谷原 真理②

 五月に入って一週間が経った。また春が来たと思ったのも束の間、春らしい和やかな空模様は徐々に減ってきたのか、一日中曇りが続いていたり、時々弱弱しい雨が降ったりといった日が増えてきたような気がする。ふと、勤め先である品川に向かう山手線の車内を見渡すと、真理は自分よりもいくつか年の若そうな男が目についた。彼は朝から深刻な面持ちをしていて、姿勢もスーツもどこかくたびれている。きっと社会人になったばかりで、五月病にでも陥ってしまったのだろうか、今日のどんよりとした空は、まるで彼の心の中を映しているかのように思えた。とは言いながら、節目とも思える、大学を出て五年目の春も、自分はなんだか心地いいスタートは切れていないと真理は思った。五年目の春、大学、…栄斗。いや、今は昨日寝付けなかったことなんかに囚われている場合ではない。今日もまた、しっかりと人並みには仕事をしないといけない。そう、そうして家に帰ってそれなりのご飯を食べて、お風呂に入って寝て…そう、それでいいんだ。真理はそう自分に言い聞かせ、眠そうにうつむいているサラリーマンの波をかいくぐりながら、品川駅へのホームへと降りた。途端に湿気を含んだ大気が、真理にまとわりつくように引っ付いてきて、梅雨がすぐそこまで顔を出しているような気がした。




 「おはよう」

今朝の憂鬱を悟られないように、真理はなるべく明るい声であいさつをした。相手にいい印象を与えると知ってからは、地声の一音から二音高い声であいさつをするようにしている。

「おはよー…」

同期の白石が挨拶を返す。こちらは打って変わって眠気全開の声色だった。

「…また遅くまで飲んでたでしょ」

「バレましたかぁ」

「それ以外何があるっていうの」

「さっすがぁ。でも大丈夫よ。今日の会議もちゃんとやるからさ」

「途中で寝たりしたら困るからね」

なぜか憎めないのだが、相変わらず自由奔放な人だと思いながら、真理は白石に釘を刺しておいた。

真理は女性ファッション誌の編集に携わる仕事をしている。雑誌の出版や編集の仕事は激務だというイメージが強いが、真理の職場には厳しいノルマや制限はなく、比較的自由に仕事ができる環境にある。服装にうるさくもなく、世間一般から見れば十分に華々しいといえる部類の職場である。おまけに稼ぎもそれほど悪くない会社だ。必死に努力して入社したことで、誇りをもって生き生きと仕事に励む仲間がたくさんいる中、何となくの努力で入社できてしまった真理は、心の中で彼らに対し引け目を感じていた。私はこんな企画をしたいだとか、こんなコラムを載せたいだとか、そういったことをキラキラした瞳で語り合う仲間を見ては、羨望と嫉妬が入り混じった、まるで黄色やピンクに紫や黒を混ぜたような、なんともいえない気味の悪い色のインクが胸の中に充満してくるようだった。それでいて、そんなに熱意がなくとも入社できてしまったことや、結果は出しつつもいまいち心ここにあらずな自分をさらけ出すことは許されない雰囲気が、今日も真理の表情筋を無理やりに引き上げる。そんななか、常にのんびりしていてマイペースを崩さない白石は、周囲から半ば呆れられながらも、真理にとっては自分らしさというか、スタンスというか、ある意味でのかっこよさを持っているように映った。




 昼休みを終えて真理の班のメンバーが第三会議室に吸い込まれていく。この日午後一番の仕事は、真理の班が担当している人気ファッション誌の再来月号、つまり七月号の企画会議であった。真理の胸の中の黒ずんだインクが、にじみ出してくることが多い時間でもある。なぜなら班の中で目を輝かせながら意見を交わし合っているメンバーの板挟みに遭うからだ。そして午後一時三十二分を回ったころ、

「じゃあ早速だけど、まずはそれぞれ考えてきた企画を発表していこうか。最初は田中さんからお願いしようかな」主任の片瀬が口火を切った。

「では早速。前回の会議でも少しだけ提案させていただきましたが、夏本番に楽しめるスポットを紹介しつつ、そこでモデルの撮影を行いたいと思います。読者の中にはすでに夏の予定を考えている人も多いと思いますし、イメージが膨らんだところに出てくる、かわいい服を着ていきたい欲求を刺激してみるのも面白いと思います。」

「いいですね。それってデートスポットですか?」メンバーの一人である森見が質問する。

「あ、えーと、デートスポットでもいいかなぁと思ったんですけど、今回は思い切りそこを振り切って、女子旅向けのスポットにしたいと考えてます。夏本番となると、清涼感を売りにSNSでも話題を呼びそうなものが増えてくると思うので、そういったものを扱っているスポットを特に組み込みたいです。早めに夏の楽しみを先取りしたい読者にとっては、やはり最近のSNS映えしそうなところは気になるので、売り上げにもそこは大きく影響すると思います」田中がいったん締めくくった。

「確かに最近のインスタ映え?だっけ。すごいもんね。」片瀬が右側だけ口角を上げて、やや苦笑いしながら言う。

「はい。私の友人も最近いろんな写真の撮り方にこだわってます。SNSにのっけるために」田中が言うところの「友人」とは、本当は「私」のことなのではないかと真理は思いながら、話をただただ聞いていた。田中は真理よりも年下でまだ二十代前半であり、いわゆる「女子」に十分含まれるし、流行に敏感であることに違和感はない。私もつい最近まではそういう流行りみたいなものに敏感だったのになぁ、二十五を超えてからというもの、あまり気にしなくなってしまったと、真理は自分がまだ若いと自覚しながらも、自らの老いを感じた。そんな物思いをしているうち、発表は次の齋藤の番まで回っていた。

「私が七月号で載せたいのは……です」

「いいね。もう少し内容掘り下げれば……じゃない?」

「そういう内容安定して評判良いもんね。そういえばこの前の読者アンケートでも……が一位でしたよ」

「でもそれだと○○号のあのコラムと……かもね」

「ならいっそのこと△△号にのっけたやつの続編ということに……だよね」

「そうするとまた一から練り直す必要もでてくるんじゃない?やっぱりここは……思います」

「そもそもこのコラムって……でしょ」

「この前の高橋さんのやつ……でしたよ」

会議が盛り上がっていく中、真理は全く聞く気が起きないでいるばかりか、今が何の話題についての話合いなのかさえ分からなくなっていた。しかしそれでも必死に流れを掴む気になれない。真理はすっかり自分の中での話し合いに参加していた。そもそも私なんでこんなやる気ある人たちと一緒にいれてるんだろう。ここに私がいて何かプラスになってるかな。居るだけじゃないかな。私二十七になるのにこんなんで大丈夫?もっとみんなを見習って流行りとか逐一チェックした方がいいよね。でも普段から———。

「…てますか」

そんなにSNSもやらなく———

「ちょっと、聞いてますか」

「あっ、はい!すみません!」

「いや、どうしたの谷原さん?白石さんだよ、白石さん」

「え?」

ふと横の席に目をやると、白石がうつむいたまま居眠りをしていた。片瀬は真理にではなく白石に注意をしていたようだ。真理は顔から火が出る思いだった。白石はゆっくりと目を開くと、「すみません」とだけ謝った。こういう時だけ、白石は真剣で誠実な態度になる。いつもとのギャップが激しく、その度に周囲の人間は、叱るに叱れない魔法のようなものをかけられてしまうのである。こんな世渡り上手というか、ずる賢い人間になれれば、どれだけ楽な人生だったかと真理は思った。



 千歳船橋に帰る小田急線のドアにもたれながら、真理はいつものように窓から空を見ていた。時刻は午後七時十二分。夏に向けて日が長くなってきたような気はするものの、やはりこの時間の空はとっくに暗くなっている。窓の額縁の中を通り過ぎていくいくつもの建物をぼんやりと眺めているうち、真理は今日の会議の一部始終を思い出していた。


———「渡辺さんの企画は、ウケ良さそうだね」

「やっぱりデート特集は捨てがたいですね」

「ありがとうございます。やっぱり私もそう思ったんで、王道攻めちゃいました」

「これさ、モデルさんとかは決まってんの?」

「あ、一応オファーしたい方は目星をつけてます。たまにはいつもと違う人にもお願いしたくて。今写真出しますね」

「へー、確かにいつもと違う感じの人だね」

「私、結構タイプです」

「私にも見せてくださいよ」

「ほら、谷原さんも見てみて。どう?この人」

真理は内心モデルなどどうでもいいと思っていたのだが、端末の画面いっぱいに写し出された男を見てハッとした。そこには栄斗にそっくりな男が笑顔を見せていたのだった。今朝抑えようとしていた感情が一気に湧き出したのを、真理は口元でまたせき止め、思い切り飲み込んだ。

「んで、谷原さんどう、この人?」

どうといわれても…。

「たしかに、まあカッコいいですね」

真理はウキウキしながらスマートフォンを見せてきた森見に合わせ、そう返事するのがやっとだった。

 思い出さないようにしていた感情は、再び真理の中で噴出した。栄斗がモデル活動をしているのだと思うほどだった。あのモデルの男性は、顔立ちや髪型が栄斗にそっくりだが、、ただ醸し出す雰囲気や笑顔は微妙に違う気がした。しかしそれは真理の中の学生時代の記憶を刺激するには十分だった。あぁ、栄斗。わたしはやっぱりあなたに対して何かしらの感情を未だに抱いているのかもしれない。それが未練なのか、愛情なのか、羨望なのか、今はよくわからないけれど。

 真理は大きなため息を一瞬で片付けると、千歳船橋のホームに降りた。

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