お兄ちゃんにだけは教えられない……。

「……真美、その鍵箱は!?」


 「大好きなお父さんとお母さん。そして真美。三人でこれからもずっと一緒に暮らせる。そんなの願いが詰まった鍵箱。だけどその約束は守られなかった……」


 真美の小さな手のひらに収まりきらないほど大きな鍵箱。展望台の防護フェンスに掛けられた無数の南京錠の中でもひときわ存在感を放っていた。あのときの言葉が鮮明に思い出される……。


『女神像のある展望台女神像の前で恋人同士が永遠の愛を誓い、ここに南京錠を掛けるの。そうすると末永くその二人は幸せになれるんだって……』


 真美は過去のトラウマに決着ケリをつけたはずじゃなかったのか!? 南京錠の鍵を彼女があの女神像の前で開けたのは間違いない。大人の真美の願いをかなえるために、最終目的地である稲荷神社への道すがら、途中下車してまで鎮守様おちかんさまの森に来た僕たちには、この鍵箱は無用の長物にしか思えない……。


「そんなに驚いた顔を私に見せないで。陽一お兄ちゃんが急ぐ気持ちもよく分かるけど……。だけど大人の真美ちゃんを救い出すためには絶対に必要な儀式なの」


 真美は鍵箱を慈しむように両手で握りしめた。そして四角い箱の表面に指先を滑らせる。彼女の仕草の意味は過去の懐かしい思い出に浸って、鍵箱を優しく撫でているのかと思った。


「この鍵箱に隠されたもう一つの秘密は、陽一お兄ちゃんにも話していなかったね。鍵で開けられる南京錠とは別に箱の中に小物を入れておけるの。四桁の数字を表面のダイヤルロックで合わせて。そしてこの番号は私とお父さんしか知らないんだ……」


 僕は今までまったく気がつかなかった。目の前に差し出された黒い鍵箱。あの女神像のある展望台で長い年月、風雨にさらされて劣化はしているが、頑丈そうな金属部分の塗装にはまだ艶まで残っている。

 よくサーファーが海で使用するような鍵箱だ、サーフィンを楽しむときは長時間、車を離れて海に入るために車の電子キーなとを身に着けてはいられない。そこでだいロック式の鍵箱に車の鍵を収納し、車のバンパー裏にある牽引けんいんフックなどにぶら下げておける。車上荒らしの盗難が多いビーチでの必需品と以前、サーフィン専門誌の取材撮影で教えてもらったことを思い出した。


「やっぱりダイヤルロックが固いな。私の力だと回すのが無理みたい……」


 真美の華奢な指先ではダイヤルロックが固くて回せないようだ。親指の先に力を込めすぎて真っ赤に充血している様子がとても痛々しく感じてしまう。


「開けてやるから僕に貸してみろよ。ダイヤルロックの四桁の暗証番号を教えてくれないか……」


「えっ、暗証番号!? だめだよ、陽一お兄ちゃんにだけは教えられない……」


 何気なく伸ばした僕の指先から逃れるように、真美は勢いよく上体を反らせた。その俊敏な動作はまるで清流を泳ぐ若鮎のようだ。その充血した指先よりも紅く染まった彼女の意外な反応に驚いてしまう……。



『『陽一お兄ちゃんだけには教えてあげる……』』



 過去から現在、これまでの僕は彼女からの教えて。その言葉にすっかりと飼いならされていた。予期せぬ拒絶に戸惑いの色を隠せない。鍵箱を開ける暗証番号で、なぜ真美はそこまで真っ赤になって恥ずかしがる必要があるのか?


「……僕にだけは教えられない。そりゃあそうだよな。大事なお父さんと決めた秘密の暗証番号だから。軽々しく口にしたくないのもよく分かるよ。配慮がなくてごめんな」


「ち、違うよ!! ダイヤルロックの暗証番号はお父さんと決めたんじゃないの。四桁の数字は好きな数字で決めなさいって……」


「それじゃあ僕にだけは教えられないって、なぜ真美は言ったの?」


「そ、その数字を教えたら、陽一お兄ちゃんに笑われると思ったから……」


 消え入りそうな声で彼女はつぶやくと、鍵箱を握りしめたまま黙り込んでしまった。沈黙を破るように良く澄んだ鳥のさえずりが僕の耳に届く。いつの間にか境内の真ん中辺りまで僕たちは歩いてきたことに気がついた。礼拝にむかう鎮守様おちかんさまの本堂が見えてくる。その背後には鬱蒼うっそうとした森が広がっていた。あの夏の日の逃避行で、真美と二人で身を隠した山小屋はまだ同じ場所に存在しているのだろうか……?


「真美の決めた鍵箱の暗証番号で僕が絶対に笑うって、何か意味でも込められた数字なのか?」


「……」


 どうやら図星ビンゴみたいだ。彼女の両頬がさらに真っ赤になる。境内の真ん中に紅い大輪の花が咲いたみたいだ。僕はこの光景には見おぼえがあった。


「僕は絶対に笑わないと約束するよ!! だからダイヤルロックの暗証番号を教えてくれ。この先に進むには必要なんだろう」


 しばしの沈黙の後、真美の唇の端が動いた。片方だけに浮かぶえくぼ。桜色に彩られた口唇のかすかな動きに僕は注目した。


「よん、いち、ぜろ、さん。それが大人の真美ちゃんの決めた暗証番号なの……」


 彼女は四桁の数字を告げると鍵箱を僕に差し出してきた。が決めた暗証番号!? その数字にはどんな意味が込められているのか。受け取った四角い鍵箱から、ほんのりとした温もりが手のひらに伝わってくる。


「陽一お兄ちゃんの手で鍵箱をダイヤルロックを開けて。そして中身を確かめて欲しいの。そうすれば数字の意味は分かるはずだから……」


 僕は鍵箱の表面にあるダイヤルロックに手を掛けた。固い感触が左手の親指に伝わってくる。そして一桁目の数字を四に合わせた。僕の知らない彼女がこの中に封じ込められているのだろうか……。



 次回に続く。

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