大人になったら必ず私を迎えにきてほしい……。
「……よ、陽一お兄ちゃんっ!! 私の声が聞こえていたら返事をして!! あの学芸会の日、何も知らないで舞台の上に立っていた私を、卑怯な罠から救い出してくれたことは本当に感謝しているよ。そして家庭や学校で自分の境遇に深く悩んでいた真美の背中を思いっきり押してくれた……。だから勇気を持って新しい世界に、その一歩を踏み出せたんだよ。お兄ちゃんっ!! お願いだから目を開けて」
必死に呼びかける彼女の声で現実に呼び戻された。僕は記憶の洪水で満たされた足のつかないプールから溺れずに、真美の隣りへ帰って来れたみたいだ。
耳に入った水がいつまでも抜けないような不快感で、頭の奥が痺れるように痛い。
先ほどまでトンネルの虚空に映し出されていた過去の記憶。その映像のすべてがいつのまにか消え去っていた。
「……何なんだ、今まで僕の目の前に流れていたあの映像は!? 実際に経験したことのない場面まで映っていたぞ」
「お兄ちゃん、無理をしないで。記憶の封印を解くことは身体にすごい負担がかかるから。私も最初はそうだったよ。頭が割れるように痛くなるの……」
彼女はシートの上でつないだ右手はそのままにして、反対側の手で僕の額に優しく手をかざしてくれた。冷たい手のひらの感触が心地よく感じられた。すうっと頭の痛みが引いていく。
「……痛みが消えた!? 真美、僕に何をしたんだ」
「特別なことはしていないよ。手あてしただけ……。もともと陽一お兄ちゃんの持っているモノを本来の場所に戻してあげたの」
真美は出来が悪い弟に噛んで含めるような口調で説明してくれた。少し
「いまいち分からないけど、ありがとうな。だけどまるでお姉さんみたいな口ぶりだ な。これじゃあどっちが年上かわからないよ。見た目は幼いけど、じつはお姉さんな真美がお前の中には入っていたりして……」
「うん!! もちろんだよ。大人の真美ちゃんは私のなかにいたんだ。陽一お兄ちゃんや日葵ちゃんと知り合う前からの仲のいいお友達。いまは離ればなれになっちゃっているけど……」
大人の真美ちゃん、って!?
僕はいつもの軽口のつもりだったが、彼女から返ってきた答えに強い違和感を覚えた。自分の名前に普通は、ちゃん付けをしないだろう。そして以前にも真美と似たような会話を交わしていたことを思い出した。大人に成長した彼女と海沿いの黒い洋館で暮らした日々。その夢のあとで、幼い真美は僕にはっきりと言っていたじゃないか!!
『これは大人の真美が見ている夢のなかのセカイなの……』
文字通り真美の手当てにより鮮明になった頭で、僕はこれまでに起きた不可思議な出来事を追想した。
あの夏の日に消えた幼馴染の少女が、成人した僕の前に小学生のころと変わらぬ姿で現れた県営住宅。夏の魔物が見せた幻影だと最初は自分の頭を疑った。だけど幻でも幽霊でもなく彼女は
そして真美は僕の質問にはまだ答えていない。最大の疑問に。なぜ今ごろになって彼女は幼い姿のままで僕の前に現れたのか……!?
『本当のことをいったら陽一お兄ちゃんはわたしのことを嫌いになっちゃうから……』
あの県営住宅で聞いた真美の言葉が頭をよぎった。
先ほど、この不可思議な空間で彼女は僕を問いただした。お兄ちゃんは私の質問に答えていない。いつまでも先延ばしにして答えをはぐらかさないで欲しいと。
今度は僕が勇気を出して答えを聞く番だろう……。
「陽一お兄ちゃん、怖い顔をしてどうしたの。まだ頭が痛む?」
トレーシーの赤いシートの上でつないでいた彼女の手から、僕はやっとの思いで左手をほどいた。真美のとまどいが細い指先から伝わってくる。
「……陽一お兄ちゃん!?」
「真美、これからお前を傷つける質問をする僕をどうか許して欲しい。あの女神像のある展望台で、妹の日葵から本当の真美ちゃんのことをお兄ちゃんは分かっていないと激しく叱責されたことは覚えているよな。幼い真美の幻が見えているのは自分だけだと。そう日葵から指摘されたと僕は大きな誤解をしてしまった……。だけど本当は違っていた。お前の姿は大人の女性として日葵からもちゃんと見えていた。そして僕が撮影した記念写真にも同じく成長した大人の姿で確実に写っていた。ここでも早合点をして僕に見えている真美だけが幼い姿に見えると勝手な解釈してしまった。だけど本当は違うんじゃないのか……」
「まだ答えたくないよ、陽一お兄ちゃん。お願いだからこのトンネルを出るまでは……」
「真美、この暗くて長いトンネルのように深い闇がお前のなかに存在しているとしたら、僕にだけは真実を教えて欲しい!!」
彼女はしばらく黙ったままだった。そして何か言葉を口にしかけたが、またすぐにその唇の動きは止まってしまう。真美の強い葛藤が感じられて僕は急速に胸が締め付けられた……。
シートの上で完全にさし向かいになった僕たちを乗せたトレーシーは、音もなく空虚な空間を疾走していく。長年バイクに乗っているがジャケットの背中に風を受ける感覚は初めての経験だった。
「本当のことを話すまえに、ひとつだけ私のお願いを聞いてくれないかな。これは大人の真美ちゃんが陽一お兄ちゃんと一緒にかなえたかった夢なの。もうすぐその場所に到着するから……」
彼女がその言葉を口にした途端、トレーシーがトンネルの中で停止した。暗闇の先を照らす長く伸びた白いヘッドライトの光が、巨大な何かを僕たちの目の前に浮かび上がらせた。
もう一人の真美が、僕と一緒にかなえたかった夢って一体何なんだ……。
次回に続く。
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