巻きもどしたい過去。早送りしたい記憶。

「僕は戻って来た。もう一度あの夏の日に……」  


 真っ赤な鳥居が視界に入った瞬間、思わず呟きが漏れる。深い感慨に僕は浸ってしまった……。両脇に鎮座する二対のお稲荷像が昔と変わらぬ姿勢で僕を出迎えてくれた。お稲荷さんの首に掛けられた赤い前掛けも懐かしく思える。


 奉納の文字が描かれた石の台座。そのまわりにびっしりと置かれた小さな狐の置物。この辺りで有名なお狐様を祀った奇祭 通称油揚げ祭りの時期になると良く見られた風習だ。僕が過去へ戻って来た何よりの証でもある。なぜなら真美が消えた十年前からこの習わしは廃止されているからだ。本物のお稲荷さんをかたどって、現在は神社のおみくじ入れとして転用されている。可愛い白い狐の置物をひっくり返すと底の穴に巻物状のおみくじが入っているんだ。


「……僕はやったよ!! 一人でこの場所まで跳躍ジャンプすることが出来たんだ。 なあ、君はきっと誉めてくれるよな」


 見上げた鳥居のむこう、真っ青な空にむかって声を上げた。誰もいないこの場所で返事は返ってこないのは分かっている。だけど僕は語りかけずにはいられなかった。彼女が導いてくれなければここまで到達することは不可能だったから……。


「幼い真美、全部君のおかげだよ。なのになぜ僕の前から消えてしまったんだ!?」


 これ以上ないほど顔を上げて雲一つない空を見た、固く閉じた双眸そうぼうから不意に涙が溢れてしまわないように……。


「僕は泣かないよ、真美。約束を守るためにこの場所にきたから、もう涙はやめる!!」


【そうだ――今日は十年前のあの夏の日だから!!】


 様々な感情に崩れ落ちそうな自分を必死に鼓舞する。この稲荷神社で最後に見たままの姿で僕の前に現れた幼い真美。思えば気まぐれで立ち寄ったあの県営住宅からすべてが始まったんだ。絶対に存在しないはずの彼女が、その姿を実存化してまで僕に伝えたかった切実な願いとは!?


「もうひとりの自分、を救い出してほしいから……。そうなんだろ!!」


 最初に帰省したあの日、真っすぐに稲荷神社を訪れなかった理由わけ。それは決して偶然なんかじゃない。行方不明後、奇跡的に発見されたのちに、大学病院で精密検査しても記憶喪失の原因解明が出来なかったのは、僕の身体じゃなく精神こころの奥底に深く刻み込まれていたからだと今の自分なら分かっていた。


 十年前、この場所でによって植え付けられた忘却のプログラムだ。


 ああ、もうそんなまどろっこしい言葉もすべてやめにしよう、陽一お兄ちゃんは回りくどい言い方する悪い癖があるって、幼い真美からもう怒られたくないからな……。


「この赤い鳥居の境界線が何よりの証拠だ……」


 鳥居を越えて一歩境内に踏み入れた瞬間、僕の身体に激しい変化が起こった。


『僕に今すぐ見せてみろ、狐野郎!!』


 喉から妙に甲高い声が出た。この不可思議な現象がいつもの夢ではないことを瞬時に理解していた。真美と二人で大糸川の上流にむかって逃避行をした小学五年生の頃の陽一。その幼い身体に僕は大人の意識だけ入り込んだんだ。身体は子供、心は大人なんて趣味の悪い軽口を叩いている場合じゃない。僕が解くのは難事件ではなく真美に掛けられた忌まわしき呪いだ。


「何か妙だ、この感覚、同時に二つの意識は一つの身体に存在は出来ないということか。……もしかしたらこれまでの真美も同じ状態だったのか!?」


 僕の意識が入りこんだ幼い陽一の身体、容れ物と例えたら適切だろうか。押し出された元々のは極度のショック状態で意識だけ眠っている状態のようだ。無事を確認して僕は安堵の深い息を漏らした。ゆっくりと借り物の身体を動かしてみる、まずは指先、そして足先、視線の先には派手な配色の運動靴が映った。まるで俯瞰で眺めているような違和感がどうしても拭いきれないな。幼い自分の身体を傷つけないよう慎重に行動するという重いハンデを背負っている事実を充分肝に命じなければならない……。


「……この悪寒はなんだ!? 彼はいったい何を目撃したんだ!?」


 がたがたと全身の震えが止まらない。嫌な脂汗が背筋を流れてシャツが汗びっしょりなのも幼い僕の身体から同時に感じられる。心臓が口から飛び出しそうだ。強い拒否反応、いったい何を目撃したのか!?


 これほどまで精神に恐慌が起こっていたら小学生の僕は一目散にこの稲荷神社の境内から逃げ出していただろう。そうだ、真美を置き去りにしたあの日みたいに!!


 震える小さな肩を両手で抑えて、必死に自己を落ち着かせようとする。身体に入り込んだばかりでは無我夢中で気が付かなかったが、急に自分の目線が低く感じられた、それは当然だろう。小学時代に比べたら成人した僕は背がかなり伸びているからな。


「この身長じゃあ、トレーシーはとても運転出来ないか。狐野郎との勝負に丸腰とは分が悪いな、それにどうやって真美の居場所を探すか?」


 そこまで考えて自分の考えがとても甘かったことに気がついた。境内から振り返った視界に飛び込んできた光景、赤い鳥居を越えた境界線のむこう、僕がトレーシーを置いてきたはずの場所はすでに消失していた。そこには漆黒の闇だけが広がっていた。


「……行きはよいよい、帰りは怖い、ってか。参ったな、退路が無くなったよ。お祖母ちゃん」


 先に進むしかないな。気持ちを落ち着けようと額の汗を拭った。左手の肘に何かが当る いま僕が首に掛けているこのストラップは何だ!?


「……これは!?」


 ストラップの先に吊るされた四角い。僕は指先でその形状を確かめた。


「丸腰じゃあなかったぜ。小学生の僕、いい物をぶら下げていてくれてありがとうな……」


 カバー越しの固い感触に勇気を貰って境内に向き直る、見据えた視線の先には懐かしい景色が広がっていた。僕と真美、そして妹の日葵。三人でかくれんぼをして遊んだ稲荷神社の風景に自分の原体験を思い出してまた胸が苦しくなった。先ほどまで快晴だったのに境内はいつしか雨が降り始めていた。亡くなったお祖母ちゃんの言っていた天気雨。狐の嫁入りの始まりだった……。


『今日は天気雨で狐の嫁入りだから、陽ちゃんは出歩いちゃいけないよ。おっかない怖いことが起きるから……』


 ……あの夏の日と同じ条件はすべて整った。後は小学生の僕が逃げ出さないルートを間違えないで選択することだ。雨に濡れそぼった境内の敷石。乾いた玉砂利も急速に黒ずんだ表情に変化する様子を眺めていた。跳躍ジャンプの到着する時間精度が僕ひとりの力では不完全だったみたいだ。悔やまれるのはもう少し早く到着していれば、真美が変貌する前に間に合ったかも知れないのに……。


【……陽一、少しだけなら――巻き戻し出来るから!!】


 突如、耳に聞こえて来た女性の言葉に僕は驚いた。所々聞き取れない箇所はあるが、この声は!?


「なっ……!? この身体の感触は。まさかここで跳躍ジャンプなのか!!」


【――甘いってまたお祖母ちゃんから怒られちゃうかな。陽一しっかりね。真美ちゃんを……助けてあげて。それが――の願いだから】


「おかあさん!? まさかこの声はお母さんなの!!」


 これは跳躍じゃない、時間の巻き戻し《リワインド》してくれるのか!?


 幼い真美が以前告げた言葉を思い出す。お祖母ちゃんだけでなく顔も知らないはずの僕の母親と会ったことがあると言っていた。行方不明になっていた空白の時間。現世とあの世の狭間の境界線、その通り道のどこかで亡くなった人と逢うことが出来たなら……。そんな夢物語みたいな話を半信半疑で聞いていた。だけど今なら彼女の言葉を信じる。


「お母さん。僕を見守っていてください。必ず真美を連れ戻してみせます」


 浮遊感とともに 懐かしいオレンジ色に全身を包まれる。これはお母さんのエプロンの色と同じだ。そして夢の中の海の見える洋館で真美が身に着けてくれたんだ。彼女の将来の嫁入り道具にしたら出来過ぎだよ、お母さん。母親に抱き締められた幼年期のくすぐったい記憶が蘇り、温かな気持ちになる。


 いつもの跳躍ジャンプと違い、軽い眩暈めまいに似た感覚で巻き戻しは一瞬で終わった。僕の身体は神社の本殿から離れ、奥にある池を一望出来る高台に瞬時に移動していた。ぼやけた視界が次第に鮮明になってくる。肩を誰かに掴まれているこの感触!? 少し巻き戻った先で僕はいったい誰と一緒にいるんだ……。


「……ぐすっ!! ひっく、もう嫌だよぅ、陽一お兄ちゃんをこれ以上傷つけたくない!!」


 泣きじゃくる女の子の声が僕の耳に飛び込んできた。されるがままに激しく肩を揺すられる。僕はなぜ相手に反応しないんだ? 


 まみ、真美なのか!? 呼びかけようとするが、まったくろれつが回らない。小学生の僕の身体はまるで硬直したかのように身じろぎひとつ出来ない。


 目の前の女の子は間違いなく真美だった。激しく嗚咽を漏らす頬には幾重にも涙の跡が浮かんでいる。僕を傷つけたくない!? 彼女はいったい何の話をしているんだ。そして僕は彼女の着るワンピースに強い違和感を覚えた。記憶の中の真美はいつも水色を好んでいたはずなのに……。どうして着ている服の色が違うんだ。


激しく揺すぶられる頭の中に残った記憶の欠片。いましがた真美から投げかけられたばかりの鋭い言葉を僕は必死で


小学生二人だけの逃避行。恋愛映画に感化されて川の上流を目指した旅も長くは続かなかった。妹の日葵が持たせてくれた食料も底を尽きて、困り果てた僕たちはこの稲荷神社に身を潜めていたんだ。だけど真美は精神の限界だった……。


高低差のある高台から見下ろす池。ほとりに立てられた遊泳禁止の看板には溺れる子供の絵。大人から近寄ってはいけないと口うるさく言われる場所の筆頭で、過去に何人か子供が溺れて亡くなっている場所だ。


「ねえ陽一お兄ちゃん、お願いがあるの。真美の最後のお願い、聞いてくれるかなぁ……」


 ああ、駄目だ。僕はこの後に続く言葉を知っている。それ以上言わないでくれ真美。何でもいうことを聞く券、残りの四枚全部を使っでもそれだけは無理だ……。


「さ、最後のお願いって、何なんだよ真美!?」


 僕が記憶を全部思い出したなんて大間違いだった。固い鎖でがんじがらめにされて封印された忌まわしい出来事はすべて怪異である狐が起こしていたと思い込んでいた。いや、僕はそう思い込みたかったんだ!! 可憐な真美の中にあれほどまでの暗く淀んだ想いが存在していたなんて絶対に信じたくなかった。


 ――この場所で、この池に飛び込んで一緒に死のうなんて望みは君のお願いでも絶対に叶えられないから。


 次回に続く。



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