真夜中のペトリコール

なかのぶ

プロローグ

 その日は朝から雨が降っていて、この日のために新しくシャツを買ったのにと、辛うじて遅刻をしないくらいの時間に起きた私は、ベッドの上でため息をついた。しとしと、と声を発しているかのように降りゆく雨。もっと余裕を持って家を出ようと思ったのに、私の髪はいうことをなぜか聞いてくれなくて、でもあなたに会ってしまえばそんな憂鬱も、今まで忘れてきた、山のように積もった出来事の上にまた運ばれて行って、私の心はすぅ、と軽やかになってしまった。そういう時に過ぎていく時間というのは本当にあっという間で、この過ごしている時間の流れる速さは世界中のどこに行っても同じなのに、まるで私の居るところだけ誰かにいたずらで早送りされているんじゃないかと思うように過ぎていき、気づくと午後になっていた。朝から降り続いていた雨は建物にいる間にすっかりやんでしまったようで、今度は辺りにジメジメ、という音が敷き詰められている気がした。ジメジメ、という音が耳から入って口へ抜けるとき、

 「なんかここ最近はずっとじめじめしてるね」私は独り言のようにつぶやいた。

「ほんと、いつまで続くんだろうね。でも梅雨だからこんなもんか」聞きなれたのに、初めて聞くような新鮮さを周りに帯びた、彼の声がした。

 「でも私、雨が降った後の感じってなんか好きかも。雰囲気というか、匂いというか…。伝わる?」自分で何を言っているのか私は分からなくなってしまい、自分自身に確認するように言った気がする。

 「…ペトリコールってやつ?」また初めて聞くような声で、でも今度は親しみをもって、彼の返事がした。

 「何それ」私は彼がきちんとした日本語を話しているのか分からないまま聞き返した。

 「何で知ったか忘れちゃったけど、雨が降った後に地面から上がってくる匂いのことを確かペトリコールっていうんだよ」

そうなんだ。あなたはいつも、私にこんな世界があったのかということに気づかせてくれる。

 「へぇ、なんかいい響きだね」ペトリコール。さっきまで自分でも何を言い表したいのか分からなくなるような私の物思いに、誰かがすでに名前を付けていたことに静かな興奮を覚えた。その時私は、もう一度彼の口から同じセリフを聴きたくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る