谷原 真理①

 これまでの人生で、何か深く考えて行動したことはあっただろうか。真剣に仕事とか将来と向き合ったことはあっただろうか。あまりその自信はない。それは昔から、人並みには何でもこなせてしまったからなのかもしれない。別にそこまで努力しなくてもある程度の成績はとれたし、そこそこの大学にも、会社にも入れた。でも自分に自信がついた心地はしなかった。そこにはなにか情熱とか、夢とか目標とか、そういったものが溢れていたわけでもなかった。だからといってそれを悲観したことはない。だって誰にも迷惑をかけてはいないし、普通の生活ができてさえいればそれで十分だと思う。普通に働いてお金をもらって、時々友人と食事や買い物に出かけて…。それで自分の人生は十分だと思って生きてきた。ただ心のどこかに、このままでいいのか、何か大事なことを忘れたままで生きてはいないか、というしこりが根を張っているのをうっすらと感じながら、シャツの袖に腕を通した。




 「真理さ、聞いてんの?」優美が口をとがらせて真理に迫る。

「ごめん、なんだっけ?」慌てて真理が聞き返す。

「だからさぁ、そのオヤジが気持ち悪いって話!お得意先だから我慢してるけど、もー会うたびにジロジロ見てくるしご飯に誘ってくるしで鬱陶しいのよこっちはあんたみたいなおっさん眼中にないっての!」

優美は営業の仕事をするようになってからというもの、得意先の人からどうも目をつけられているらしい。優美は大学からの付き合いであり、名前通り綺麗なのだが、どうも意中の人からは言い寄られないのだ。蓋を開いたら結構毒舌なのがイケメンにはバレてるのかなと、真理はひそかに思っているが、真理は美人なのに気取ったところがなく、はっきりものを言ってくれる優美の性格が気に入っていた。

「あんまりきっぱり断ると取引に支障出るかもしれないし他の人と担当代えてくれないかなぁ嫌んなるわぁ」愚痴をこぼすときの優美は相変わらずの早口だ。でもこうして、休みの日にランチを食べながら優美の愚痴を聞くのもまた、真理は好きだった。

「好きでもない人から好かれるのは大変だよね」

「ほんとだよ!なんでいいと思った人からは好かれないかなぁ」

「難しいよね」

「もう早く別のエリアの担当になりたいわぁ」

「…そうだね」

「………あ、ごめんねいつも私ばっか喋っちゃって!スイッチ入っちゃうとどうも止まらなくて。真理はなんか仕事で嫌なこととか大丈夫?」優美が尋ねる。

「好きな人から好かれるにはどうしたらいいのかな」

「え?」

「好きな人がいたとして、その人が自分以上に何か、ほら、熱中してることとかがあった時って、そういう時に見向きされなかったとして、どうしたらいいのかな、って。何を頑張ればいいのか分からないし、その好きな人が夢中になってることは応援したいって思うし、邪魔したくないって思うし、って、よくわかんないや」真理は自分でもなぜこんなことをつらつらと話し出したのか、わからなくなってしまった。

「真理どしたの?急にめっちゃ喋るじゃん」優美は少し笑った後で真面目に言った。

「でもさ、それはやっぱり仕方のないことなんだと思うよ。自分のエネルギーを何に一番充てたいかっていうのはさ、人それぞれだから。趣味に充てたいって人もいれば仕事に充てたいって人もいるしさ。だからそういう見向きしてもらえない時って、自分が恋愛に充ててほしいエネルギーの量と、相手が恋愛に充てたいエネルギーの量が元々違ったってことなんじゃないかな。なんか、うまく言えないけど。それにしてもさ、急にそんなん考えるなんて、会わない間になんかあった?」

「ううん。そういうわけじゃないんだよね、へへ」

「なぁんだ、てっきり久々に真理の恋バナ聞けると思ったのになぁ。そろそろ持ってきてよ、そういうやつ」

「まあ、近いうちにね」

そして会計を済ませ、二人はすっかりおなじみの店となった「喫茶 とまりぎ」を出た。優美が途中、何かを言いたげな顔をしていたような気がしたが、それは聞かないでおくことにした。




 なぜ私は昼間、あんなことを口走ったんだろう。

真理は一人、アパートの天井を見つめながら、ずっと考え込んでいた。テーブルの上には、カップ麺と帰りにスーパーで買った割引の総菜。真理はわりと普段から自炊する方だと自分では思っているが、なんだか今日みたいに友人と会ったり楽しいことをしたりした日の晩は、家に帰ったとたんに何とも言えぬ虚無感に見舞われ、料理を作る気が起きないことが多い。大丈夫。一人暮らしの若い女なんてそんなものだ。真理は自分の中でそう思っていた。だが、それにしても今日はいつにもまして何もやる気が起きない。なんだか引っかかるのだ。真理は今日、優美とした会話を思い出していた。なぜ自分がふとあんなことを優美に話したのか。そしてそれが自分が忘れかけているなにかと関係していることを、真理は感じ取っていた。

 少しして、家の中が静寂に包まれていることに気が付く。まるでこの辺りには自分しか住んでいないようにさえ感じた。真理はテレビをつけた。静寂がじとじとと自分を襲ってくるような気配がして、不気味だった。こんな深夜に、面白い番組はやっていない。真理はテレビの音量を12に下げると、再び天井を見上げた。

 しばらく考え込んでいると、ずっと引っかかっていた疑問が、ひとつひとつほぐれるようにしながら真理の中に溶け込んでいった。

 そうだ、私が忘れかけていた大事なことって、目標に向かって努力することだった。ずっとそのことから逃げてきたんだ、私。そうだそうだ。そしてそう思わせてくれたのはたしか———。

 テレビの音がうるさい。真理はテレビを消した。不思議と静寂は感じなかった。

 



 ———栄斗。私は彼と一緒にいたことで、目標に向かって頑張らなきゃいけないって感じたんだった。大学二年生になって半ばのころに付き合った栄斗。私はただ彼のことが大好きだった。それだけだった。それ以外は何も考えていなかった。ただ彼と一緒にいられればそれだけで良かった。私はその時も特に何も考えずに毎日を何となく生きていたけど、やがて就活が始まってから、栄斗はどんどんいろんなことにチャレンジして、自分を磨いて、テキパキとやることを片付けて…。そんな栄斗が眩しかったんだ。私にはない熱意とか、目標とか、そんなものをずっと内に秘めていて、その眩しさが、私の、中身のない空っぽの私の醜さを浮き彫りにするようで、辛かった。それと同時に、私は栄斗にないがしろにされているように感じ始めてしまって、栄斗には私より大事にしたいものが他にたくさんあって、栄斗みたいに努力していない私には魅力が感じられないんだなって思って。そこで私も、何かに向かって努力しないといけないって思ったんだ。栄斗のことを紛らわすというのもあったけど、同じように頑張れば栄斗がまた戻ってきてくれるんじゃないかって、根拠もなく私はそう思ってたんだ。でも気づいた時にはもう遅くて、距離ができたまま彼とは別れてしまって、それでも、栄斗は大手企業からしっかりと内定をもらったらしいんだったっけ。

 それで私は、その今までの、熱意とか目標とか、そういったものを半端に持とうとした自分が恥ずかしくて、結局成功したとはいえない結果が惨めで、栄斗に愛想を尽かされたことが情けなくて、その全てを否定して、なかったことにする代わりに、結局そこそこの企業から内定をもらった自分を正当化して、また元の自分に逆戻りしていたんだ。

 でも、そのままでいいわけじゃないと、心の中ではずっと分かっていた。毎日をただ無気力に生きていても、何も自分にとってプラスにはならないってことも。

 あぁ、私はあの時どうすれば良かったんだろう。あんなに前に向かって進んでいる栄斗に、なんて声をかければよかったんだろう。何を頑張ればよかったんだろう。私にはその答えが見つからなかったんだ。今日優美にあんなことを話したのは、私が目を背けてきた過去がにじり寄りながら顔を出したからだったのかもしれない。でも今頃どうしてそんなことが気にかかったんだろう。人はなぜ、その時の状況と関係ないことを急に思い出すのだろうか。でももしかしたら、今日思い出したこれは、私にとってまだ重要なことなのかもしれない———。

 真理はベッドに潜り込み、一気に噴出した過去から身を守るように布団を頭までかぶった。

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