あの日の心に鍵を掛けたままで……。

 ――急な石段を上りきり、ひと息つく間もなく僕たちは大鳥居から望む境内をまっすぐに見据え、まずは最初の行き先を考える。


 御神水の湧き出る場所まで広い境内は時間が掛かるからだ。神聖な水汲みを行うには神様に挨拶をするのが昔からの習わしと聞いている。本殿に礼拝するのが物の順序だろう。

 わが家にある井戸からも良質な天然水が飲めるのに、こんな山の頂上までなぜ水を汲みに行かなければならないのかと、子供のころはとても疑問に感じていた。

 ばちがあたりそうな例えかもしれないが、おなじ鹿能山かのうざんにあるマミー牧場。そこで飲めるしぼり立ての新鮮な牛乳みたいなものかと、勝手に考えていた昔を思い出して妙に笑いがこみ上げてくる。


「……陽一お兄ちゃん、なにを笑っているの。大丈夫?」


「いや、ちょっとした思い出し笑いさ。こんな罰当たりなことを境内で考えて鎮守様に怒られないか心配だけど……」


「なあに、その気になる言いかたは!? 私にも教えてよ。陽一お兄ちゃんがばち当たりじゃないかどうか、鎮守様のかわりに真美が聞いてしんぜよう~~!!」


「もしかして、その両手で棒を振るみたいなポーズは巫女さんのつもりか?」


「そうだよ。巫女さんのまねっこ。白い紙のふさふさがついたおはらい棒を振って陽一お兄ちゃんをするの!!」


「はらたま、なんだそりゃ!?」


「やっと陽一お兄ちゃんの知らない言葉をみつけたよ!! ひまわりちゃんから聞いたことはないの? 流行語にまで選ばれたあんなに有名な言葉なのに……」


「あんまり僕は流行語大賞とかには詳しくないけど、はらたまなんて言葉は聞いたことがないな。いったい何年前の流行語なんだ?」


 僕と真美の流行語には、がある。これまで何度も寂しい想いをさせてしまった話題に気がついて、何年前とか軽々しく口にして軽率だと後悔しかけたが、それは杞憂きゆうだったことを彼女の楽しそうな横顔から感じとれて、安堵で胸をなで下ろす。


「大糸小学校、四年三組。ひまわりちゃんとまみーぬ、二人だけの流行語だよ!! 放課後の教室でおまじないと一緒にはらたま、きよたま、するの。とっても可愛い言葉じゃない?」


「祓いたまえ、清めたまえを縮めたのか。安心したよ、僕よりお前のほうがよっぽど罰当たりかもな。それに流行している範囲が二人とかあまりにも狭すぎないか? 小学生の女の子全部ならまだしも……」


「あ~~!! また私を小馬鹿にしている目だ。はらたましてあげないよ。えいっ、そんな意地悪なお兄ちゃんはこれでもくらえ!!」


 彼女はふくれっつらになり、僕にむかって剣道の素振りみたいな動作をした。今度は手に持ったつもりのお祓い棒を竹刀に見たてているのだろうか? それこそ罰当たりだな。


「……なんだ、この風は!?」


 ばさり、ばさりと紙のこすれあうような音が聞こえた。自分の空耳かと思ったが真美の振りおろす手の動きと同時に風を感じた。まるで彼女が本当のお祓い棒を持っているかのようだった……。


「大丈夫!! 巫女さんの真美がおはらいをしてあげるから。はらったま!! きよったま!! 陽一お兄ちゃんのお悩みを全部消し去って進ぜよう!!」


 真夏の夜とは思えないほどの冷気を首筋に感じて、身震いをしてしまった。

 それは風のせいだけではない。隣でおどける彼女の姿を見て僕は驚きを隠せなかった。


 真美はまた能力を使ったのか、それも無意識の状態で……!?


 僕たちの最終目的地である村で唯一の稲荷神社。幼い真美に導かれ、そこまでの跳躍のために決死の覚悟でトンネルに入った。その中の異質な空間に現れては消える過去の映像。

 そして大人の真美の願いごとが残されているという鎮守様の森。

 これまでの道中で、限られた能力を僕の失われた記憶を取り戻すために使ってくれた彼女。

 その姿はどんどんはかなげになってしまった。透けていく真美の細い身体。体温をほとんど感じられない手のひら。僕のいるこの現世に定着していない肉体と魂。いちばん考えたくはないが、僕の目からみて何よりも明白だったのは事実なのに……。


 鎮守様の大鳥居に一歩足を踏み入れた途端に、その変化は始まっていたというのか!?

 真美の身体が透けていない!! はっきりとした輪郭をともなってその場に彼女は佇んでいた。


「まみっ!! お前の身体……!?」


「わわっ!! また急に大きな声で私を驚かして。陽一お兄ちゃんにバチがあたらないようにはらたましてあげてるのに。不意打ちなんてずるいよ……」


 自分よりも僕を心配してくれる少女。昔と全く変わらない大切な幼馴染みが、そこに間違いなく存在していた。その柔らかそうな白い頬を緩ませている。そのあどけない笑みを見た瞬間、自分の中でむくむくと頭をもたげてくる思考を抑えることが出来なかった……。


 時間の流れが交差するこの場所にいれば、永遠に彼女の笑顔を失うことはない。甘美なその事実に気がついて思わず口をついてしまう嘘。僕は嘘をつくのが下手じゃなかったのか!?


 彼女に本当のことを告げず、裏腹な言葉を選んでしまった僕はやっぱり罰当たりだ……。


「……この寒さは本当に鹿能山かのうざんの頂上に来たみたいだな。真美、薄着で大丈夫か? 僕のジャケットを貸すよ」


「あ、ありがとう……。でも陽一お兄ちゃんは上着なしで平気なの? 私のために風邪をひかれたら困るよ」


「ああ、僕は大丈夫だよ。何とかは風邪をひかないって言うだろ!!」 


 左右にそびえる大鳥居の柱の太さに思わず圧倒されてしまう。お祖母ちゃんと交わした約束を思い出して今ごろになって僕の胸がちくりと痛んだ。


「本当に陽一お兄ちゃんはおばあちゃんっ子だよね。その言葉も当時、よく言われていたことを思い出すよ。薄着で遊び回る姿を良くお祖母ちゃんは心配していたから……」


 自宅の庭で遊ぶ僕に、縁側から声をかける在りし日のお祖母ちゃんの姿が懐かしく思い出される。


 そしてこの鎮守様の森に水汲みに来ると必ず言われていたあの言葉も。


『鎮守様の森に子供だけで足を踏み入れるのは、そりゃあおいねえいけないことおっだよ』


 ……僕は大好きだったお祖母ちゃんとの約束を守れなかった。


 長年の相棒であるヤマハトレーシーに、真美をのせて過去の記憶をめぐる聖地巡礼の旅に出かけた。その道中で野生の猿が飛び出してきて、あわや大惨事になりかけてしまうが、なんとか最悪の事態は避けられた。そして偶然立ち寄った海沿いのコンビニ前で、二人組の警官から職務質問を受けた直後、真美が僕の前から忽然こつぜんと姿を消してしまった。過去にいちど彼女を失っているトラウマから、半狂乱になってトレーシーの限界を越える走りをしてしまった。


 バイクの運転が上手くて事故に遭わなかったとは過信していない。お祖母ちゃんから教えて貰った迷信をすべて信じるわけではないが、特に印象に残っているのが紙一重かみひとえという言葉だった。


 ――僕は紙一重で事故にあわなかっただけだ。


 この辺りでは鎮守様の名称を、おちかんさまと呼ぶように紙一重も別の意味が隠されているとお祖母ちゃんは言っていたな。

 。みえざる神様の手によって薄皮一枚この世にかろうじて命が繋がるという意味だ。


 有名な話だが神社の鳥居の存在は内側と外側を区切る。僕たちの住むこの世とあの世を分ける境界線の役目だといわれている。その境界線を紙の一枚に見立てただけではなく、神の手に委ねられる人の運命を表している意味を持つ言葉だと、お祖母ちゃんは幼い僕に教えてくれた。


『……そんなのは古い迷信だから、お祖母ちゃん!! 迷信は科学的にぜんぶ説明がつくんだって』


 夏休みの時期になると小学生むけの電話相談コーナーが、たまにラジオで放送されているが、自分から質問したくせに、回答者の先生を困らせるクソガキみたいな言葉をお祖母ちゃんにぶつけてしまったんだ……。


『……古い迷信か。陽ちゃんは小学校に入ってずいぶんと物知りになったんだね』


 そんな僕を怒ろうともせず、お祖母ちゃんは目を細めながら僕の頭を優しくなでてくれた。

 針仕事の布をひざに置き、こちらにのばしてくる手のしわに年齢を感じる。


『こんなに立派になった陽ちゃんの姿をみたら、お母さんはどれほど喜んだだろうかね……』


 お祖母ちゃんが言っているのは亡くなった僕の母親のことだ。


 僕が幼い頃に亡くなった母の部屋は、しばらくのあいだそのままにされていた。親父に言われたわけではなかったが暗黙の了解で母の部屋には入らなかった。多分、いま思い返せば幼い自分なりに親父の深い悲しみに配慮していたんだろう。

 そんなある日、母の部屋に入る機会が訪れた、家の改装工事のため、母親の部屋の整理をしなければならなくなり幼い僕も手伝いに駆り出されたんだ。


 父親は参加しなかった、造園の用事があるといっていたが、それは多分嘘だ。思い出深い母親の遺品を整理することに抵抗があった親父は、立ち会うのが辛かったんだ……。


 お祖母ちゃんと僕で片付けのために、母の部屋に久しぶりに足を踏み入れた。


 

「うわあっ……!?」


 一歩足を踏み入れた母親の部屋、僕の目の前に広がる光景に思わず驚いてしまった。壁中を埋め尽くす蔵書の数、下手な移動図書館ぐらいの数がある。


 もともと本好きだった僕にとっては夢のような光景だった。


千尋ちひろさんは本の虫だったからねぇ……」


 お祖母ちゃんが柔和な笑顔で僕の背中に告げた。千尋さんとは僕の亡くなった母の名前だ。


「……おばあちゃん、この本を全部捨てちゃうの?」


 本好きの僕は処分することに胸が痛んだが、お祖母ちゃんの表情を見て安心した。


「この本は捨てないよ、千尋さんが亡くなる前に言ってたんだ。陽ちゃんと日葵ちゃん。二人のために残すんだって……」


 母の形見である本を僕たちのために残す!?


 お祖母ちゃんの話では、もともと身体の弱かった母親は僕と日葵に何かメッセージを残したかったそうだ。手紙、ビデオメッセージ、どれもいまいちピンとこない……。そして無類の本好きだった母親は名案を思いついた。


「……陽一、その木製の本棚を見てごらん、全部、番号順に並んでいるから」


 お祖母ちゃんに促されるまま、本棚の前に立った。並べられた本の背表紙に番号が記してあることに気がついた。


「……おばあちゃん、この数字って……!?」


「陽ちゃん、お母さんの字だよ。千尋さんは亡くなる前に一生懸命にこれを書いたんだ……」


 子供向けの児童書が並ぶ最初の本棚、決してキレイと言えない乱れた文字。


 僕は思わず目頭が熱くなってしまった……。


「お父さんはお前たちに面と向かって言えなかったんだよ、千尋さんからの伝言を。自分の残した子供二人の成長にあわせて本を読んで欲しいって……」


 僕の滲む視界に映った本棚のネームプレートにはこう書かれていた。


【陽一くん文庫、小学校低学年コーナー】


 隣の棚には日葵専用の文庫も用意してあった。思えば妹が少女漫画好きになったのも母親の少女小説や少女漫画の文庫。そこからの影響が強いのだと思う。

 それから僕は寝る間も惜しんで母親の残してくれた本を読みまくった。

 妹の日葵にも寝物語で、いろんな本の読み聞かせをした。母親の蔵書は広範囲に渡っていて小説、漫画、児童書、専門書、お勧めの本は別に順番でなくともいいと母親からのメモが添えてあった。

 そして何より嬉しかったのは母からの直筆メッセージが付箋で本の中に貼ってあったことだ。それは自分が読んだときの本の感想であったり、当時の父との他愛のないやり取りだったり、僕や日葵の年齢に合わせた助言のようなメッセージも含まれていた。

 まるで亡くなった母親と本を介して会話のキャッチボールをしている気分になる。

 タイムマシンがなくとも、亡くなった人と会話が出来る。そんな思いにさせてくれた貴重な経験だった……。


 僕が本好きになったのも、もちろん母親の用意してくれた文庫のお陰だ。本の中の誰も傷付かない世界、当時は夢中になれたものだ。


 それは真美が行方不明になってからの抜け殻のような僕の大きな支えのひとつだったな。現実逃避と言われたって構わない。普段の現実が厳しいかわりに本を読んでいる間だけ、自由な空想の世界に浸っていてもいいじゃないか……。


 真美に指摘されなくとも、お祖母ちゃんっ子だったのは自分でも認める。僕が幼少期の人格形成に多大な影響を受けた人物で間違いはなかった。僕にとっての優れた助言者メンターだったのかもしれない。そしてその影には亡くなった母親の存在も大きかった。


 僕は自分の過去を振り返り、どうしても真美に質問を投げかけたくなったんだ……。


「なあ、真美。お前にとってこれまでいちばん影響を受けた人って誰かいるか? 人生の良き助言者みたいな人の存在だ。自分はご存知のようにお祖母ちゃんの影響がとても強いみたいだ。だからこんなに古い迷信や格言にこだわりがあるのかもしれないな。良かったらいい機会だから教えてくれないか……」


「わたしにとっての人生の助言者。それは……」


 真美の表情に微妙な影がさすのを僕は見落とさなかった。彼女は自分の胸もとにゆっくりと手を這わせる。


 その指先にはあの女神像の前で僕が落とした鍵が握られていた。あれほど拒んだ自分の過去への扉を開ける鍵。僕が彼女に初めて声をかけたときと同じ、ペンダントチェーンに鍵をとおして身につけていたのか……。


 彼女にとっての良き助言者メンターとは誰だったのか? 

 その沈黙が何よりも雄弁に僕に答えを語りかけてきた。


 初めて、あの稲荷神社で声をかけたときに、彼女のワンピースの胸もとで輝きを放っていた鮮烈な夏の記憶がよみがえる。


「幼い真美だけだから開けられた。お父さんとの約束の鍵箱。その中身を陽一お兄ちゃんにもぜひ知っていて欲しい。それが大人の真美ちゃんの魂の救済になることだと思うから……」


 彼女は身につけていた丸い花模様のポシェットから、それまで僕の前で一度も開けることのなかった約束の鍵箱を大事そうに取り出した……。



 次回に続く。



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