あの場所であなたのことをいつまでも待ってます……。

「まみっ!!」


 とっさに伸ばした指先。僕は必死に彼女の身体に触れようとした。だけどその手は水色のワンピースにあと僅かでくうを切った。


「よ、陽一お兄ちゃん、私の身体が!!」


 違う!? 僕の指先が虚空を切ったのは、また彼女の身体が消えかけているからだ。


 消失のカウントダウンが始まった証拠に違いない……。


「真美っ!! 駄目だ。また僕の前から消えないでくれ。あの夏の日みたいな想いはもう沢山だ!!」


「お兄ちゃん、嫌だ!! 離ればなれになりたくないよ!!」


「真美っ!!」


「……陽一お兄ちゃん。大人の真美ちゃんをお願いね。そして必ずあの柿の木の下に連れていってあげて」


 背後からまばゆい光が真美の全身を包み込んだ。泣き笑いのような彼女の表情から言葉の真意を読み取る間もなく、はかない夢のごとく霧散する水色のワンピース。


 そして僕はたった一人で跳躍ジャンプした……。



 *******



『――約束してくれる? あの場所で待ってるから必ず迎えに来て』



 ……喧しい蝉の鳴き声が一瞬、止まった。


 真っ白に立ち上がる入道雲に、音が全て吸い込まれてしまった錯覚に捕らわれ、

 慌てて視界を巡らすと見慣れた景色だ、変電所から伸びる高架線を見つけて僕は安堵する。


 少しずつ音が戻ってくると今度は断続的な金属音が蝉の声に重なることに気が付いた。視界の隅でカラカラと廻る自転車の前輪、あれを僕が乗って来たのだろうか?


 妙な違和感を感じたのは自転車の前輪スポークがあらぬ方向に捻れ、車輪のハブ根元から何本も断裂しており、その先端が車体フレームに接触して耳障りな金属音を奏でていた、自転車の車体全体は僕の視界には見えないが、きっと大破しているだろう。


 …僕は何処か怪我をしているのか?


 自転車で激しく転倒して意識を失っていたのだろうか、

 それも強く頭を打っているみたいに身体の自由が利かない。

 脊髄損傷、物騒な単語が僕の脳裏に浮かんだ、先日テレビで観た自転車競技の

 中継でも先頭集団の選手が、不心得な観客の急なコース上への飛び出しで、

 激しい落車事故を起こして選手生命を絶たれた事例を思い出した。


 全身が妙にフワフワしたみたいに手足の感覚がないのは最悪の状況かもしれない。


 次の瞬間、激しい恐怖心が襲ってきた、まるで死神に心臓を掴まれたみたいだ。

 みぞおちの辺りから喉元までぞわぞわとしたどす黒い不快感に支配される。


【ダレカタスケテ!!】


 助けを呼ぼうとしたが全く声が出ない、胸一杯に浮かんだ言葉を言語化出来ず、

 壊れた自転車と同じく、ひゅうひゅうと気管から無様な音を漏らした、

 これは脊髄損傷だけでは済まないな、もっと最悪の事態かもしれない……。


 死を覚悟したが走馬灯は浮かばなかった、それほど僕はたいした人生を送っていない、

 そう思ったら妙に可笑しくなった、先ほどまでの恐怖感が嘘みたいだ、

 人間の身体は良く出来てきて命の危険に晒されるような事態になると、

 モルヒネのような麻薬と似た成分が自然に脳内麻薬として分泌されるそうだ。


 やっぱり僕は死ぬのかな……。


 一巻の終わり、年貢の納め時、変な連想ゲームみたいに言葉が浮かんでくる、

 嫌だな、こんな死の間際って最悪だ。


 脳内麻薬の分泌でハイになった脳裏に馬鹿げた考えが浮かんだ。

 今わの際の言葉として何か心残りな事柄を叫んで終わろう、どうせ声も出ないんだし……。


 きっと映画や小説の主人公みたいにドラマチックなことなんか亡くなる前に絶対に考えつかないはずだ。


 だって死人に口なしと昔から言うじゃないか、亡くなった人から真実は誰も聞く機会はないのだから……。


 相変わらず喉から声は出ておらず、仰向けになった僕の眼前には真っ青な空が広がっていた。


 横たわった草むらから、むせ返るような青さが乾いた鼻腔にそっと届いた。

 かろうじて動かせる視野が、急に大きく左右に広がったような錯覚に囚われる、

 空をしみじみ眺めるなんて久しぶりだな。


 今更ながら想う、地球って本当に丸いんだな……。

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

【……!?】


 突然、過去の情景が鮮やかに浮かんできた、

 焦りと失望、激しい羞恥心と共に尻尾を巻いて逃げ出した苦い思い出だ、

 僕は中学生の頃、部活動で歴史ある強豪の卓球部に所属しており、

 今だったら確実にコンプライアンス違反だか、上級生からの指導と言う名の

 非道いシゴキがあった、その中の罰ゲーム的な洗礼に近くの名門女子校の校門前で、

 女子生徒の下校時刻を見計らって好きな女の子の名前を言わせると言う罰ゲーム、

 内容は相当悪質だ、試合の度胸をつけるという名目で名前を叫ばされるんだ、僕はどうしてもその名前が言えなかった。


 何故ならその女の子はもうこの世に存在しないから……。

 名前を呼ぶ行為が彼女を冒涜している気になった。


 遠巻きに下卑た視線で僕を監視する上級生 歪んだ笑いが忘れられない、

 挙動不審な坊主頭の僕を、蔑むような女学生の視線が容赦なく射ぬく、

 そのトラウマは今でも鮮烈に僕の脳裏に焼き付いている……。


 だったら最後にその名前を叫んで死んでいこう!!


「……ひゅうぅ」


 気を集めるように深々と息を吸い込む、カラカラの口腔内に外気の湿り気が

 入ってくるのが分かる、喉の前で詰まっていた舌が痙攣するように律動した。


『僕、大滝陽一は二宮真美のことが大好きです!!』



 ……魂の絶叫が青い空に響き渡る、奇跡的に声が出た!!


 僕はいつの間にか泣いていることに気がついた、溢れる涙が仰向けの頬に伝わって耳まで流れるのが感じられる。


 もう何も思い残すことはない、最高に自己満足かもしれないが最後に僕は自己を解放した。


 あの日、どうしても言えなかった好きな女の子の名前を全力で呼ぶことが出来たんた……。

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・

 ・


『……はい』


 ……遂にお迎えが来たか、幻聴が聞こえるようになってきたらもうお終いだな。

 可憐な女の子の声が僕の耳に届いた、だけど天使なはずはないな、きっと死神のお迎えだ。


 ほら、視界の隅に黒い裾が見える、死神の衣に違いない……。


 んっ、何かが違うぞ、これは黒いプリーツスカートだ、セーラー服か!?

 涙で視界が歪んでいたが、死神だと思っていた人影が次第に鮮明になってくる

 傍らにしゃがみ込み、身動きの取れない僕の顔をそっと覗き込んできた。


 僕はその人物の顔をはっきり見届けようとした……。


 佇んでいたのは悪魔でなく黒髪の天使様だった、くっきりとした天使の輪が女の子の髪の毛に浮かぶさまを目に焼き付けようとしっかりと見据える。


 透き通るような白い肌に柔和な微笑みを静かに湛えている彼女は、僕が今まで見たどんな女の子よりも可愛い、いや綺麗と断言出来る。

 過去のトラウマで一目惚れなんてあり得ないと今日まで頑なに思っていたのに。  そんな僕が一瞬で恋に落ちてしまったほど目の前の少女は美しかった……。



 ほんのりと桜色に彩られた彼女の口唇が、ゆっくりと片取った言葉に僕は耳を疑った。


「……大滝陽一さん、あなたをお待ちしてました」



 慌てて首を動かそうとしたその刹那、彼女に両手で制された。

 彼女の香水なのか柑橘系の良い香りに身体を包まれる、

 三本線が途中で途切れる特徴的なセーラー服の袖口、

 この制服は何処かで見た記憶がある、何でだろうか……!?


 目の前の謎めいた少女に比べたら、そんな些細な疑問はどうでもいいか。


「今、動いては駄目です、傷の手当てをしなければいけません!!」


「僕はどうせ、もうすぐ死ぬんだから何をしても無駄だよ……」


「駄目です、私が陽一さんを絶対に助けます、死なせたりしません!!」


「もうほっといてくれよ、そもそも何者なんだ、僕は君の名前すら知らないのに……」


 自分が発した言葉を思い出して、顔から火が出る勢いだった、

 恥ずかしさのあまり、助けて貰った身分なのに逆ギレ状態になってしまった。


 そんな僕の剣幕に一瞬、少女は悲しそうな表情を浮かべる。

 何かを思案した素振りでうつむくが、すぐに顔を上げて僕に告げた言葉は……。


「いいえ、名前はもう呼んでくれましたよ、呼ぶと言うより叫んでくれましたね、私の名前、遠くまで良く聞こえるくらいにはっきりと」


 私の名前だって!?


 このは何を言っているんだ、僕は名前を呼んだりしていないぞ……。


「もしかして君の名前は!?」


 彼女の暖かな手のひらが僕の頬を優しく包み込んだ、

 天使のような微笑みをたたえた顔が、すぐ近くなるのと同時に甘い吐息を頬に感じる。


「私の名前は二宮真美です……」



「なっ……!?」


 あまりの展開に何も言えなくなってしまった。身体が身動き取れない状態でなければ僕は腰砕けになって膝から崩れ落ちてしまっただろう……。


 目の前にいる女の子は確かに真美の面影があった。しかし、僕の知っている年齢の彼女とは違っていた……。


 僕が知っているのはあの夏の日に消えた少女の姿をした真美。


 そして夢の中で見た成長した大人の真美。


 だが二宮真美と名乗った女の子は制服姿で分かるようにどう見ても高校生の年齢だ。これは一体どういうことなんだ!? また僕は夢でも見ているのか……!!


「これは夢に違いない、最後まで情けないな僕は……」


「いえ、私は夢や幻のたぐいではありません、この場所であなたを待っていました。やっぱり昔と変わっていませんね。あのの夜に交わした約束どおりに来てくれた……」


「昔と変わっていないって……。それにお団子取りの夜のことをなぜ知っているんだ!?」


「はい、陽一さんは私との約束を守ってくれました……」


「君との約束を守った!? この僕が……!! 言っている意味がわからない」


 とまどいと同時に不思議な違和感を覚えた。


 僕の知っている真美ならば、必ず陽一お兄ちゃんと呼ぶはずだ。目の前の彼女はと確かに言った。


「……もうどうでもいいや、どうせこれも僕の見ている夢で間違いなさそうだ」


「そうやって陽一さんはいつでも投げやりな態度を取ってきましたね。学校でも家でも……。どうして目の前の現実を見ようとしないんですか!?」


「大きなお世話だ、僕の何が分かるんだ、真美の名前までかたって、こんな状況じゃなきゃ怒鳴りつけてやりたいよ!! まあ、いいや、もう何もかも終わりなんだからさ。せめて君を天使様と思わせてくれ、死にゆく僕の痛みを和らげるために脳内麻薬が作り出した虚構としても、最後は初恋の彼女の面影に包まれて逝きたいんだ……」


 真美と名乗った女の子は、黙って僕の戯言を聞いてくれた。彼女の後ろに突然、白い回廊が現れた。何もない空間に!? まばゆい光に思わず目が眩む、次第に視界を取り戻した僕の前から女の子の姿はいつの間にか消えていた。驚くべきことに回廊の先には同じく白い階段が天空に向かって真っすぐに伸びていた。


 これで何もかも腑に落ちた、僕はあの世に向かっているんだな。


 天国への階段か。


 ああ、僕は最高に幸せなのかもしれないな……。


 もうすぐ真美のところに行けるんだ。


 大好きな彼女の待つ天国に……。



 次回に続く。



 


 

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