ねえ、私の最後のお願い、聞いてくれますか?

 ――あの夏の日の稲荷神社で僕、大滝陽一おおたきよういちが行方不明になった幼馴染の真美を最後に見た記憶はかによって書き換えられていたんだ。

 そして逃避行の結末に僕だけが大糸川の上流で発見されたのは紛れのない事実だが、彼女をこの場に置き去りにして川の上流まで一目散に逃げ出した間の記憶が完全に消されている。


 切っ掛けはお団子取りの夜、月明かりの下で彼女と交わした誓いの言葉だった。稲荷神社に捨てられていた子猫を一緒に育てようという約束をして、子育ての予行練習をしようと真美から恥ずかしそうに告げられて僕はすっかりのぼせ上がってしまったんだ……。


 そんな約束は淡い泡沫のようにいつしか消えてしまうものだとばかり僕は考えていた。だけど彼女の決意はあの満月の夜からすでに固まっていたのかもしれない。


「ねえ陽一お兄ちゃん、お願いがあるの。真美の最後のお願い、聞いてくれるかなぁ……」


 幼い自分陽一の身体に意識だけ入り込んだ視界に映る俯瞰の光景。肩に食い込む真美の細い指先から伝わる彼女の記憶の濁流が一気に僕の身体だけでなく精神までも呑み込んだ。まるで切れた高圧電線に誤って触れたように全身が激しく痙攣する。


『ねえ、お父さん!! どうして私を叱るの!? 真美は幼い頃から言いつけを守ってずっといい子にしてきたのに……。お留守番だってもうひとりの真美わたしと一緒に出来たでしょ。何で大切なお友達をお父さんとお母さんに紹介しただけで私をそんなふうに化け物を見るような視線で見るの!? 違う、真美は頭がおかしくなんかない、だから病院なんて絶対に行かない!!』


 これは!? 真美の住んでいた県営住宅での両親とのやり取りに間違いない。幼い彼女の体験した悲しい過去の記憶を僕は見せられているんだ……。 


【狐の嫁入り・お狐様・狐憑き】


 僕の脳裏に浮かんでは消える連想ゲームのような禍々しい文字列。違う!! 真美が豹変してしまったのは決して狐憑きだったからじゃない……。もう偽の記憶には騙されないぞ。

 亡くなったお祖母ちゃんから幼い僕が寝物語に聞かされたとても怖い話を思い出す。昔はこの辺りの村では異端な者が出るとすぐに狐憑きとされたそうだ。村八分になるのを恐れた村人は祈祷師を呼んで拝んでもらうのが暗黙のルールだった。もしも祈祷の効果がなかった場合、狐憑きの末路は、ある者は一生幽閉されたり、また別のある者は人知れず行方不明になったりしたそうだ。そんな恐ろしい闇の伝承を聞いて僕は育ってしまった……。


 だから真美があの夏の日に行方不明になった原因。の正体はこの辺りに伝承するお狐様、九尾の狐の仕業だとばかり思い込んでいたんだ。それに加えて誰かに植え付けられた強固な上書きの記憶によって真美が消えた本当の理由わけを完全に忘却させられていた。だから最初から怪異、イコール狐と信じて疑わなかった。


「……真美、最後のお願いを聞き入れることは出来ないよ。君が最初からこの稲荷神社を短い人生の終着点にしようと考えていたとしても」


「お、お兄ちゃんはこれから真美の言うことが何で分かるの!? 私の気持ちは誰にも打ち明けたりしていないのに……。何で!!」


「……驚かしてごめんな、僕はと約束をしたんだ。大人の真美……。いや、正確に言えばまだ子供なのに大人にならざるを得なかった真美おまえの魂をその苦しい境遇から救い出して欲しいって」


「おとなの私……!? どうして陽一お兄ちゃんはそこまで真美の内面を知っているの!! わ、私の中の大切なお友達、もうひとりの真美ちゃんの存在を」


 彼女の指先から激しい動揺が僕の肩にひしひしと伝わってくる。そうだ、絶対に違うと断言出来る。何者かによって消去フォーマットされた僕の記憶が強く訴えかけてくる。彼女の中には確かに何者かが存在するが邪悪な怪異は取り憑いていない……。


「よ、陽一お兄ちゃん、もしかしてちゃんと、どこかでお話したの!?」


 よし、あと僅か、あと一歩で彼女の気持ちを落ち着かせることが出来る。そしてマイナスの過去を改変するんだ。この高台から真美が僕もろとも池に身を投げて入水自殺を図った忌まわしい過去を変えるんだ……!!


「フギャア!!」

 

「何だ、この鳴き声は……!?」


「……まさか、置いてきた子猫ちゃんの声!?」


 突然、引き裂くような子猫の鳴き声が辺り一面に響き渡り、僕は慌てて真美から身を離して声のする方向に向き直った。逃避行に連れて来た子猫は本殿の縁の下で寝かしつけたまま置き去りにしていたことをすっかり忘れていた。


「ヒュ~ヒュ~、まったくお熱いね、お二人さん……」


 そこには子猫の首を手荒に掴みぶらぶらと左右に揺する人影が立っていた……。一歩、また一歩と前に歩み出したその顔が少しずつ明瞭になる。野球帽のつばを後ろ向きに被ったふてぶてしい表情に僕は見覚えがあった。


「お前は……!?」


 僕の通う小学校でも札付きの不良わるで上級生の鈴木慎一だ。その背中に隠れるように弟の雄一がこちらに顔を覗かせるのが見えた。僕たちが逃避行に出掛ける発端になった全校集会の学芸会で、真美の衣装に細工して全校生徒の前で辱めを受けさせようと画策した張本人だ。悪巧みのもうひとりの首謀者である妹はいないが今度は兄貴の慎一まで担ぎ出して僕たちを探しまわっていたのか!? まったく執念深い奴らだな……。


「慎一の兄貴、やっと居所を見つけたよ、逃走中の大滝陽一だ。こんなところに隠れていやがったのか!!」

 

「小学校から逃げた上に下級生と駆け落ち同然の家出をしたんだろう、雄一、お前の言う通り根っからの女たらしだな、今も抱き合ってイチャイチャしてやがるぜ」


「そうだよ兄貴、こいつはいつも女としか遊ばないし、とにかく男の腐ったような奴で俺は昔から気に食わなかったんだ」


 雄一のずる賢い表情が妙に輝くように歪むのが分かった……。


「ほう~、気に入らねえ糞野郎だな!! ひとつ警察に突き出す前にシメて身体に教えこんでやろうか……」


 片手の子猫をさらに高々と掲げながら兄貴の慎一がますますサディスティックな表情になる。子猫が苦しそうに身をよじりながら小さな前足を虚空に揺らした……。


「ミギャアッ!!」


「ね、猫ちゃん、ひどいよ……」


 真美が悲痛な声を漏らした。僕は頭に一気に血が上り借り物の身体だということも忘れて激昂してしまった。


「子猫を離せよ!!」



 言うやいなや僕は慎一に飛びかかった。一対一の勝負なら上級生とはいえ勝てるはずだ。子猫を弄ぶ慎一にあと一歩という間合いで僕の身体は突然、地面に叩きつけられた。


「何だ……!? 他に仲間が隠れていたのか」


 広場にある看板の陰に隠れていた慎一の仲間に足払いをされ、僕が勢いよく地面に倒れたところを奴らに組み伏せられてしまった。


「汚ないぞ!! 正々堂々と一対一タイマンで僕と戦えよ」


 背中を押さえつけられ無様に地面の土を舐める僕に、まるでヒキガエルのような醜悪な笑みを浮かべて慎一は毒づいた。


「馬鹿かお前は!? 喧嘩に汚いも糞もあるかよ。勝ちゃあいいんだよ、勝ちゃあ!!」


「ちくしょう!! 離せ、手を離せよ!!」


 地べたに組み伏せられながらもがく視界の隅で、傍らの真美が立ちすくみながら、その瞳に大粒の涙を浮かべているのが見てとれた……。


「やっちまえ!!」


 慎一の号令で僕を組み伏せ取り囲んでいた取り巻き連中から運動靴の先端で脇腹を次々に蹴り上げられる。


「ぐあっ……!!」


 余りの痛みに僕は口の端から情けないうめき声を漏らしてしまった。


「やめて!! やめてあげて……」


 真美が泣きじゃくりながら必死に懇願するが聞き入れるような連中ではない。抵抗出来ない僕の腕や足を踏みつけ蹴り上げながら執拗な暴力はさらに続いた。


 多勢に無勢だ、こちらに勝ち目は無い……。


 激痛で意識が遠のきそうになる。近寄ってきた雄一が下卑た笑いを浮かべなからこちらの顔を覗き込んだ後で、僕の髪の毛を掴んで無造作に頭を持ち上げた。


「どうだ陽一、兄貴には敵わないだろう、そうだ!! 俺の靴を舐めて土下座して許しを請えば勘弁してやらなくもないぜ……」


 雄一のくそったれな提案に僕は沈黙で答え言葉のかわりに奴の顔めがけて唾を吐きかけた。


「この野郎!! 舐めやがって」


 顔を怒りで歪ませながらも自分では何も手出しは出来ないようだ。すぐに兄貴の慎一に助けを求める。まったく卑怯な腰巾着野郎だ。


「兄貴、陽一をもっとボコボコにしちゃってよ!!」


「分かった雄一、まあ慌てるなよ、その前にを処刑してからにしようぜ!!」


 処刑ってまさか!? 嘘だろ……。


 慎一が片手に持つ子猫をさらに高々と掲げ、反対側の腕をぐるぐると回し始めた……。


「野球の遠投の練習だ!! ボールは子猫だけどな、クククッ」


 僕たちの背後には大きな池がある、奴らは子猫を池に投げ捨てるつもりだ。子猫では深い池に投げ込まれたらただでは済まないだろう。あまりの怒りに自分の頭に血が上るのが分かる……。


「やめろ、やめろおっ!!」


 声には出るが痛みでまったく身体が動かせない。


「ちくしょう……!!」


 僕が大人の身体だったらどんなに良かっただろう……。無力な自分にこれほど腹が立ったことは無い。慎一が子猫を片手に池のほとりに向かって歩く姿が涙で滲んた視界に映った。


「猫ボール、ピッチャー第一球振りかぶりました!!」


 ふざけた言い回しで慎一が子猫を掴んだ右手を高々と後方に振り上げる。


 もう駄目だ、間に合わない……。


「真美っ、見るんじゃない!!」


 ……彼女にだけは残酷な光景は見せたくなかった。


 子猫が池に投げ込まれてしまうのを僕はなす術もなく見過ごすしか出来ないのか!? 慎一の投げた子猫の軽い身体が池の水面みなもに向かって放物線の軌跡を描く。



 ……はずだった。



『やめて!!』


 ――真美の悲痛な絶叫が夜空に響き渡った。


 今まで僕の傍らに立ちすくんでいたはずの彼女が急にいなくなった。地面に無様に倒れ込んだ狭い視界からは移動した真美の姿を確認出来ない……。


「何だ、お前は!! 女の癖に俺様に勝てるわけがないだ、ぐえっ……!?」


 慎一の悲鳴が聞こえた、誰だ!? 僕たちに加勢してくれた人物は……。痛みを堪えながら両腕で身体を支え、まだズキズキと痛む頭をやっとの思いで持ち上げる。


「なっ……!?」


 次の瞬間、僕は自分の目を疑った。目の前で繰り広げられる光景がまったく理解出来なかった……。ワンピースの袖口と裾を乱しながら小学生としてはひとまわり体格の大きな慎一の身体を片手で軽々と持ち上げた小柄な人影シルエットは!!


 こんなことは現実にあり得ない、あり得るはずがない……。


 混乱した思考の中で繰り返しつぶやいた。借り物の幼いの身体が僕の意志とは無関係にがたがたと震え始める。これは恐怖から来る防衛本能だ。慎一を吊し上げた人物は誰あろう、真美だったから……。


『子猫をいじめる奴は絶対に許さない!!』


 先ほとまで僕の傍らで泣きじゃくっていたはずの彼女がまるで鬼神の様な険しい表情に変貌している。なぜだろうか!? その声までもくぐもったように低くこれまでの鈴の音のような真美の声色ではない……。


「ぐおっ、やめろおぉっ……!!」


 真美が更に高く首を締め上げる、慎一はたまらず泡を吹きながら気絶してしまった、ズボンの裾から流れる液体が湯気を上げながら地面に水溜りを作った……。


「し、慎一の兄貴が女にやられた……。嘘だろ!?」


「あの女、絶対におかしいよ、そうじゃなきゃあんな細い腕で人の身体を持ち上げられるなんて出来っこない……」


「雄一、だから僕はやめようってあれほど言ったのに!! 言いつけを守らずに夜の稲荷神社に子供だけで出掛けたから、きっとお狐様のばちが当たったんだ」


 遠巻きに一部始終を眺めていた雄一と取り巻き連中も目の前で起こった事実が理解できない様子だ。仲間割れしながら口々に言葉を発し始めた。その中で僕の興味を惹いたのはお狐様の罰という言葉だった。あの少年は先程の僕への暴行に一人だけ加わっていなかったはずだ。きっと気乗りしないのに雄一には逆らえず無理やり連れてこられたに違いない。この辺りの伝承として子供たちにも深く定着している大人からの言いつけを彼も身に染みて良く知っているのだろう。お天道様に背くような悪さをしたらお狐様の巣に放り込んでやる!! そしてとりかえしのつかない罰が降りかかるという教訓めいた話だ。


『次はお前たちか!? 子猫をいじめる奴らは逃がさない!!』


 豹変した真美がゆっくりと後ろを振り返り、怒りに満ちた視線で雄一たちを射抜いた。次の獲物たちの表情はまるで蛇に睨まれた蛙さながらだった。


「うわあああっ!! こっちにくるな化け物!!」


「に、逃げろ、狐憑きの女に殺されるぞ!!」


 統制の乱れた哀れな獲物たちは慌てふためきながら広場に置いてある自転車に跨がった。その場から一目散に我先と逃げ出そうとする。当時流行っていた自転車のカマキリの腕のような変形ハンドルが、お互いの車両同士でガチャガチャとぶつかりながら耳障りな音を広場に響かせた。


『絶対に逃がさない!!』


 真美、いや違う、彼女をまとった何者かは一瞬にして奴らの前に回り込み、先頭の雄一を自転車ごと転倒させる、その後に続いていた取り巻き連中も転倒に巻き込まれ、無様な悲鳴を上げながらもつれ合う。倒れ込んだ奴らはすっかり戦意を喪失して地面にへたり込んでいる。真美の表情はこちらからでは死角になって見えないが先頭にいる慎一の狼狽振りから彼女の激しい怒りの波動がこちらまで伝わってくる。


「ごめんなさいっ……。ゆ、許してください、ここまでするつもりはなかったんです、子猫は兄貴が勝手に連れて来たから!!」


 雄一が顔中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら許しを請うが、彼女は仁王立ちしたまま反応しない。その襟元を無言で掴み上げる真美、自分よりも体重の重い男子の身体をまた軽々と持ち上げた。


「ぐ、苦しい……。息が出来ない!!」


 雄一はいつも襟元に気障な蝶ネクタイを絞めていた。身体を持ち上げられて一気に首つり状態になってしまう。真美は怒りに我を忘れてその事実に全く気が付いていない……。雄一が手足をじたばたさせながら白目を剥く様子がこちらからでも見て取れた。


「真美、やめろっ!! それ以上やったら本当に死んじまうぞ……!!」


「……」


 怒りに支配された彼女の耳には僕の叫びも届かない。


 このままでは真美がになっちまう……。


 それだけは絶対に駄目だ!!


「ちくしょう、動きやがれ、小学生の僕の身体よ!! お山の大将の意地をここで見せてみろ、陽一!!」


 先ほどまで震えあがるしか出来なかった借り物の身体が火事場の馬鹿力とばかりに反応し始めた。


「まみっ……!!」


 やっと手足が動いた……。勢いよく立ち上がりながらその場の地面を蹴った。運動靴が狐の嫁入りの天気雨で濡れた地面にずぶりとめり込むが構ってなんかいられなかった。自分でも咄嗟にどんな動きをしたのか覚えていないが、気が付くと真美を後ろからしっかりと抱きしめていた。彼女が身体を強張らせたのが抱きしめた僕の両腕からも伝わって来た。


「もうやめてくれ……。 もう充分だよ、真美」


 彼女の身体から急速に敵意が薄れていくのが分かった。高く持ち上げた雄一の身体をようやく解放して地面にそっと横たえるのを確認した。


 止まった!! ふうっ、本当に良かった……。


 視界の隅で雄一に意識があるのを確認した。そのまま取り巻き連中の一人に肩を借りながら奴らは広場を立ち去っていった。気絶していた兄貴の慎一も一緒だ。足取りはおぼつかないが命に別状はなさそうだ。まさか彼らとの予期せぬ邂逅が真美の豹変する切っ掛け《トリガー》になるとは思いもしなかった。僕や子猫を守る為とはいえ、あの常人離れした真美の怪力には説明が付かない。彼女はやはり狐憑きになっていたのか!? でもいい、もう怪異は終わったんだ。これで僕たちはやっと正常な道に進むことが出来る。真美の居なくならない未来に繋がるルートだ……。


「真美、僕だよ!! 陽一だ。もう全部終わったんだ……」


 彼女にまわしていた腕の力を緩め、華奢な肩にそっと手を置いた。まだ無言のままの真美がゆっくりとこちらを振り返り、大きな瞳で僕の顔を真っすぐに凝視してきた……。


『お前、誰だ!? 気持ち悪いから身体に触るんじゃねえ!!』



 次回に続く。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る