな」と書いてあるように見えた。とりあえず食べようか、と佐々木がヒレカツに手をつけた。栄斗もならって、サバの塩焼きに箸を伸ばす。それからは互いに仕事の話はせず、とりとめもないことを何となく話した。だが、ふいに佐々木が、今支えてくれる人はいるのか、と尋ねた。
「それは、恋人、とかですか」
「ああ」
「いや、今はいないです」
「そうか。そういえば前に一回だけ、お前から恋人のことで相談してくれたよな」
「そうだったかもしれません」
「うん。いや、今のお前の恋人が知りたかったってわけじゃないんだ。今は暮らしも便利になって、娯楽もたくさんあって、一人でも楽しめるいい時代になったよ。でもな、俺はやっぱり、支えてくれる恋人っていうのはすごく大きいと思うんだ。この時代になっても」
「そういうものですか」
「さっきの話に戻っちまうけど、そのやらかした時に俺を支えてくれたのが、奥さんだったんだよ。これは自慢でもなんでもないけど、彼女がいなかったら俺はどうなっていたか分からない」
「あまり奥さんのことを聴いたことはなかったですけど、素敵な奥さんなんでしょうね」
「まあね。って、俺の話は良いんだよ。とりあえず言いたかったのはさ、もしお前の周りにそういう人がいたら、大事にしてやれよっていう話だ。人間、やらかしちまった時はどうしても一人じゃ元気になれない時があるからさ。別に恋人じゃなくてもいい。友達だっていいし、家族でもいいし、誰でもいいからさ、とにかくそういう人、自分が支えを求めたい人を大事にしてあげろよ。そうすれば、仕事でやらかしても前向きに考えられる」丁寧に、佐々木が言った。
「分かりました」それだけ言うと、栄斗はまた黙りこみ、今の自分にはそれが誰に当たるのか考えた。それでも、今はそれを考える気分にはなれず、また、こうして共に昼食をとる時はいつも佐々木がご馳走してくれたことを今頃になって思い出し、自分の頼んだ定食の値段がいくらだったのかばかりが気になるようになった。もし押し切られてご馳走になってしまっても、佐々木に楽しかったと思ってもらえるようにと、栄斗は全く違う話題を振って、明るく食事ができるようにシフトした。
結局佐々木が二人分の会計を済ませて、オフィスに戻るのだった。
何かが変わる気がした。何かが救われる気がした。何かが始まる気がした。そして何かが終わる気がした。栄斗はそう思い立って翌週の休日の夜、家の掃除や残していた仕事を片付けてから千歳船橋へと向かった。もう小田急線とあの七文字に脅かされる気はしなかった。脅かされていたとしても、それではダメなのだ。ただ、そこで起こる全てに身を任せようと思った。たとえ、真理に出会ってしまったとしても。だが、真理が今もそこに住んでいる確証はなかった。
気が付くと六月に入っていた。空は一日中深い灰色に覆われ、日光が差し込むことはなく、針のように細かい雨がアスファルトを絶え間なく潤していた。駅を降りて少し歩くと商店街と呼ぶべきかそうではないか、くらいの通りがあり、栄斗は当てもなくその通りを歩いた。途中で気のいい中年の男性が一人呑みどうですか、と声をかけてきたが、大丈夫ですと丁寧にあいさつをして通りを進んだ。腹は減っていない。一人で飯も食わずに歩いていても誰にも何も言われない。一人暮らしをしてからというものいつもそうであるのに、今日はなぜだかそれが清々しかった。そのまま通りを歩いているとすっかり辺りは住宅街になってしまい、それまで栄斗の目を楽しませていた賑やかな雰囲気は跡形もなく消えた。それでも左、右、右、そしてまた左と角を曲がりながら、適当に歩く足を止めはしなかった。だがすでに、自分がなぜここにやってきたのか、何を求めているのか分からなくなった。途中で農業大学のあたりまで来てしまったことに気が付いて正門の前まで来たは良いもの、そこには学生一人おらず、ただ大きな木が湿った風にあおられて首を傾げるだけだった。ため息をついて駅の方へまた歩いていると、桜丘中学校近くでベンチのある小さな公園に着いた。
そこには真理と栄斗がいた。確かに。あの日。真理を家まで送った後、帰るのが名残惜しくて、真理の案内で途中にある公園で話をした。大学の講義のこと、引退したばかりのサークルのこと、アルバイトのこと、就活のこと。それからしばらく黙って手を繋ぎ、俯いて、また見つめ合い、二人はキスをした。あの時、ただそれだけで満たされていた。幸せの意味を、体全体で理解した。自分という人間を認め、肯定し受け入れ、支えてくれる人がいることが、本当に嬉しかった。今にも消えてしまいそうなほどに弱く小さい真理の手が、栄斗の手を強く握っていた。中山の言ったように、それを自分は自分の手でほどき、遠ざけてしまったのかもしれない。
栄斗は目が涙で潤んでいたことに気づいた。真理のことが大好きだった。ずっと、真理のことを見ていた。それなのに、いつしか真理の目に映る自分のことばかり見るようになってしまった。自分に誇りがなく、それはこんなに綺麗で優しく愛してくれる彼女に不釣り合いに感じられ、とにかく彼女が離れていくような大きな不安がそこにはあった。そしていつの間にか、一緒にいるときも栄斗が見ているのは真理ではなく、嫌われないかと不安になっている自分になってしまった。真理が見ていたのは、きっとありのままの自分だったのに。涙が止まらなかった。一緒に話したこの公園の名前や、真理の家の場所は忘れてしまっても、一緒に愛し合った時間を忘れてはいなかった。本当は、最初から真理に会いたくてここに来たのだと栄斗は知った。もう一度会って、今度はずっと真理のことを見てみたかった。雲は厚みを増して月を隠し、辺りは黒い渦に包まれた。
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