谷原 真理③

 「長岡徹也」

 栄斗にそっくりだったモデルの名前だ。真理は気が付くとその名前を検索していた。優美がトイレに行っている間、つい手持ち無沙汰になった時に、なんとなくスマートフォンを触っていたら、このページに行きついてしまった。彼はテレビ出演こそあまりしていないものの、そこそこ人気のモデルらしく数々の雑誌や広告でも起用されている。いかにもモデルらしく、私生活もとてもお洒落に気を遣っていて、香水の記事なんかにも自分のこだわりを載せているようだ。SNSも華々しい投稿でいっぱいで、確かに人気モデルであることにも納得がいく。だが何か、真理は長岡徹也のことが好きにはなりきれない。私はもっと、自然体っぽくて、こんなに(女である私以上に)美容やお洒落に気を遣いすぎるんじゃなく、ご飯をよく食べそうな…私が本当に見たいのは。好き、だった、なのは。

 「ごめん!お待たせ!」優美の声がした。

「うん」半分声が裏返った。真理は優美が帰ってきたことに気づかなかった。

「何ニヤニヤしてたの」

「え?」

「今戻ってくるとき、真理スマホ見ながらニヤニヤしてたよ。どうしたの?ついに?お?」

真理はそんなこと、少しも自覚していなかった。そうだとしても、それよりも、自分よりもっとニヤつきながら優美が質問してくることに真理は心の中でツッコミを入れた。

「え、あ、そんなニヤニヤしてたかな」

「うん。そんなに大したことじゃなかった?」

「…まあ、この前雑誌に誰を使うかって話?になって話題になった人を見てただけなんだけどさ、この人。」

何故だか、優美に長岡徹也を見てほしかった。そしてどう思うかを言ってもらいたかった。正確には、褒めてほしかった。そう、まるで、自分の恋人を友人に見せるときのように。真理はこの時、確かに長岡徹也を栄斗に重ねながら話をしていた。

「あ~割とかっこいいね。なんかで前見たことあるかも。てか、前付き合ってた人に似てない?真理の。」

やはり似ているのだろうか。優美は前に栄斗の写真を見せた時も同じようなリアクションだったような気がする。前といっても、五、六年前になるのだろうけれど。

「…やっぱり似てるよね。職場の人には言っても伝わらないから、その時は流してたんだけど」

「なんでなん」突然優美が関西弁になった。

「え?」

「なんで見てたん、そもそも。その人の写真」

「え、な、んとなく?」

「へえ」優美がまたニヤついた。そして「さては、社会人になってからというものそれらしい出会いが何もなくて、元カレのことが恋しくなってきてるな?お?」と付け足す。

 真理は何も言い返せなかった。というよりも、言い返す気にはならなかった。もう、そういうことなのかもしれない。確かに社会人となってからというもの、それらしい出会いはなかった。職場は女の人だらけだし、取引先のお客さんも女性の人ばかりだ。これといって出会いのあるような趣味やイベントにはあまり興味がないし、などと思ってみると、私の生活というか、人生というか、世界というのは変化や出会いというものへの関与がなく、つまらないの一言に尽きると真理には思えた。もし私が主人公の物語があるとしても、それは誰にも興味を持ってもらえないガラクタで、例えばこのアイスティー用のストローが入っていた、ぐしゃぐしゃに丸まった紙くず程度のものなんだとも思えた。

「真理」

「まーりー。」こんなに近くにいるのに、それは遠くの畑からおばあちゃんに呼ばれている時のような感じで、優美の声がした。

「あ、ごめんボーっとしてた、どした?」慌てて真理は聞き返す。

「前会った時、たしかその人っぽいのが後ろの方の席に座ってたような覚えがあんだよね、って話」

「その人?」

「だからその今見せてくれたモデルさん」

「あ、え、そうなの?この前って、会ったのって、その時もとまりぎ来たよね?」

「うん。ちょうどあそこらへんかな、入り口の方」

「そうだったんだ…」

こんな人気モデルが、こんな普通っぽいところで食事を?もっと表参道とか、代官山とか、それらしいところがいっぱいあるだろうに。たしかにとまりぎの雰囲気はとても良いけれど、それにしたってここはネットやテレビで話題ってわけでもないし、ましてや、ここは新百合ヶ丘。江ノ島線の方にある優美の実家に遊びに行く時の途中で、何となく入ったのが「とまりぎ」に来るきっかけだった。そういえば、優美の母が作ってくれた生姜焼きがとても美味しかった。卒業して以来、都内から優美の実家の方へは行かなくなってしまったと、真理は少し寂しい気持ちになった。優美の母は、自分のことを覚えているだろうか。

「でもさ、スーツ着てたんよ、たしか」

「スーツ?何かの撮影?」

「うーん、見た感じ、一人でいた気がしたけどなぁ」

「そうなの」

「まさか、なんてこともあったりなかったりしたかもね」

「…その人が?」

「元カレさんだったのかもしれないでしょ」

 そんなことがあるのだろうか。栄斗は都内の企業に勤めることになった(らしい)けど、転職してこの辺りに勤めることに?そして同じようにとまりぎに通うようになったのだろうか。

「気づいた時にはその人、もう店出ていくところだったからあんまりよくは見てないし真理にも別に言わなかったんだけどね」

「もう一回だけ、会ってみたかったかも」

正直な気持ちが、声となって口から出た。




 優美と別れ、駅に着くと辺りはすっかり暗くなっていた。ふと空を見上げると、この時期にしては珍しく、雲一つない空が広がっていたことに気づいた。日中であれば清々しいような空模様なのであろうが、夜の闇が、そんなものは元からなかったかのように思わせる。けれども、代わりに月が美しく光っている様がはっきりと見え、それは確かに東京の街を照らしているかのようだった。これはこれでまた、美しい空模様なのだと、真理は思った。

 自宅のアパートまでは歩いて十分。優美と夜飯も一緒に食べる約束は、優美の仕事の都合でなくなってしまった。営業の仕事はやはり忙しいようだ。取引の好機を逃してしまいかねないため、先方の都合に無理にでも合わせなければならないことも多いのだ。「あのおっさんのところに行くのと比べれば、こんなのまだマシよ」と思いながら、優美は今頃準備に取り組んでいるだろうか。オフィスの中から出ず、一日中ずっと座って仕事をしている真理にとっては、優美のような仕事はとてもこなせないように思えた。思えば高三の六月にバレーボール部を引退して以来、運動らしい運動もできていない。たまには歩いてみるかと思い、真理は少し遠回りして帰ることにした。

 それにしても、半端な時間と腹の減り具合である。昼にランチを済ませて以来、何も口にしていない。何か買って帰ろうと真理はコンビニの前で足を止めたが、なぜだか店に入る気が起きなかった。コンビニを後にして適当に歩き、次の店で何か買って帰ろうと思ったが、真理はその後、どの店にも巡り遇うことなく帰宅した。風呂を済ませるとベッドに飛び込み、空腹に襲われる前に真理は眠りについた。




 夢を見る。

真理はひとり、どこかの街を彷徨っていた。空はずっと遠くの方までぼんやりとした黒が広がっていたが、自分のまわりの街並みにはしっかりとした輪郭がついて見え、それはどこか生命を感じさせた。あてもなく歩いていると、向こうの方に灯りが見えて、灯りに向かって歩くと、なぜかそこは急に開けた通りへと変わり、少し前の方に、栄斗と自分が手をつないで歩いているのが分かった。なぜ自分がこの世界に二人いるのか分からないまま、そして栄斗の横にいるのは確かに自分であるはずなのに、左手に栄斗の体温が感じられないことがもどかしくなり、真理は二人のもとへ駆け寄った。それでも二人との距離は少しずつしか縮まらないうえ、息を切らして懸命に走るほどに、栄斗の横にいる自分は、次第に他の女性の姿へと変わりゆくのだった。やがて真理が走り疲れて足を止めると、前の二人も歩くのをやめ、何か遠くの方を指さして話をし始める。目を凝らしてみると、前にあるのはひとつの大きな月だった。彼女を見つめる栄斗の瞳は、生まれたばかりの赤ん坊に向けるような優しさをもって、それは、普段不器用な彼が、自分にしか見せなかったものであった。その横顔が月明かりに照らされて、ぼやけた黒の中でくっきりと浮かびあがった。真理はその横顔を、世界で一番美しいと思った。

「ずっと会いたかったの」彼女は栄斗の手を握りながら言った。それはこの世界の真理が、一番栄斗に伝えたい言葉だった。

 俺もそうだった、と栄斗が答えて見せ、また微笑む。

待って。私も会いたかったの。

真理の声は届かなかった。

変わるから。私、あなたの自慢の彼女になれるように頑張るから。

それでも、栄斗は真理ではなく横にいる彼女の手をより強く握り、ずっと月を見ていた。

 

 栄斗。聞いて。お願い。私はあの時あなたに置いて行かれるような気がして、不安になって、頑張らなくていいとあなたに何度も言った。そのままの栄斗で十分に素敵だという思いに嘘偽りはなかったけど、栄斗が頑張るほどに、ただでさえ何に対しても情熱のない自分が余計に惨めに思えるのが嫌で、あなたを引き止めようとした。自分を満足させるために、あなたを引き止めようとした。でも本当だったら、私が誰よりもその頑張りを認めて支えてあげるべきだったのに。ごめんなさい。だから私、今度は本当にあなたを支えられるように頑張ってみるから。だから、戻ってきて。今あなたの横にいる人よりも、私の方が、ずっとあなたを、愛してみせる。

 その思いは声にならないまま、それまで確かな輪郭を帯びていた街並みは、ぐにゃりと歪み行き、やがて夜と街の境目が分からなくなるほどに両者が混ざり合うようになったあとで、真理は目を覚ました。

 真理は自分が伝えたかったことに、この時ようやく気付いた。

 栄斗に、会いたい。




 深夜二時二十六分。空腹を忘れるために眠りについたのに、結局はその空腹で起きてしまった。真理はしばらく真っ暗な部屋で、そのまま何もできないでいた。また眠りにつこうと思っても、お腹はぎゅるぎゅると呻きながらそれを許さない。それでも真理はベッドから起き上がることはせず、見えないのだが確かにそこにある天井を見つめていたが、こうしていると真理の頭に浮かぶのは夢で見た栄斗の横顔であった。あの隣にいた女性は誰だったのか、自分の知っている人なんだろうか、それは定かではなくとも、真理はあの女性を素直に羨ましく思っていた。今となっては、もう触れることはおろか、その姿を見ることすらできないまでの距離にまで離れてしまった栄斗。ただ、今はその虚しさの中に自分を余すところなく浸していたいと思い、真理は暗闇に栄斗の横顔を見ながら、今度は栄斗にしか自分が見せなかったような表情と、眼差しを作ってみた。あぁそうね、私はこんな風にあなたを見つめていたね。美しい横顔の産毛まで見つめるようにしながら、真理は指先を栄斗に伸ばした。しかしそこにあったのは栄斗の横顔ではなく、泣いている自分の顔であった。

 その醜い自分の顔を見て、真理は確かに自分の気持ちが分かった。忘れてなどいなかった。真理は栄斗への愛情を、忘れることなく確かにその心のずっと奥の方に閉まったまま、六年程の月日が経っていたのだった。でも、これが今彼を好きなのかということかと問われたら、それはそういうことではないのだろう。ただ、会えなくなった人や前の恋人のことを人々はよく「忘れた」というけれど、人間はその、自分に確かな幸せを与えたほかの人間のことを忘れることなど、できるわけないのだと真理は思った。「忘れた」という一言にその不可能性の拒絶を任せているのであって、実際にはその人を思い出さないように、蓋をして、あたかもそこに元からなかったかのようなものとして認識し、自分が普段開く記憶の箪笥の外に追いやることで、なんとか自分を保って、私たちは今日もすまし顔で息をしているというだけなのだ。そもそも「忘れた」ということであれば彼のことなど思い出せすらしないはずであるし、それであれば人はなぜ「忘れた」ということをよく使うのかなどと考えながら、真理は空腹を満たすべく、暗がりの部屋の中をキッチンに向かって歩き出したが、その途中で何かにつまずいて、なんとか四つん這いの姿勢で転ぶのを免れた。前にある姿見に写った、ダボダボとした部屋着に、前が見えなくなるほどに顔を覆った髪の毛を纏う自分の姿は、まるで〈悲しき獣〉とでも呼ぶべきほどに醜い姿であり、それはベッドの上で見た、泣きはらした自分の顔よりも何倍も醜く、いや、同じ「醜さ」という言葉では形容すべきではないものにさえ思えた。向上心がなく、大切な人を失い、ほんの少しの努力で満足をし、常に己を楽な方へと追いやるように取り繕う獣は、次第にしぼみ、だが確かな不気味さを膨らませながら、真理を同じように見つめていた。

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