吉村 栄斗③
中山は自分のことを励ましてくれたが、まだ気持ちがすっきりしない。何をどう語ったところで、自分のプレゼンが至らなかったことはもう変えることのできない事実なのだ。いつも自分は切り替えが早くできるタイプだと思っていたが、今回に限ってはそれができない。なぜそれができないのかも、今の栄斗にはわからなかった。ただ、決して失敗の度合いが大きいから、というだけではない気がする。栄斗はもう一度肩まで湯船につかり、自分を見つめなおしてみた。
そもそもこんなに失敗を引きづっているのは本当に久しぶりのことのように思えた。思い返してみれば、ここ最近ずっと、何か大きな失敗というものに巡り合っていないのではないか。もちろん努力はしたが、それなりに仕事では成果を出してきたし、健康面や、交友関係でも特に何も問題は起こさなかった。自分でいうのは憚られるが、自分は至って優等生であったし、そうでありたいと思っていた。真面目に、誠実に、常に向上心を持って生きていることこそが、人生における美徳であると自分は信じていた。自分が今回の失敗をする前に犯した失敗は、何だっただろう。会社に入ってから…いや、もう少し前…就活…。就活の文字が、栄斗の頭に張り付いた。そうだ、就活をあんなに頑張ったのは、学生時代の失敗…真理と別れてしまったことがきっかけだった。
元々心配性で、不器用だった自分は、就活が始まる大学三年生になった時に、英語だったり、面接対策だったり、とにかく色々と手を出して準備をしていた。そうでもしないと、とりたてて取り柄のない自分が評価されないような気がして、それでもなかなか自信はつかなくて。それなのに、真理はそのままの栄斗で大丈夫と言ってくれた。でも俺は彼女のことを突っぱねて、蔑ろにして、ひたすらに就活対策をし続けた。真理のことも大切にしたかったのに、俺は不器用で、ほとんど真理にかまってやれなかった気がする。デートのプランだって前みたいによく考えなかったし、そればかりか、俺はいつのまにか、彼女のことを心のどこかで見下していたかもしれない。前もって就職の準備をしている自分を美化して、未来を見据えてる自分を誇らしく思い、反対に遊んでばかりいる真理のことが気に入らなかった。でも就活対策なんて誰に頼まれたことでもなければ、自信が持てない自分を隠すために始めた、ただのハリボテだった。でもそこから確かに、徐々に彼女との関係が難しくなっていって、三年生の秋くらいには別れてしまった。いや、正確には別れを告げられた。それからは、ただ遊んでばかりだった彼女にフラれた自分、惨めな自分を直視したくなくて、必死に勉強した。真理のことなんか考える隙もないくらいに勉強して、今の会社に入ることができた。それからだったと思う。嫌なことや恥ずかしいことはそれを見ないようにしながら、勉強や仕事に集中すればいいのだと理解してしまったのは。
それで結果を出し続けてきた。優等生になった。上司からの評価も得た。それだけで今回のことは皆も水に流してくれる可能性は十分にある。頭ではわかっているけど、どこかで自分の信用は一気に落ちた気がしてならない。心配なんだ。そうやって作り上げてきた吉村栄斗の人間像が崩れるのが。もし崩れてしまったら、そこに残っているのは、惨めで自信の持てない自分と向き合わずに、表面上の結果や肩書だけでなんとか自尊心を保っていた、見たくないものから逃げてきた、真理にフラれた時のまま成長していない吉村栄斗じゃないか?結局俺は何も変わっていないじゃないか。仕事の結果に満足してきただけで、ありのままの自分に自信なんて、今も大して持っていないじゃないか。もしみんなが今の俺を見たらなんというだろうか。いよいよ見切りをつけられるに違いない。栄斗は何か、今いる世界とは違う世界に少しだけ逃げ込むように、頭まで湯船の底に沈めてみた。
なぁ、真理。今でも真理はこんな惨めで情けないままの俺でも、そのままで十分だと、笑って受け入れてくれるのか。俺は君のことを受け入れようともせず、君の言うことに耳を傾けず、自分のことばかり考えていた俺のことを―――。
苦しくなって顔を湯船から出すと、また栄斗は混沌の世界に逆戻りした。
五月二十二日。栄斗は重い足を引きずるようにして、何とかいつも通りの電車に乗った。今日は気温も湿度も例年より高く、外にいるだけで不愉快になるような日だ。少し急いだだけでワイシャツが肌にぺったりとくっつく。まださすがにクールビズは始まっていないが、周りのサラリーマンも半分くらいはブレザーを脱いでいた。栄斗もブレザーを脱ごうとは思ったが、この満員電車でそれは許されなかった。ふぅ、と栄斗は小さくため息をつく。去年は今の時期からこんなに暑かっただろうか。どうやら地球(いや日本だけだろうか)はどんどん熱くなっているらしい。子どものころは地球温暖化の影響なんて興味がまるでなかったものの、こうも暑苦しい格好でいることを求められる社会人になってからというもの、夏が近づいてくるシーズンの鬱陶しさに、果たしてそれが温暖化の影響なのかはっきりとはわからなかったが、その影響を感じずにはいられなかった。栄斗は頭の中で昔何かのニュースで見た、南極の氷が溶けて行く映像を思い浮かべた。梅雨が近い。
午前八時三十七分。栄斗はいつも通り早めに自分の席に着くと、それだけで今日の重大な仕事をやってのけたような解放感というか、達成感のようなものに襲われ、やる気を腹の底、いや両足のつま先までえぐり取られたように気力がなくなってしまった。
「おっす、なんかテンション低そうだけど大丈夫か」
後に続いて出勤してきた神谷が尋ねる。
「あぁ、おはようございます。ちょっと昨日眠れなくて」
「お、さては恋煩いか?」
神谷が調子よくまた質問をする。恋。その一言に、一瞬どきりとしてしまう。自分には恋人も、好きな人だって…いない。
「別に寝れなかっただけですよ、普通に」栄斗がそのままのトーンで答えると、
「なんだぁ、つまんね」
神谷が一気にしょげて見せる。いったいこの男はどうしてこんなに日常的にテンションの上げ下げができるのだろうか。まるで何一つ悩みなど抱えていない、夏休み真っ只中の小学三年生を見ているようだ。だが神谷には仕事を始めたばかりのころに世話を焼いてもらったこともあり、感謝はしている。ただ、楽な人生を歩んでいるな、とは思う。それが悪い意味だとか否定したいだとか、そういったことではない。
「恋っていえばさ、経理部の鈴木さん、別れちゃったらしいぜ。この前。俺も噂で聞いた話だから確かかはわからねぇけど、同じ部署の人に聞いたから多分そう。どうよ?お前なんもないんだったら、狙ってみてもいいんじゃねぇの」
続けざまに神谷が話し出すが、ノリが学生くさい。
「…んまぁ、そんな話すこともないですし…難しいですねぇ」
今の低いテンションでも、なるべく悔しがりながら、栄斗は顔をしかめてみる。
「まあ、お前が行かないんなら、俺が行ってみようかな。あの子結構前から思ってたけどかわいいから…あ、佐々木さん、おはようございます」
「おはよう。で、次はだれを狙ってるって?」
佐々木が自分の席に向かいながら笑う。
「あ、聞こえてました?どうかスルーしといてください」
「まったく朝から調子いいな」
よく見る二人の掛け合いだ。神谷は上司と打ち解けるのも本当にうまい。目上の人間と接する時、どこか必要以上に改まってしまう自分と比べ、絶妙で失礼に当たらない冗談や雑談を繰り出すのが神谷の恐ろしく、また尊敬できる部分でもある。典型的な〈人たらし〉というやつか。これは生まれ持った才能なのか、それとも見えないところでコミュニケーションを学んでいるのか。もし後者であれば余計に尊敬しなくてはと、この掛け合いを見ながら栄斗はいつも思うのだった。
午前中にやる予定だった仕事が片付いた時には、いつも昼休みをとるはずの十二時三十分を回っていた。時刻はまもなく十三時だ。栄斗の職場ではある程度自由なタイミングで休憩をとることができ、基本的には各々が好きなことをして休憩時間を過ごしている。今日は何か変わったことをしないと気分が晴れない気がしたので、栄斗はオフィスの外で昼飯をとることにした。
栄斗の職場がある赤坂には、洗練された雰囲気のある洒落た飲食店がいくつも犇めいている。オフィスも多くあるということで、ランチタイムや仕事終わりの夜に多くの会社員を呼び込もうと、競争は熾烈を極めているようだ。駅前にはテレビ局の関係者と思しき人物が大勢いることも少なくない。栄斗は外食する時はいつもなら駅から少し歩いたところにある定食屋に行くのだが、今日は駅前に新しくできたカフェに入ってみた。
「いらっしゃいませ」
二十代後半と思われる女性の店員が栄斗を出迎えた。すらりとした長身に、さらさらとした栗色の髪を肩のあたりで切りそろえている。やはりこの街で働いている人は、それなりに綺麗にしている人が多いように思う。席が空くのを待ってから案内された席に座り、栄斗はトマトとシーフードのペンネのドリンクセットを注文した。少ししてペンネが運ばれてくると、上品な香りが目の前に広がった。それと同時に、なぜか先日に中山と話した時のことが脳裏をよぎった。
———「さっきの話に戻るけどさ」
「うん」
「とりあえず栄斗は自信ありげに見えて自己肯定感が低すぎるよな」
「いやそんなことないって」
「でも『才能ないから頑張らないとー』って。もうその一言に集約されてんだよ。お前サッカー部でもレギュラーだったのにさ。うち結構県大会常連なるくらいにサッカー部強かったのにだよ?」
そういえば中山は部活の雰囲気が合わないこともあって、野球部ではスタメンじゃなかったのか。
「でも部活でのことは部活でしか意味ないと思っててさ、それに」
「あのな!部活でも恵まれてて結果も出せるってそれだけですごいんだぜ?」中山が割り込んで力強く答えた。
「んまあ、そうかもしれないけど」栄斗は思わず頷いてしまう。
「…前のことを掘り返すのもどうかと思うけどさ、大学んとき付き合ってた人いたじゃん、真理ちゃんだっけ。話聞いてる感じ、その子も頑張りすぎるお前に距離感感じてたんじゃないのかな。もっとそんな気負わない感じが良かったんじゃないの。栄斗あんまり気にしないようにしてたっぽいけど、結構ショックだったろ?あの時は。」
完全に不意打ちだった。まさかここで中山が真理の話を出してくるとは思わなかった。
「いや、別にアイツのことはどうとも思ってなかったよ。あの時は就活で忙しかったし」
なぜだか右の脇腹のあたりがムズムズしたが、栄斗は淡々と答えて見せた。
「んー、ま、何が言いたいかというとだな、真理ちゃんがどうだったかはさておき、あんまり頑張っててもまた周りの人と溝ができちゃうかもってことだ。楽にいけい、楽に」―――。
あの話をした時、自分はどんな表情をしていただろうか。過去を掘り返そうとした中山への怒りに満ちた表情でもないし、真理に名前が出たことに対する驚きを顔に伝えた記憶はない。ただ平然、それだけを意識していたような気がする。ではなぜそんな平然を装ったのか、待て。なぜ「装った」という言葉が出てくるのか。栄斗はそれを考え込みながらようやくペンネに手をつけた。考え事をしているうちに少し冷めてしまったようで、眼前に運ばれてきた時のような、具材が生き生きと主張していた印象は、舌の上に乗るやいなや消えてしまって、まるでひとまわり委縮したように活力のない、無機質な味わいに変わっていた。途中からその味わいは薄れていくように感じられ、最後の三口くらいはなんだか天然ゴムのケチャップ和えを食べているような感覚に襲われた。三センチばかり残っていた、氷が溶けてどちらかと言えば水に近くなっていたコーヒーを飲み干して、ゴムのにおいを消してから栄斗は店を出た。先ほどの店員が帰り際に何かを言っていたような気がするが、うまく栄斗には聞き取れなかった。
この気分転換は失敗だった。せめてもの気分転換としてか、栄斗は無意識に「とまりぎ」で食べたカルボナーラの風味を、口の中で膨らませるようにして会社へと戻っていった。
夕方からは、東京農業大学で行われる、日本中の著名な教授や研究者らが集っての学会報告会に、栄斗の班は出席し、聴講することになっていた。農大の世田谷キャンパスには応用生物学部・生命科学部・地域環境科学部・国際食料情報学部の四つの学部が設置されている。班の中でも最も若い、三年目の平野が応用生物学部の卒業生であり、当時世話になっていた教授とのコネクションがきっかけで、何か今後の商品の改良や開発に生かしてもらえれば、というその教授の粋な計らいで、招待してもらうことになったのだった。健康的な発酵食品の研究をしている者、その発酵に欠かせない微生物に詳しい者、世界の食品ブームを飛び回って追っている者、管理栄養士の権威である者など、会場にはいかにも食のスペシャリストといったような人物がたくさん来るそうだ。本来栄斗たちのような一般企業の人間はあまり出席できないような報告会なのであるが、そこに招待をしてくれた教授の心遣いには、本当に頭が下がる思いだ。これを機に何かいいアイデアを生み出そうと、栄斗も気を引き締めなおそうとしていた。
だが栄斗の思いは予想外だにしない出来事で揺らいだ。場所だった。農大の場所だった。栄斗は世田谷キャンパスの場所をはっきりと知らなかったのだが、佐々木から待ち合わせについての話があり、そのキャンパスの最寄り駅は千歳船橋だとわかった。真理が住んでいた駅だった。赤坂から小田急線直通東京メトロ千代田線、向ケ丘遊園行の電車の中で、栄斗は自分が知らず知らずのうちに、小田急線に乗ることを避けていたことを思い出した。嫌だった。小田急線に乗って、ドアの上の案内図に千歳船橋の文字を見つけるのが。アナウンスで、何度も「チトセフナバシ」の七音が車内に響くのが。そうするとどうしても、栄斗は真理の住んでいた家を思い出した。そこで見たものを思い出した。そこで聞いたものを思い出した。そこで食べたものを思い出した。そこで感じたものすべてを、一つ一つ並べるように。それで小田急線に乗ることをやめるようになった。「チトセフナバシ」という響きから逃げることで、真理のことも忘れようとしていたことを思い出した。ネクタイの結びがきゅ、きゅ、という音を立てて一ミリずつ締まりを強めていくような気がした。栄斗は「チトセフナバシ」の中にそのまま飲み込まれそうになる予感を拭うかのように、なるべく柔らかな瞳で、少し奥の方にいる小さな親子連れの方を凝視した。七人の班員は現地集合であり、栄斗は一人で向かうことになっていた。明らかに様子のおかしい自分を誰にも見られなかったことが幸だと思ったが、誰かと共に向かうことで、こんな考え事をしないでいた方がもっと今の自分にとっては大きな幸かもしれないと思いながら、栄斗の心は五十音をたった七文字並べただけの言葉に侵されていった。
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