父さんの手
三角海域
父さんの手
母さんが亡くなった。
不治の病、と宣告されたあの日から覚悟はしていたけれど、いざその時がくると、悲しくて、悲しすぎて、涙が止まらなかった。
悲しみは、ある一定のラインを越えると、苦しみにかわることを知った。
涙が枯れて、息が切れて、うまく呼吸ができなくなる。
胸のあたりに、ずっと重たいものがいすわって、気持ちが悪くなる。
祖父母に心配され、誤魔化そうと笑おうとしても、えずいてしまう。
「よう」
息苦しさで霞む視界に、ぼんやりと浮かぶシルエット。
「具合悪そうだな。大丈夫か?」
数十年ぶりの再会だというのに、まるで毎朝顔を合わせているかのような、そんな距離感で、僕に近付き、頭を撫でる。
「父さん……」
視界がはっきりする。少し歳をとってはいたが、変わらない。変わらなさすぎて、驚くほどに。
「久しぶりだな。母さん、奥か?」
無言で頷くと、僕の肩を軽く叩き、父さんは母さんのもとへ向かう。
「修二さんは、変わんないね」
祖母が言う。
僕は、奥を見る。静かに眠る母さんの傍らで、父さんが手を合わせていた。
「元気か?」
縁側に並んで腰掛け、僕らは会話をする。うまく言葉が出てこない僕と違い、父さんは饒舌にあれこれと質問する。
「……なんで母さんに会いに来なかったんだよ」
なんとか絞り出した質問は、刺々しくなってしまった。
「けじめだよ」
父さんはそう言った。
「離婚したら、もう関係ないってこと?」
「母さんと約束したんだよ。ちゃんと別れようって。俺の方からその約束をやぶるわけにはいかないだろ」
父さんは別れてからも僕の養育費を含め、かなりの額を送ってくれていたと、祖母に聞いた。
母が病気になってからは、さらに色々と援助をしてくれたらしい。
「父さん、まだ母さんのこと好きだったんじゃないの?」
「ああ」
「え? 本当に?」
「そりゃそうだろ。俺が会ってきた女の中で、母さんほどいい女はいない。これまでもこれからもな」
「じゃあなんで別れたのさ」
父さんは僕の方をじっと見る。
「なに?」
「お前、彼女いるの?」
「なんだよいきなり」
父さんは無言で僕を見つめ続ける。
「……いるけど」
「結婚は?」
「はあ!?」
「考えてるのか? お前だってもう30過ぎだろ」
「わかんないよ、まだそんなに深くは考えてないっていうか……」
「そうか。じゃあ、そん時がきたら話してやるよ」
「なんだよそれ」
「夫婦ってのは絶妙なバランスなんだよ。人生のパートナーってのはいろんな要素を含んでる。男と女であり、気心しれた友人のようでもある。けど、もっと深いもんが二人の間にはある。俺は、その深さに足をとられた。母さんはちゃんとしてたのにな」
父さんと別れた理由が、浮気のようなものでないというのは母さんから聞いていた。考えてみれば、母さんも、なぜ父さんと別れたのかということについて語ることはなかった。
「ずるいな」
「そのうち分かるさ。お前が誰かと一緒になる道を選べばな」
父さんが立ち上がる。やせ形の長身。喪服がよく似合うなと思った。
父さんとの記憶は、小学生時代のころで尽きているけれど、その頃から、父と息子というより、歳の離れた友人というほうが合っているような関係性だったと思う。それは、今も変わらない。
こうして父さんと話していると、苦しみが少しだけ薄まった。血の繋がりの濃さというのは、バカにできないのかもしれない。
「そういえば、母さんが亡くなった日、たまたま電話かけてきたって聞いたんだけど、本当?」
「ああ」
「すごいね、それ」
「風にのってきたんだよ」
「え?」
「窓開けたら、母さんが好きだった香水の匂いがしたんだ。で、もしかしたらってな」
「それ、本当?」
父さんは空を見る。
それから、ゆっくりと顔を下げ、僕の方を見た。
「本当か、ただの偶然が重なっただけか、どっちだと思う?」
「またそれかよ」
父さんは楽しそうに笑う。釣られて、僕も笑う。久しぶりに、心から笑えた。
「ありがとう」
「ん?」
「来てくれて」
父さんはきょとんとして、それから、僕の肩に手を置き、言う。
「何かあったらいつでも呼べ」
真面目な表情。けれど、その表情は、一瞬で、少年のような無邪気な笑顔に変わる。
「母さんに二人で挨拶しにいくか」
「うん」
父さんが、手を伸ばす。僕はその手を取り、立ち上がる。
父さんの手は、とてもあたたかかった。
父さんの手 三角海域 @sankakukaiiki
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