指切った。その後の言葉、お兄ちゃんは知ってる?
「
彼女の言葉に込められた厳しさに思わず僕は絶句してしまった。
トンネル内の残響音をあんなに面白がって、先ほどまで屈託のない笑顔を浮かべていた少女の姿は影を潜めていた……。
「私が辱めなんて言葉を使うのは大げさ過ぎるなんて思う? 私は大げさとは思わないよ。たかがスカートめくり、思春期の男の子ならみんなが通る道で単なる悪ふざけじゃないか? クラスの男の子たちからしつこく被害にあって、やっとの思いで相談にいった職員室で、そんなひどい言葉を男の先生から浴びせられたクラスの女の子もいたの……」
彼女の厳しい問いかけに僕は黙ったまま、首をゆっくりと左右に振った。最新の
「陽一お兄ちゃんを責めているんじゃないの。女の子にとって悪ふざけなんて言葉じゃ済まされない最低の行為なんだよ。あのころ男子の間で流行っていたスカートめくりって、それをわかって欲しいだけ……」
――僕は彼女に言えない秘密を隠していた。
二人っきりの聖地巡礼の旅。最初に立ち寄った複合施設で経験した初めての
年一回の恒例行事として行われていた小学校の学芸会。その場所に真美は大人になった僕をなぜ連れていったのか? そのときはまったく意味がわからなかった。
僕の頭の壊れかけの映写機に記憶のフィルムが
当時、小学五年生だった僕は学芸会の出し物でやる学年別の演劇、ロミオとジュリエットの主役に抜擢された。クラスの女子たちが中心になって決めたメロドラマの主役選びはとても難航した。内容に不平不満を持つ男子たちからなかば押し付けられるようにロミオ役が多数決で僕に決まってしまう。決してクラスの人気者とかの理由ではない。むしろその正反対だったんだ……。
「……学芸会の発表順は陽一お兄ちゃんのいる五年生が一番最後だったよね。自分たちの準備で一学年下の私たちを応援する余裕はなかったはずなのに。なぜあの舞台袖にお兄ちゃんは立っていることができたの?」
「真美、それは……」
突然、無音だったはずのトンネル内に短い
視界に捉えることが出来ない透明な壁に反響して耳障りな音が辺りにこだました。
この調子外れな曲には聞き覚えがある!? 小学校の運動会や学芸会で毎度おなじみの効果音だ。この曲に合わせて各クラスの担任が学芸会の出し物をアナウンスするんだ。
『四年三組、クラス演劇、童話の青い鳥です……』
『おとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、いっしょうけんめい、れんしゅうしました!! ぼくたち、わたしたち、みんなのがんばるすがたをおうえんしてください!!』
なんだこれは……!? クラス全員で読み上げる学芸会のお約束の言葉じゃないか!! なんでこれがトンネル内で再生されているんだ。それに四年三組って……。
「……四年三組、真美と日葵のいたクラスじゃないのか!?」
「そうだよ、私たちのクラス、学芸会の出し物は同じく演劇の青い鳥。ひまわりちゃんは妹のミチル役だったよね。よく似合っていて可愛かったな……」
僕がロミオ役を押し付けられたのとは逆に、活発な妹はクラスの多数決で満場一致で主役を射止めていたんだ。そして真美の役柄は……。
「お前は光の精の役だったよな、白いケープみたいな衣装もよく似合っていたぜ」
「この衣装のこと?」
真美は器用なしぐさで、ぱちんと指を鳴らしてみせた。
その音をきっかけにして、トンネル左右の壁に映像が写し出される。子煩悩な親が学芸会で撮影した動画のようにも見える。安定しないアングルで舞台上の白い衣装を着た女の子をカメラの画角に映し出した。
「この映像の女の子は真美……!?」
「そうだよ、あの日の学芸会の映像。だけど誰かが撮影したものじゃない。陽一お兄ちゃんの記憶をそのまま投影しているんだ。いわばこの
真美はすべてを知っているような口ぶりで解説してくれた。彼女とこれまで行動をともにして、すでに常識のタガが外れてしまった僕はもう驚いたりはしない。
「お前は何でもお見通しのようだな……」
「前にも話したよね、何でも知っている訳じゃないよ。真美が見た範囲だけしか分からない。それに直接、記憶に手を出すことが出来ないの。ここまで陽一お兄ちゃんを導くのが精一杯……」
彼女は桜色の唇の端に笑みを浮かべた。片方だけのえくぼ。その微妙な笑顔の意味を知りたくなって、僕はトレーシーのハンドルから完全に手を離しシートの上で横座りの状態になる。トレーシーの分厚いシートはまるで座りごこちの良い長椅子のように感じられた。真美も僕の真似をしてシートに腰掛けてきた。ヘルメットのシールドを持ち上げてしばしの間、お互いの顔を見つめあった。彼女はまっすぐにこちらを見据えてくれる。その大きな瞳に吸い込まれてしまいそうだ……。
「……何だかトレーシーちゃんのシートって赤いソファーみたい。ふかふかして気持ちがいいね。これだけ長く二人乗りをしていても全然おしりが痛くならないから」
「そうだな、大切なお前を乗せるのに最適な一台かもしれない。気に入ってくれてトレーシーもきっと喜んでいるよ」
「トレーシーちゃんもここまで、すっごく頑張ってくれたもんね!! 真美がナデナデして褒めてあげる……」
真美はそう言いながら右手の人差し指を使って、トレーシーの赤いシートの表面を愛おしそうに撫でる。シートの上で彼女の指先が何かの図形を描いていることに僕は気がついてしまった。円形でも四角でもないそのカタチ。何往復も繰り返す細い指先の描く図形。
「ハートマーク……」
僕の言葉にピタリと止まる彼女の指先。
「陽一お兄ちゃんはやっぱり大人になったんだね。真美が初めての映画館デートで、このサインを送ったときは全然気が付いてくれなかったのに……」
いつもの困ったような笑顔を彼女は僕に見せてくれた。真美はスカートめくりの件で怒っているとばかり思っていた。トレーシーの長いシートは初デートの映画館で並んで座った椅子を
真美のクラスの演目だった青い鳥の映像、その隣の空間に新たに別の映像が再生されはじめた。少年少女の明るい笑い声に、ボーイソプラノのコーラス曲が重なった……。
『『君に捧げる小さな恋の旋律!!』』
思わずあの映画のタイトルが同時に口を突く。その拍子にシートの上でお互いの指先が触れ、僕たちは固く手を握り合った。
「……やっと陽一お兄ちゃんに届いたよ、私からのハートマーク。何年お預けだったのかな?」
トレーシーの赤いシートより真っ赤に染まった彼女の頬。まちがいなく血の通った本物の僕の大好きな幼馴染だ。
だけど真美の指先は驚くほど冷たかった。最初はトンネル内の冷気で冷えたのかと思った、違うな、僕はそう思い込みたかったのかもしれない。彼女が存在を許される時間の終わりがあることを信じたくなかったから……。
「真美、遅いかもしれないけど質問の答えを話すよ。いままで内緒にして本当にごめんな。あの学芸会で、なぜ僕が真美の身に起こることを事前に分かっていたのか」
「……陽一お兄ちゃん、ありがとう、その言葉が聞けただけでも嬉しいよ。だから何を聞いても私は大丈夫だから」
強く真美の右手を握りしめた、少しでも僕の体温で彼女を温めてあげたかったから。そう願った瞬間、トンネル内に写し出された映像が目まぐるしく切り替わり始めた。それは目がくらむほどの記憶の洪水だった。断片的に流れ込む映像の中には僕が見たものではない映像も含まれていた。
『陽一のやつ、最近調子に乗ってるから、みんなで懲らしめてやろうぜ!! 少しぐらい勉強が出来るからって生意気だし、女とばかり遊んでいるのも気に入らねえ。この間も体育の短距離走で俺様に歯向かってきやがってさ。そうだ!! あいつが仲良くしてる幼馴染の二宮真美って、
映像の中で
「この話を取り巻き以外の男子から忠告されて僕は汚い計画の全貌を知った。真美のクラスで予定していた青い鳥の上演中に、衣装に仕掛けをして全校生徒の前で当時流行っていたスカートめくり以上のひどい目にあわせてやるって……」
「……陽一お兄ちゃんがクラスでそんな苦しい立場だったなんて真美、全然知らなかったよ。でも不思議ね、劇の衣装を担当していたのは同じ四年生のクラスの女の子だったはずだけど、なんで光の精の衣装にそんな細工ができたのかな?」
「真美、お前は忘れているぞ。衣装係は誰が担当だった?」
「あっ、裕美ちゃんだ!?」
妹の日葵ではなく、真美があいつらのターゲットにされた
「雄一の妹はお前のことを最初から逆恨みしていたんだ。四年生の同じクラスで自分の好きな男の子が、真美に好意を抱いていたことを知ってな。当時流行っていたプロフ帳に好きな相手の名前を書く欄もあったから……」
「そんなことがあったなんて初耳……!? でも私は裕美ちゃんから直接、嫌がらせを受けた覚えはないよ。確かに学芸会の係を決めるホームルームで、いつもは主役にみずから進んで立候補するのに、衣装作りの裏方に彼女が手を上げたのは不思議に思ったけど」
「それは日葵から言うなって釘を刺されていたけど、あいつが裏で裕美をけん制して動きを押さえていたそうだ。だけど相手が恋の嫉妬に狂ってからは手がつけられなくなって……」
これ以上話したら絶対に真美を傷つける、彼女は僕と違って大人になっていないから。小学生の考える悪戯にしては、学芸会であいつらが考えた計画は、さすがに度を越しているが惚れた腫れたでの嫉妬は誰にでも経験があるだろう。でもそれ以上に真美がクラスの女子たちから
「……なかよきの読者モデルの件なら知っているよ。そしてひまわりちゃんが私をクラスの女の子たちの中傷から一生懸命にかばってくれていたことも」
僕が口ごもっていた
あの海沿いの道の駅からコンビニまで歩く道すがら、真美が何気なく言った言葉が思い出された。
『あっ、それは知ってるよ。日葵ちゃんは少女漫画が大好きだったよね!! 私もよくまわし読みさせてもらったから。漫画も面白かったけど、クラスの女子の間で盛り上がっていたのは読者モデルのコーナーで、写真の投稿で全国から選ばれた読者の女の子の中でたった一人が、人気漫画家の先生に全身入りの似顔絵を描いてプレゼントしてもらえたんだよね!!』
なぜ真美が読者モデルの件を日葵に言わないでほしいと哀願してきた理由。それは僕の知らなかった交換日記のやり取りを読んで初めて知った事実だった。真美は日葵のことをとても心配していたんだ。自分をこれ以上かばっているとその矛先が日葵本人に向いてしまうことをとても恐れていた。そして間の悪いことに真美は少女漫画雑誌で全国でたった一人の読者モデルに選ばれていたんだ。
クラスの女子の間で盛り上がっていた読者モデルに選ばれた真美。日葵のように祝福してくれる友達ばかりではない。大人の世界でもそうだが嫉妬は人を狂わせる。子供の世界では特にそれが顕著だ。それは決して恋愛沙汰に限った話ではなく、人も羨むような美少女アイドルが学生時代に激しいいじめにあっていたと、後で告白するケースは特に珍しいことではない。
日葵から送られてきた交換日記のやり取りの記述と、僕たち二人が家出をした時期がちょうど合致する。真美は僕にむりやり誘われたからではなく進んで家出をしたかったんじゃないのか? 家庭での悩みだけでなく自分が学校から姿を消すことで日葵に被害が及ぶことを防ぐ目的もあったと考えるのが妥当だろう。
「真美、だからお前は読者モデルの件を、絶対に日葵に話すなって僕に言ったんだな」
「ふふっ、陽一お兄ちゃんこそ真美のことを全部お見通しだね。それだけの理由で家出したわけじゃないけど、あの学芸会の壇上から私を連れ出してくれて本当に嬉しかったよ……」
その言葉をきっかけにまたトンネル内に大きな変化が起こった。
僕と真美、小学生時代のさまざまな映像が、まるで古い写真の入ったブリキ缶をひっくり返したようにトンネル内の見えざる壁に
『まみっ、 もう踊るのをやめろっ!! その衣装は罠なんだ!! 途中で破けるように細工がされているから裸同然になっちまうぞ!!』
『陽一お兄ちゃん!? 何でロミオの格好で舞台に出てくるの!! まだ五年生の出番じゃないよ。それに私はジュリエットじゃなくて光の精だし……』
『いいから、僕の手につかまれ。この場所から逃げ出すぞ。もたもたするなっ!!』
あっけにとられる彼女に、僕は派手なラメの入ったロミオの上着を着せて、細工された衣装がはだけないようにする。そして舞台の壇上から光の精を連れ出した。それまで静かに劇を見守っていた全校生徒や父兄の観客席は、舞台で繰り広げられる突然の逃走劇に騒然となっていた。必死で僕を止めようとする先生や生徒の列をかき分けて舞台袖の階段を勢いよく駆け下りる。こんな学芸会は前代未聞だろう。ロミオの格好をした僕が選んだ相手は白いケープをまとった光の精の真美だったから……。
『真美っ!! このままお互いの家にいって着替えをするぞ。それが済んだら子猫を連れて約束の逃避行に出発だ』
『えええっ!? 陽一お兄ちゃんっ!! このまま出発って本気なの……』
『本気もなにも最初からそのつもりさ。あれだけのことをしでかしたんだ。おめおめと家には帰れないだろう? 僕はあえて退路を
この当時はお祖母ちゃんから聞いた受け売りの言葉が、かっこいいと勘違いしていたんだ。いま思うとかなり痛いな、僕は……。
体育館を飛び出した僕たちの背中に夏の暑い日差しが降り注いだ。いつもの川沿
いの通学路が何倍にも広がって見える。心地よい風が汗をかいた首筋を通り抜け、隣で息をはずませた彼女の長い髪を揺らす。あの柿の木が見守る川面には太陽のオレンジ色が、吹き抜ける風とともに、その深い蒼色にゆらゆらとした波紋を刻み込んでいった……。
この映像の瞬間から僕たちの逃避行は始まっていた。
次回に続く
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