あの夏の日に置き去りにしたモノ……。
「……鍵箱の暗証番号は、よん、いち、ぜろ、さん、大人の真美ちゃんは案外ベタなんだな。語呂合わせなんだろう、この数字は? 僕には簡単に解ける答えだから拍子抜けしたよ」
僕の軽口にも反応せず、彼女は言葉を発しようとしなかった。その沈黙が暗証番号のの答えだと勝手に理解しかけた瞬間、今まで雲に隠れてた満月が丸い顔を覗かせる。
「……陽一お兄ちゃんって、昔から惜しいところまではいくのに残念だなぁ」
「お前は大人の真美なのか!? 僕が惜しいって一体どういう意味なんだ!!」
「……早合点しないで、私は大人の真美ちゃんじゃないから。正確にいえば以前は一心同体の存在だったけどね。陽一お兄ちゃんの推測は惜しかったよ。四桁の数字の最初の二桁は当たっているけど。大人の真美ちゃんは幼い私よりお姉さんだからもっと大胆な暗証番号なんだ。だからあんなに恥ずかしかったの。口にするのも照れちゃう答えだから」
幼い真美が口にするのも恥ずかしい答えって? 僕の推測した答えと何が違うんだ。
「よん、いち、ぜろ、さん。語呂合わせの答えは僕の名前じゃないのか。陽一さんに掛けているんだろう!?」
「だから前半の二桁は当たっているけど、後半の二桁が違うよ。陽一さんじゃないから……」
真美の愛くるしい口元に浮かぶアルカイックスマイルに、僕は頭を抱えて悩んでしまった。名画のモナリザが有名だが、ここは神社の境内なので例えるならば菩薩や観音様の温かい微笑みか。
「……降参するよ、真美。鍵箱の暗証番号の末尾、ぜろ、さん、の答えをおしえてくれ。僕には皆目見当が付かないからさ」
僕はありがたい観音様を拝むように身体の前で両手を合わせる。これじゃあ真美観音様のご利益を真っ先に頂こうと、必死になっている信者みたいでシャレにならないな。
「うふふっ!! 陽一お兄ちゃんって子供みたいにすっごく困った顔して。本当に面白いね!!」
なむなむと手を合わせて拝む姿を見て、思わず相好を崩した満面の笑顔に僕は安堵の息を漏らす。やっぱり目の前にいるのは幼い真美で間違いないんだ!!
「じゃあ、その困り顔にめんじて特別に答えを教えてあげる。鍵箱の中身を見れば分かるって言ったのは嘘じゃないけど。末尾二桁の暗証番号の意味はね……」
「真美、ぜろ、さん、の意味だぞ。って念を押す僕もしつこいけど、女の子って何でおまじないみたいな語呂合わせが好きなんだろうな。真美も日葵も何かというと数字や記念日って絶対に語呂合わせして意味を持たせるよな。男の僕には分からない部分かも……」
何気ない言葉に真美はただでさえ大きな目を更に見開いて、まるで変わった生き物を見るような視線で僕を真っ直ぐに射抜いた。
「……だから私は陽一お兄ちゃんが昔から惜しくて残念って言ったんだ。デリカシーのない答えは女の子から嫌われるよ!!」
「小学生のお前から、真剣な眼差しでデリカシーがないって言われると結構傷つくわ。その言葉、クリティカルヒットしたよ……」
「ふーんだ、真美、知らない!! 陽一お兄ちゃんは少し反省しなさい。好きな人の誕生日や初めて出会った日とか、女の子にとっては大切な記念日なんだよ。そしてその数字を掛け合わせたりする気持ちの意味を分かってあげてほしいの……」
分かってあげてほしい? 真美は何で自分のことなのにそんな言い回しをするんだ。
そうか!! 大人の真美が決めた大切な意味のこもった暗証番号だからなのか……。
「真美、本当にごめんな。この暗証番号に込められた想いを軽んじるようなことを言ってしまった僕を許してくれ」
もう彼女を拝むような仕草はしない。僕の両手の先にはあの鍵箱がしっかりと握りしめられていた。ずっしりと重い存在感を放っている。
「二桁目まで番号を合わせたよ。確かに固着しているみたいで固いダイヤルだ。お前の細い指先ではとてもまわせそうにないな。そして小学生の僕でも無理だったに違いない……」
「陽一お兄ちゃん、私の言葉で本当に傷ついてるの!? お顔が曇って見える……」
「いいや、心配ないよ。お前の言葉で傷ついたんじゃない。自分の軽口でこれまで真美や妹の日葵を筆頭にどれだけの人を傷つけてきたのか? そんなことを考えちまってさ。そして何より深く傷つけた相手の想いが、この鍵箱の中に込められているって思ったらどうしようもない気持ちに苛まれてしまったんだ……」
「……陽一お兄ちゃん、お願いだから顔を上げて。私の言葉の後に続いて鍵箱のダイヤルをまわして、これまでみたいに後悔に囚われないで。お願いだから前をしっかりと見て!!」
「……」
「陽一お兄ちゃん!!」
真美の悲痛な叫び声が境内に響き渡った。
彼女の金切り声に驚いたのか、本殿の背後にある
「……群青の蒼にのまれては駄目、大人の真美ちゃんみたいにならないで!!」
きゅっ、と細い身体の前で固く握りしめた両手。そのこぶしが小刻みに震えるのが分かる。
「過去の後悔に囚われて、自分を責めて、袋小路にはまり込むように、そんな人になって欲しくないよ!! だって陽一お兄ちゃんは今でも私の……」
爪がくい込んでいるのか真っ赤に充血するほど強く握りしめた真美の小さなこぶし。その様子からも彼女の強い想いが痛いほど伝わってくる。途切れた語尾の後の言葉を僕は容易に想像が出来てしまった。鍵箱の暗証番号は分からないくせに……。
「……初恋そのものだから!!」
真っすぐに僕を見据えながら真美は叫んだ。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中の真っ暗な暗闇に赤い光が射し込む。真美の頬が鮮やかなオレンジ色に彩られた。長く伸びる影が足元で反時計回りし始める。
これは普通の夜明けではない。確信のようなものが感じられた。僕は幼い真美と何度も不思議な体験をしてきたから断言出来る。
「さあ、陽一お兄ちゃん、私の言葉の後に続いて鍵箱のダイヤルをまわして」
僕の両手に握りしめたままの鍵箱も赤い光に照らされてその四角い筐体に微妙な陰影を刻み込んでいた。途中まで合わせたダイヤル式の暗証番号がはっきりと照らし出される。
「よん、いち、ぜろ、さん、私の大切な
真美の言葉に続いて固いダイヤルを指先でクリックする。かちゃり、と軽い音がして鍵箱のケース前面の蓋が開いた。僕は無言で中身を確認する。
「……こ、これは!?」
手のひらから鍵箱が滑り落ちた。境内の石畳に鈍い音を立てて転がったが僕は身じろぎひとつ取ることが出来なかった。なぜなら鍵箱の中身は……。
「僕とお揃いのキーケース!?」
意外な鍵箱の中身に驚きを隠せなかった。大切に梱包された丈夫そうな半透明の防水バッグ。透けて見えるのは初めてデートした映画館の別れ際に僕が真美からプレゼントされた物と全く同じ革製のキーケースに間違いがなかった。どんなに痛んでも手放すことが出来ず相棒のトレーシーに装着してずっと僕のお守り替わりだった。あの夏の日に消えた彼女と僕と繋ぐわずかな絆だったんだ。
「……陽一お兄ちゃん、キーケースの中身も確認してみて」
真美に言われるままに僕は震える指先で袋を開いてみた。やっと取り出したキーケースは固い革の感触が新品同様なことを物語っている。中には一枚の紙片が入っていた。女の子が良く手紙でやり取りするような折りたたみかた。小学生の頃、通学路の帰り道で立ち寄っていた太平堂の店内で、真美と日葵も手紙の交換をしていたことを思い出した。
「この手紙は……!?」
「それが大人の真美ちゃんの願いごと。そして陽一お兄ちゃんがやるべきことが書かれているはず……」
丁寧におりたたまれた手紙を破かないよう慎重に開いた。あまりのもどかしさに指先がもつれそうになる。とても胸が痛い、この感情は何だ!?
見覚えのある丸っこい字、間違いなくこの手紙は真美の書いた物だ。紙片を開いた瞬間、僕の目にすべての想いが飛び込んできた。その手紙の短い文面は……。
*******
秘密の暗証番号は陽一お兄ちゃんに絶対に内緒なんだよ。
またいつもの無理やりな語呂合わせって笑われちゃうから……。
陽一と真美、よん、いち、は
ぜろ、さん、は
陽一お兄ちゃんと真美、これからもずっと仲良しでいたいな!!
手紙の中でしか言えないけど陽一お兄ちゃんのことが……。
ううん、違うな、お兄ちゃん呼びの関係な意味なんかじゃないよ。
――私、二宮真美は大滝陽一くんのことが大好き!!
*******
あのオレンジ色のエプロンの刺繍、それと同じくらい下手くそなイラストが文面の脇に添えられていた。傘を持った恐竜の親子、その傘は相合傘のマークになっていることに気がつく。そこに並んだ二つの名前は陽一と真美。
ついさっき感じた胸の痛みと同じ感覚が頭の先から足のつま先まで一気に広がる。同時に鼻腔の奥がツーンと痺れ出すのが感じられた。
「陽一お兄ちゃん、また泣いているの?」
急速に視界に映る彼女が不鮮明になってしまう。手に持った手紙の文字が滲んで見えた。あの県営住宅で幼い真美に抱きすくめられながら泣いた記憶が鮮明に蘇ってくる。とめどなく流れる涙を止めることが出来ない。紙片に点々とこぼれ落ちて小さな染みを作る。その染みが広がって恐竜のイラストまで泣いているように見えた。
あの県営住宅で泣いた僕と決定的に違っているのは、流した涙が負の感情全てを洗い流してくれたことだ。
「大人の真美の願いごと。僕は確かに受け取ったよ。本当にありがとうな……」
「陽一お兄ちゃん、やっとわかって貰えた!!」
僕が眩しい光に向かって勢いよく顔を上げたその瞬間。まるで雲が切れるように一気に辺りの景色が変化した。宙に浮かび上がったような感覚が全身を覆ってくる。
この感覚は!! 違う場所に僕たちが
「まみっ!!」
とっさに伸ばした指先。僕は必死に彼女の身体に触れようとした。だけどその手は青いワンピースにあと僅かで
「よ、陽一お兄ちゃん、私の身体が!!」
違う!? 僕の指先が虚空を切ったのは、また真美の身体が消えかけているからだ。
消失のカウントダウンが始まった証拠に違いない……。
「真美っ!! 駄目だ。また僕の前から消えないでくれ。あの夏の日みたいな想いはもう沢山だ!!」
「お兄ちゃん、嫌だ!! 離ればなれになりたくないよ!!」
「真美っ!!」
「……陽一お兄ちゃん。大人の真美ちゃんをお願いね。そして必ずあの柿の木の下に連れていってあげて」
背後からまばゆい光が真美の全身を包み込んだ。泣き笑いのような彼女の表情から言葉の真意を読み取る間もなく、はかない夢のごとく霧散する水色のワンピース。
そして僕はたった一人で
次回に続く。
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