お兄ちゃんって呼んでもいいですか?
「陽一お兄ちゃん、この階段を登りはじめてから、ずっと黙り込んでいるけど大丈夫? 手に持った荷物が重いなら真美もお手伝いするよ」
「ああ、大丈夫だ。日葵が僕たちのために用意してくれたお弁当の入ったバッグはそんなに重くはないから。普段の撮影旅行に使うカメラバッグに比べたらこんなのは軽いもんだ。いま僕が考えていたことは全然違うよ。子供のころの記憶ってさ。ふだんは全然思い出さないのに、まるで何かと
「子供のころの記憶って、この石段と何か関係あるのかな。私も登場する?」
「真美とこの石段を登ったこともあるよな。だけど逃避行の記憶じゃなくて、僕がもっと幼かったから残念ながらお前は登場しないよ。亡くなったお祖母ちゃんに手を引かれてお正月恒例の水汲みに訪れたときの思い出さ。僕はまだ小学一年だったかな……」
「なんだか悔しいかも。私の知らないころのお兄ちゃんのお話しって……」
まさかそう来るとは思わなかった。真美のちょっと拗ねた表情も可愛いけど。
「……おいおい、無理をいうなよ。僕だってあのお稲荷さんのある神社で、お前に声をかけるまでは赤の他人だったんだからさ」
「そのことにはとっても感謝しているよ!! 県営住宅に引っ越してきたばかりで、一人もお友達のいなかった私をかくれんぼに誘ってくれたよね……」
「そうだったよな。べつに誰でも良かったんだけど、たまたまお前が境内にいたからさ。かくれんぼの鬼が足りなかったから声をかけただけ。じゃんけんが弱そうな顔にみえたから……」
「陽一お兄ちゃん、ひどい!! それにじゃんけんが弱そうな顔って、いったいどんな顔なのよ?」
「……それは今でも教えられないな、これは企業秘密だから。人の顔を見ればだいたいどんな性格か分かるんだ。勘がいいってことかな。僕の人相占いはけっこう当たるんだぜ」
――それは嘘だ。僕はあの夏の日、真美に偶然声をかけたんじゃない。
*******
あの稲荷神社の境内で真美の姿を何度も見かけた。妹の日葵が最初に気が付いたんだ。見慣れない水色のワンピースを着た少女。あか抜けた都会の雰囲気をまとった彼女の姿は、ひと目で地元の子供ではないとわかった。
夏休みだけ田舎に遊びに来ているのかと思ったが、何日も真美は神社にお参りに来ていた。いつも周囲には目もくれず、鳥居を抜けて境内を歩く姿。そしてまっすぐに拝殿前にむかっていく。どことなく思い詰めたような横顔がとても印象に残った。
『陽一お兄ちゃん、あの女の子に声をかけてあげて……』
日葵が単なるおせっかいで言っていないことが感じられた。それほど参拝に日参する真美の姿は切迫した雰囲気を
僕も女の子に声をかけるなんて得意ではなかったが、思い切って帰り際の真美の前に立ちふさがったんだ。
『お前、ここいら辺で見かけない顔だな。まあいいや!! 良かったら俺たちと一緒に遊ばないか?』
驚いて僕を見すえる彼女の大きな瞳。真っ黒に日焼けした自分の腕とは対象的な陶器を思わせる白い肌。
耳障りな蝉の鳴き声が一瞬、止まった気がした。
彼女の白い頬がしだいに桜色に彩られるのをみて、思わず安堵のため息がもれてしまった……。
『……わ、わたしのことですか?』
麦わら帽子を片手で抑えて、きょろきょろと境内を見まわす真美。
『お前以外に誰がいるんだよ。俺たちとかくれんぼをしないか? 妹しかいなくて二人だと人数か少なくて面白くないからさ!!』
僕は最大級のテンションで真美を遊びに誘った。声が裏返っていたかもしれない。は小学生だから当然だけど、いま思えば人生初の可愛らしいナンパだったよな。そういえば僕はいつから自分のことを俺と言わなくなったんだろう……。
『陽一お兄ちゃん!! はじめて会った女の子をお前呼ばわりしないの。ちゃんと名前を聞いて!!』
手水舎の影で僕の様子を見守っていた日葵から、非難の声を背中に浴びる。
『ああ、名前を聞くのか。まず最初に自分から名乗らなきゃ失礼だろ。俺は大滝陽一、好きな食べ物は……』
『陽一お兄ちゃん!? 名前だけでいいんだよ!! 自己紹介じゃないんだから……」
またも日葵から鋭いツッコミが入る。人の名前を聞くときはまず自分から名乗れ。これもお祖母ちゃんっ子の僕に染みついた礼儀作法だ。
『うふふっ、いきなり自己紹介なんて陽一くんって面白いね!! 私は
『よ、陽一くんって!? いきなり下の名前呼びかよ……』
『えっ……!?」
真美が不思議そうな顔でこちらを見据える。僕は妹以外の女の子から陽一と、下の名前で呼ばれることに慣れていなかった。怒ったというより照れくさい気持ちが強かった。そして彼女をなんと呼べばいいのかよく分からない……。
『もしかして、二学期に都会から転校してくる女の子ってあなたのこと?」
いつの間にか日葵が僕の横に立っていた。こいつ、身軽に敷き詰められた砂利を音も立てずに跳ぶ技を使いやがったな。僕にかくれんぼでさんざん鍛えられたテクニックだ。等間隔におかれた置き石の上をうまく踏んで歩くんだ……。
『うん、九月の新学期から
『ええっ〜〜!! じゃあ私と同じクラスだ。すっごい偶然!! 私は
『嬉しいな、ひとりぼっちで心細かったの。いきなりお友達が二人も出来るなんて夢みたい!!』
男と違って女の子同士だと打ちとけるのは一瞬なんだな。 これなら最初から日葵が声をかければ良かったのに……。
「日葵ちゃんと私が同じクラスということは……。 陽一くんだと年上のお兄さんに失礼だったね、ごめんなさい。でも名字だと日葵ちゃんと兄妹でまぎらわしいから、私も陽一お兄ちゃんって呼んでもいいですか?』
こちらの顔を覗き込むために真美がひざに両手をあてて上半身をかがめた。その拍子に、彼女の胸元できらりと光るものが僕の視界に飛び込んできた。
『べ、別にかまわないけど、妹が増えるのは勘弁してほしいかも。すでに手が掛かる奴を
『わあっ!! おしゃれなペンダント。 真美ちゃんってやっぱり都会からきたお嬢様って感じ。チェーンの先には何がついているの?』
いつもの軽口に反応しないほど、妹は真美に関心を持っていた。普段ならめちゃくちゃ怒られたに違いない。妹が興味を持った真美の胸元で揺れるペンダントのチェーンにはよく磨き上げられたモノが吊るされていた。
『……ああ、これは高価なものじゃないよ。私にとっては大切なものだけど。それに都会のお嬢様なんかじゃないから』
大事そうに握りしめた真美の指の間から光る鍵先が頭をのぞかせる。そのまばゆいばかりの輝きが僕の印象に残った。
*******
肌見放さず身につけていた大切な鍵を、僕に託したことを女神像の展望台で泣き叫んでいた幼い真美はまったく覚えていなかった……。
稲荷神社を何度も訪れて神頼みしなければならないほど、精神的に追い詰められていた当時の彼女。大好きだった父親と離別した原因は自分のせいだと真美は強い自責の念にかられていた。
いま僕と行動をともにする幼い真美はとても無邪気な顔を僕に見せてくれる。あの神社の境内で見せた暗い側面がごっそりと抜け落ちてしまったみたいに……。
大人の側面を持った真美は、いったいどこにいってしまったんだ?
「陽一お兄ちゃん、頑張って!! もうすぐ石段も終わりだから。あっ、見えてきたよ、鎮守様の赤い鳥居が。奥にある本殿も昔と変わってないね……」
僕が子供のころに自由に出入りできた時代とは様変わりしていると以前、日葵から聞いたことを思い出して、誰もいない境内に違和感を覚える。
「それにしても、人っ子ひとりいないな。気味が悪いくらいだ……。真美、まさかこれもお前の
「私は何もやっていないよ。あの
「ここの水って!? そうだ僕たちの住んでる村まで大糸川の水系を流れているな。家の裏手にある上総掘りの井戸にもこの水が届いているんだった……」
「そうだよ。高いところから低いところに水は流れるの。だから神聖なお狐様の本殿もここにあるの……」
なぜ真美がこの場所に僕を連れてきたのかようやく理解した。鎮守様の森、その入口にある本殿。あの夏に逃避行でむかった川の上流。神聖なる儀式の場所。
「だけど、僕たちがむかうべき最終目的地はここじゃないよな!? あの村にある稲荷神社で間違いないはずだ、あの場所で見た真美の姿が記憶の中では最後になっているから……」
「それは間違いないよ。だけどこの場所にも絶対に立ち寄らなければ駄目なの!! それは大人の真美ちゃんのかなえられなかったお願いだから……」
真美の身体が小きざみに震える。しっかりと繋いだ手の先には僕の温もりしか感じられない。こちらの熱で彼女を温めてやることしか出来ない。ここには存在しない大人の真美。その凍った心を溶かすほどの熱量をはたして僕は持っているのだろうか? それはまだ分からない……。
――だけどいまは先に進むしかない。
「真美、行くぞ……。 この先に大人の真美が落としたカケラがあるんだろ。それを拾わなきゃあ始まらないって顔してるぜ。いまのお前」
「……陽一お兄ちゃん」
「そんなに辛気臭い顔すんなよ。お通夜に行くんじゃないんだから。お前は確実に生きている。そしてもうひとりの真美もな。さっきも言っただろう、僕の人相占いはけっこう当たるんだぜ!!」
その言葉に真美は――満面のほほ笑みを浮かべてくれた。そして僕の軽口に応えるような口調で。
「陽一お兄ちゃん、いまの私にはどんな運勢が出ているの……?」
「大吉って言いたいところだけど、ここは神社だからさ。後でのお楽しみがなくなっちまうだろう」
嘘をつくのと同じくらいウインクをするのは苦手だ。だけど僕は素敵な発見をした。ぎこちなく片側の目を閉じた視界に映った真美。その笑顔は何倍にも輝いてみえるということに……!!
「両手がふさがっていて本当に残念だな。この笑顔をカメラに残せないなんてさ……」
「……えっ!? 陽一お兄ちゃん。なんて言ったの、聞こえなかったよ……」
「何でもないよ。ただのひとり言だから気にすんな……」
今回だけは絶対に色褪せない自信がある。僕は記憶という名のカメラに彼女の最高の笑顔を焼き付けたから。
背後にそびえる
これが幼い真美を写す最後の
次回に続く。
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