吉村 栄斗①
仕事が忙しい。が、充実している。今の会社に入って五年目の春、営業の仕事にも慣れてきて、楽しいと思えるようになってきた。今の仕事は好きである。そう自信をもっていえるところで働くことができるというのは幸せなことだ。営業の仕事はもちろん楽ではないし厳しい部分もたくさんあって、周りの人間の中には辞めてしまう人もいたが、栄斗はこれまで上手くやってきている。この日はいきつけの居酒屋で新体制のスタートを一人で祝っていた。店内奥の方の(無駄に)夜景の見える窓際の席で。少し前に新入社員らの配属先が決まり、おととい勤め先の社員らと新体制の良いスタートを切れるように景気づけと題して飲み会が開かれたばかりだったが、飯も酒も他人のペースで味わうというのはやはり気分の良いものではない。一人で景気づけをし直したかった。周りには栄斗の他にも一人で酒を嗜んでいるサラリーマンらしき男性が何人か見えたが、それは自分よりも二〇歳ほど年上に見える人ばかりだった。洒落っ気のない雰囲気に、右側の方から聞こえるガヤガヤした話し声。何も気を張らなくていいこの空間で一人酒を飲むのが、栄斗にはお馴染みだった。最初はいつも一人で来店する栄斗を怪訝そうに見ていた店員らも、今ではにこやかな笑顔であいさつをし、サービスでつまみを出してくれるようになった。個人経営の、この店らしい良いところである。さて、今の大事な仕事が落ち着いたらまた新しい仕事に取り掛からなくてはならない。今度のプレゼンが上手くいったとしても、浮かれてばかりいないでさっさと切り替えることが肝要である。そうやってテキパキと頑張っていれば、これからも上手くやっていけるだろう。五年目の春だ。そろそろ上の人間にもきちんとした評価をしてもらいたいところである。
きっと、ずっと真面目に努力してきた人間が結果を残す。これからも頑張らねばならない。一人で好きなように嗜む酒は美味く、気分は爽やかで軽かったが、仕事に対する考えだけは普段と変わらず、真剣だった。これが、自分の良いところであるのだと栄斗は思う。そんな自分が誇らしく思え、栄斗は勢いよくビールを喉に通す。やはり美味い。仕事で忙しくとも充実した気分でいられるのは、こういった楽しみがあってこそだ。しかし、今日は日曜日で明日は仕事だ。そんなにいつまでもこうしてはいられない。でも明日は急な予定でも入らない限り、割と楽な日だというのが助かる。とにかく今日は帰ったら何もしないで寝ようと思い、栄斗はグラスに半端に残ったビールを一気に飲み干して、いつものように会計を済ませた。
「今日のプレゼンはばっちりだろうな」
取引先の会社に向かう車の中で、佐々木が言った。彼は栄斗の上司であり、営業第二課の課長を務めている。課長といっても第二課は第一課よりも大きな仕事は少なく、いわば「二軍」みたいなものだった。今日は栄斗の勤める飲料メーカーにて開発が進められている、新しい健康飲料についてのプレゼンを行うのだ。このプレゼンの出来次第で、その生産に必要な原料を供給してもらえるかが決まるといっても過言ではない。第二課の中では、かなりの一大プロジェクトだ。
「もちろんです。今日は任せてください」そう栄斗は自信ありげに答えた。栄斗のプレゼンテーションの腕は社内の人間が皆認めるところである。必要な情報だけをくどくならないようにまとめるセンスが抜きんでていた。
「まあ、お前に任せておけば問題ないだろう。頑張れよ」佐々木がリラックスしながら言った。佐々木も、普段から栄斗のことをよく目にかけてくれている。入社当時こそ栄斗は仕事に慣れないで焦っていたが、佐々木はそんな栄斗をフォローし、立派な社会人になれるように育ててきた。
気が付くともう会社のすぐそばまで来ていた。最寄り駅は小田急線新百合ヶ丘駅。自分の勤めるオフィスがある街のような喧騒が消え、程よく発展している駅前の雰囲気が、栄斗は好きだった。普段はあまり来ないけれども、川崎市というのも結構いいところである。
「よし、行くか」会社に着くと、佐々木が横に大きな体をよっこいせと車から出した。同時に栄斗も気を引き締め、会社の入り口に向かう。受付の女性に挨拶を済ませて三階へと上がり、大事なプレゼンを行う会議室の前までキビキビと歩く。今日もやってやる。栄斗はやる気に満ち溢れ、意気揚々とドアをノックした。
「あー、俺はこの後また行かなきゃいけないところがあるから、行くわ。ちょっと一休みでもしてから会社戻れよ」佐々木が言った。どこか迷ったような不安が、声色に滲み出ている。
「あ、そうですか。じゃあちょっと飯でも食ってから帰ります。お疲れ様です」栄斗が返事をする。乗ってきた車に乗り込む佐々木はなぜだか小さく見えた。とりあえず車があっちの方で小さくなっていくのをその場で見守ってから、栄斗は駅の方へ歩き出した。
昼飯は何を食べようか。栄斗は一人で食事をするときは、大体チェーンの牛丼屋かラーメンで済ませてしまう。今は若いからまだ良いものの、この先ずっとこんな食生活を続けていくわけにもいかないと思い始めて、もう何年経っただろうか。学生時代に培った引き締まった体が丸みを帯びない限りは、ずっと同じ食生活を続けるのだろう。だが今日は少し、いつもとは違う何かが食べたい気分だった。かといってこれといったあてもなく新百合ヶ丘駅の外れを歩いていると、なんだか不思議な魅力を醸し出す喫茶店が目についた。「喫茶 とまりぎ」か。栄斗は直感でここにしようと決め、ドアを開ける。
「喫茶 とまりぎ」のメニューは予想以上に豊富で、昼食にちょうど良さそうなものもたくさんあった。栄斗はその中からカルボナーラとアイスコーヒーを注文してから、水を一杯ぐびぐびと飲んだ。無意識のうちに緊張していたのだろう。のどが渇いていたことに今頃になって気が付いた。それにしてもなんと落ち着いた雰囲気の店だろうか。程よく古い内装に、かすかに聞いたことがあるんだかないんだか思い出せないような、クラシックのような音楽。その雰囲気とは反対に、土曜日の昼間ということもあってか、店内には客の賑やかな会話がいっぱいに広がっていた。そのコントラストが、また何か居心地の良さに磨きをかけているような感じだ。いつも洒落っ気のないところでしか食事をしない栄斗には、こんな喫茶店は敷居が高いように思えたのだが、気づけばもうすでにこの店の雰囲気の虜になっていた。
少しして運ばれてきたカルボナーラはとても美味かった。太めでしっかりした歯ごたえの麺にチーズと卵のまろやかさがよく絡み、そこにベーコンのうまみが豊かなふくらみを与えた後で、黒コショウがピリッと味を引き締めるような、そんな味わいだった。
栄斗はいつもと雰囲気も味わいも違う昼食に舌鼓を打っていた。それにしてもいい雰囲気の店だ。栄斗はもう一度、店内をよく見渡してみる。すると、少し離れた席で食事をしている女性が視界に入った。その途端に、自分だけその光景に閉じ込められたような感覚に陥った。
真理———。栄斗が大学二年生の時から付き合っていた女性だった。たまたま同じ授業を受けていて、グループワークがよく同じ班になることがきっかけで知り合い、付き合うようになったのだった。色々なところに出かけ、それまでお洒落というものに興味がなく、いつもスウェットのような格好ばかりしていた栄斗の服選びによく付き合ってくれた。だが、やがて就活が本格化し、すれ違いが多くなるにつれて付き合っている実感も薄れ、卒業する前には別れてしまった。別れてからというもの、彼女とは一度も連絡を取っていなかったし、同じキャンパスに通っていたはずだが、見かけたことすらなかった。ただの、一度も。その真理が今、目の前にいる。
だが、それは自分の勘違いかもしれないと、栄斗は思った。真理と思わしき女性は実際にはただの他人で、自分には全く関係のない人物なのだ。今朝交差点ですれ違った見知らぬ人々も、目の前にいる彼女も、今後会うことはないただの人なのだ。そうだ。そう思っておこう。大体就活が原因で別れるなんてよくあることだ。当時もさっさと切り替えて就職の準備に専念したじゃないか。気にするな。店の外で待っているお客さんもいるみたいだし、もう会計を済ませて会社に戻らないと。栄斗は誰に急かされているわけでもないのに、一人でそう考えてしまうと、会計を済ませてそそくさと店を出た。
ただ栄斗は一度だけ、後ろを振り返りたかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます