ある探偵の示威
瑞田 悠乃
ある探偵の示威
何らかの事件が起きたとしよう。難解であればあるほど良いが、凶悪である必要はない。そういう不可解な事件が起こったとき、何とはなしに現れて、どれほど奇怪な謎に心が躍ろうともおくびにも出すことはなく、この度は——といった神妙な面持ちでコトの真相を解き明かすのが私の生業である。
公務で似たようなことをしている連中もいるが、私と彼らではそのすじがねは全く異なっている。建築家が器具でもってつまびらかに製図したのと、芸術家の手によるたおやかな素描との違いとでも言えば伝わるだろうか。とにかく私の謎解きはその鮮やかさ、独創性にとりわけ重きをおいていて、僭越ながらそういうことに熟達しているという旨の称号を、自己紹介の際には冠させていただいている。名探偵トマス・ブルースの名を、是非とも本日は憶えて帰っていただきたい。
ああ、無論なかには、私の名をばかりかこの思慮深さの滲んだ閑雅なる容貌を、以前からよくご存知の方もいるだろう。いかにも、私は変事あるところに寄り来る胡蝶のような身分であるから、平時には滅多に人目につくことがない。また私の写真や、音声の記録などは可能なかぎり遺さぬように努め、曲がりなりにも世俗の——いや失礼、もとい公共の人々にもてはやされることのないように考慮している。しかしこの講堂で、かつてささやかな怪事件が起こった際、快刀乱麻を断つがごとく解決して見せたのもまたこの私である。そうした衆目に触れやすい現場では、たまたま通りがかったにせよ何らかの関与があったにせよ、少なからぬ人々が私の活躍を記憶されているのもむべなるかなというものだ。
そう、あれはまさしく、私の手にかかるにふさわしい難事件であった。思い返すたびに私は、抱えどおしの頭の痛みや、困憊をきわめた肩の重みが甦ってくるかのような心地になるのだ。また、思案に耽って同じところを歩き回ったために一方だけがすり減って、上等なジョンロブの革靴をひとつ失うことになったのも非常に印象深く思い出される。
ここで、おや、と思った方がいたとしても、私はなんら彼らの忍耐のなさを賎しめようという気はない。ここまで声高に、鮮やかなる快刀乱麻なると謳ってきた私の推理の手腕をもって、このような苦難の一幕が紛れ込む隙があるのだろうかと、そう考えるのも無理からぬ形勢であろう。しかし、名探偵トマス・ブルースの掲げた看板に、斯様な疑いをかけるのはやはり尚早というものである。よろしい。ではその時の話をして差し上げよう。
あれは九月である。私には確然たる直感があった。この一人当千の名探偵のもとに、今宵こそは複雑難解、摩訶不思議な珍事件の報せが舞い込んでくるに違いないという予覚である。ここでひとつ留意していただきたい。諸君らの中には、探偵という人種こそ論理の眷属たるべしとでもいう僻見の相が見受けられるが、まったくもってそれは見当違いというものである。先も申し上げたように、我が天命の職とも言える探偵業は徹底して夢想家の器量、ロマンチシズムに駆られた芸術家の素質にその端を発している。つまり我が思考の骨子とは、こうした研ぎ澄まされた直感から繰り出される、華麗なる飛躍の係属であることを今こそ披瀝させていただこう。真実を一挙に白日のもとへ曝け出さんとする飛躍的な着想、並外れた閃きの前には、いつでも苦難が立ちはだかるという事実をもはや不具合とも不条理とも思うまい。全ては、私の抜群の推理がもたらす浄化のための舞台装置、真理への到達が生むカタルシスの立役者たちに他ならないのである。
さて、ここへきて、いよいよこの講堂で起こった事件の仔細が気がかりで仕方がないという相好が、諸君らのあいだで伝播していくのが私の目にもはっきりと感じられる。ではご期待に応えて、こちらもいよいよ本題に取りかかるとしよう。しかし勘違いされてはいけないのが、私はその事件の顛末を一切ひた隠しもなく、ただ明け透けにお話しするというのではない。あくまで探偵は正義の前線に立っていることをここに表明しておかなければならない。この事件の経緯が広く知れ渡ることで不利益をこうむる善良な市民がいるかぎり、私はそれを犠牲にしてまで、自身の功勲を誇示しようという気はおこらないのである。であれば次のように配慮致すのがよろしかろう。まず、この難事件の渦中にはおおよそ三人の人物がいる。それぞれA、BそしてC氏と呼ぶことにしよう。また忘れてはならないのが、事件の解決へと向かう道筋に多大なる影響を及ぼしたD、Eの両氏と、D氏の唯一の近親者にあたるF氏、そして私の敬愛するG氏の存在である。A氏とD氏は非常に親密な関係にあることをここで明かす必要があるが、この表明は決して、二人が異性同士であると断定するものではないと補足しておきたい。また先ほど申し上げる機を逃していたが、A氏がD氏宅で発見した、F氏の所有するある品が、真相に係わる重要な役目を果たすことを頭の片隅に留めておかれることをお勧めする。ここではそれを、物体Hとでも呼ぶことにしよう。こういった緻密な定義づけ、そして精密な観察眼というのは探偵たるもの、いかに発想力の権化たる私といえども疎かにするべきではない。観衆の諸君らの中にも、我々のような真実への挑戦者となるべくして探偵を志すものがいるとしたならば、是非ともそれを心に留めておいていただきたい。私のような突飛な才能を持つのはほんの一握りの人間だけなのだ。
さて、話を例の事件に戻すとしよう。以下の情報はご存知の方も多いと思われるが、念のためここまでと同様の配慮をさせていただく。この講堂に面したI通りをほどなく行くと、ほどなくしてJ通りに差し掛かる。その交差点の北東角に古くからある食料品店Kに、事件の日の早朝、B氏が訪れたときのことだった。なお、物体HをF氏が紛失したのもこの時間帯であると考えられている。ともあれこの時、とある理由で待ち合わせをしていたC氏とE氏は————
「しかし一体なぜ、あのような演説をなさったのです」
助手をつとめる赤髪の青年はそう訊ねた。彼の眼前にいるのは、今まさに世間を賑わす名探偵、トマス・ブルースその人である。
「あれではまるきりペテン師のようではないですか。先生の手腕は本物なのに……」
トマスの講演は世界中の人々から多大な脚光を浴びた。ほとんど素性すらも知れ渡らないまま数々の難事件を解決し、今やトマスは世界でもっとも優秀な探偵としてその名を馳せていた。その彼が、あるたいへんな富豪から熱烈に頼み込まれ、ついに満を持して公衆の面前へと躍り出たのである。会場には各国のメディアが中継の構えをもって押しかけ、彼の一言一句に数億人が注目した。
美辞麗句に彩られた彼の尊大かつ煩雑なスピーチは大いなる反響を生んだが、その内容は、決して風向きが良いとは言えない賛否両論の嵐であった。ひどいイカサマであるとか、精神を病んでしまった哀しき探偵の末路、果ては影武者説までもが囁かれ、日に日に非難と失望の声はその勢いを増した。そして今日、トマスは仰々しく構えていた都会の事務所を解体し、地方の小さな町にささやかな仕事場を得たところであった。
「しかし君、すべては思惑通りに上手くいったのだよ」
トマス・ブルースは深々とソファに腰掛け、青ざめるほどに砂糖をとかし込んだコーヒーを片手に言った。
「何が上手くいったと言うのですか。あれから日を追うごとに仕事の依頼は減っていきますし、先生の活躍を描きたいと言っていた小説や映画なんかの話もすべて白紙に戻ってしまったじゃありませんか」
「それが思惑通りだと言うのだよ。私は探偵としては有名になりすぎたのだ。スターまがいの脚光を浴び、くだらぬ威光を放つがために探偵をやっているわけじゃない。今後はまことに信頼できる依頼主だけが、また私に難事件を届けてくれることだろう」
名探偵は満足そうに笑うと、蜜のような匂いが立ちのぼるコーヒーをゆっくりと飲み始めた。
ある探偵の示威 瑞田 悠乃 @myiuztua_no
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