君が笑わなかった理由。
「真美、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど……」
「なあに、陽一お兄ちゃん……」
「いや、やっぱり
「自分で言っておいて勝手に納得して、う〜っ、真美はすっごく気になるよぉ!! お兄ちゃんったらずるい、最後まで話してちょうだい!!」
偶然、僕たちが立ち寄った道の駅は海沿いの国道に面しており、二十四時間の利用が可能な施設で、土曜日の夜だからか広めの駐車場はすでに満車だった。
僕と真美は少しだけ離れた第二駐車場にトレーシーを停めた。路肩に路上駐車された車の列を避けながら、その
僕はしっかりと彼女の右手を握って離れないようにする。脇の国道を行き交う車もかなり混雑気味だが、ときおり渋滞した車の間を勢いよくすり抜けしてくるバイクや自転車がいて、かなり危ないので、僕の左側を真美に歩いてもらうように充分配慮した。
「それに真美は、陽一お兄ちゃんのワンちゃんじゃないんだから。私の手をぐいぐいひっぱって、まるで犬の散歩をしているみたいだよ……」
「ははっ、ワンちゃんか、そりゃあいいや。 ほら、まみーいぬちゃん、バイクにひかれないように注意して歩いてくださいね!!」
「……お兄ちゃんはずるいだけじゃない、意地悪だ。それにまみーいぬじゃなくてまみーぬだから!! わざと間違えているでしょ。ひまわりちゃんに絶対言い付けてやるんだからね。そしていっぱい怒ってもらわなきゃ!!」
「あっ、ごめん、ごめん!! いつもの癖で調子に乗りすぎたよ。勘弁してくれ……。なっ、真美、何でもお前の言うことを聞くからさ!!」
「ふーんだ。いまさらあやまっても真美はもう知りませんよ……!! んっ、何でも言うことを聞くっていったよね、陽一お兄ちゃん?」
つないだ左手の先。その懐かしい彼女の右手のやわらかな感触に僕は温もりと一緒に
真美が大好きなワンちゃんのたとえを持ち出してきたことに、また気持ちを見透かされてしまったのかと驚いた。
人は恋をすると幸せなホルモンが分泌されるのは科学的にも証明されている。
そしてそれはオキシトシンと呼ばれ、赤ちゃんや仔犬と触れ合ったり、見つめ合うときにも同じ物質が出るということを聞いたことがある。
いままで忘れていた恋をするという気持ち!! 手をつないでとなりを歩く彼女に対するときめくような想いが全身を駆けめぐって、僕は思わず舞い上がってしまった、そして妹の日葵に接するような態度で、いつもの軽口が出てしまったんだ……。
「……言ったよ。真美の言うことなら何だって聞いてやる!!
「陽一お兄ちゃん。そうやって安請け合いをする癖も相変わらずだね……。真美はひさしぶりにそのおバカな約束の合言葉を耳にしたよ」
「あれっ!? おまえ、ゆびきりげんまんの、指切った!! しないのかよ。それじゃあ僕との契約は成立しないぞ!!」
ハリセンボンにマンボン。それは小学生の僕たちのくだらない合言葉だった。
偶然にノリで言って妙にウケたフレーズをえんえんと繰り返す。
それは仲間内の誰かのあだ名になったり、合言葉になったりするんだ。
一過性のはしかみたいな物で、流行が終わったら誰も使わなくなる場合が多い。
「……うーん、どうしよっかな?」
「なんで、お前はそこで悩むんだよ」
「ねえ、陽一お兄ちゃん、ゆびきりげんまんには、指切った!! のあとに続きがあったって知ってる?」
「……そこで約束が成立するんじゃないのかよ!?」
「ううん、そこからまだ言葉が続くの……」
「なんだよ、もったいつけないで僕にも教えてくれよ、また仕返しなのか」
僕は真美がふざけて楽しんでいると思ったんだ……。
「……でも怖い言葉だから、真美、教えてあげない!!」
真美はそう言って、僕の手をそっと振りほどいた。
車道と歩道の間にある車止めの段差に、彼女はぴょんと身軽に飛び乗った。
その動作はまるでかわいい仔犬がとび跳ねているみたいだった……。
そしておどけたしぐさでゆっくりと両腕を水平に広げた。
彼女の水色のワンピースの肩口から、白く細い腕がことさらに際立って見えた。
パフスリープと呼ばれるふくらんだ袖のカタチだ。
僕は小学生のころ、真美がお気に入りで着ていた半袖のワンピースを、あのちょうちん袖の服、と言って妹の日葵から笑われたことを思い出した。
お兄ちゃん、ちょうちん袖なんて、そんな可愛くない呼びかたにしないで、とたしなめられた。
――ワンピース、女の子の可愛い服について。その名称を口に出すのが当時の僕にはとても恥ずかしく思えたんだ。
「……この段差に立ったら陽一お兄ちゃんのお顔がやっと近くに見えるよ。真美がこうやって工夫をしないといけないくらい、背丈がぐんぐんと伸びちゃったんだね」
平均台を歩く体操選手のように彼女は両手でうまくバランスを取り、そのまま僕の真横に並んだ。
歩道の段差の上に立った真美の顔がとても近くに感じる。僕との身長差を埋めることが出来たからだろうか、その表情はとてもうれしそうに見えた。
「成長したんだから僕が背が伸びたって当然だろう。小学生のころはお前もけっこう背が高いほうだったよな。たしか四年生のクラスでも女子の中で一番背が高くなかったか? 日葵が羨ましがっていたからよく覚えているぞ。真美ちゃんみたいにスタイルが、すらっとしていたら自分も少女漫画雑誌の読モに選ばれたかもしれないのに、って言ってたぞ……」
「あっ、それは知ってるよ。日葵ちゃんは少女漫画が大好きだったよね!! 私もよくまわし読みさせてもらったから。漫画も面白かったけど、クラスの女子の間で盛り上がっていたのは読者モデルのコーナーで、写真の投稿で全国から選ばれた読者の女の子の中でたった一人が、人気漫画家の先生に全身入りの似顔絵を描いてプレゼントしてもらえたんだよね!!」
真美や日葵のいた四年生の女子の間で、そこまで
たしか、そのぶあつい漫画雑誌のタイトルはなかよきだったかな?
そして、なかよきの最新号に送る写真を撮るために、家にあったアナログなフィルムカメラで日葵の写真を撮ってやるのが僕の毎月の役目だった。
そんな子供のころの経験が僕をカメラマンの道に進むきっかけを作ってくれたのかもしれない……。
あのレトロなフィルムカメラはまだ実家のどこかにあるんだろうか?
「……懐かしいな。そういえば私もお兄ちゃんの写真のモデルになったこともあるよね。日葵ちゃんを撮ってフイルムが余ったから、お前もついでに撮影してやるよって言ってくれたね。あの神社でもみんなで撮影会をしたよね。あっ、そうだ。陽一お兄ちゃん、日葵ちゃんがこの場所に到着したときに、いまの読者モデルの話はしないでね」
「……何でだよ。日葵もお前に会えたらきっと喜ぶから、ゆっくり二人で昔話でもすればいいじゃないかよ。それに少女漫画の読者モデルの件を話すなって意味が分かんないな」
「どうしてもなの……。 お願いだからね。私と約束して」
「そんなことで、ゆびきりげんまんの約束を使っちまうのかよ。僕はそのほうが楽でいいから構わないけどな……」
「……陽一お兄ちゃんこそ、大事なことを忘れているんじゃない。真美の特例な五回ルールの存在を。私だけにお兄ちゃんが発行してくれたよ。何でもお願いを聞く回数券、五枚まで有効だって、まだ一枚しか使ってなかったはずなんだけど!!」
「……何でもお願いを聞く回数券だって、そんな物を僕が約束したのか!?」
「うん、陽一お兄ちゃんは、あの白い橋の上で真美と約束を交わしてくれたよ!!
女の子にむかってひどい言葉をいったお詫びに、僕は何でもするって……」
僕の家の近くにある白い橋の上で!? 真美に僕がそんな約束を交わしたなんて、
全然覚えていないぞ……。
「これでも思い出さないかな……。 もうお兄ちゃんと口を聞かない!! ぶうっ!!」
今まで嬉しそうな笑顔を浮かべていたのに、急に両方の頬を膨らませて水色のワンピースの胸の前で腕組みをし始めた。ふくれっ面にこのポーズは!? 僕はあの日の記憶を思い出した。
*******
『ごめん、悪かった。学芸会の劇の練習とはいえ、ロミオとジュリエットの相手役の女の子と僕が仲良くしていたように真美には見えたかもしれない。それはあくまでもお芝居の中でだけだ!! でもお前の気持ちも考えずに、つい軽口でフグみたいなんていってしまったことは本当に謝る!! 何とか勘弁してくれないか……』
僕は地面で膝が汚れるのも構わず、白い橋の上でほぼ土下座の格好になった。
『ええっ!? 陽一お兄ちゃん、こんなところでひざをついたら駄目だよ。顔を上げて!! お洋服が汚れると洗濯をする日葵ちゃんから、すっごく怒られちゃうから!!』
『だって僕は真美のことを……。よりによってフグみたいなんて、せめてお猿さんとかに例えるべきだった。土下座でもたりないくらいだ。真美の言うことなら何でもやるから!!』
『お猿さんは可愛いからいいけど、真美、動物がほっぺたを膨らませているなら、ウサギさんやリスさんのほうがもっと嬉しいかも……』
彼女に謝りたかったのは心の底から出た本心だったが、いつもの悪い癖で余計なことまで言ってしまった……。
『本当に真美のお願い、何でもかなえてくれるの?』
えっ、彼女はあっさりと聞き入れるんだ!? ここは暗黙の了解、やり取りの茶番劇で僕の申し入れを一度断るのがコントのお約束だぞ。意外な展開に焦りの色が隠せなくなる。
『あ、ああ、何でもお願いを聞く回数券、
『陽一お兄ちゃん、本当に!! 何回ぶん、有効なのかなぁ?』
飛び切りの笑顔で無邪気に喜ぶ彼女の姿を見て、僕は思わず相好を崩してしまった。
『そんなの何回でもイイよ!! 真美の頼みならハリセンボンでもマンボンでも!!』
……僕の悪い癖が出た。何でも安請け合いして後で大変な思いをすることになる。
そんな態度を妹の日葵からもしょっちゅう怒られているんだ。
(陽一お兄ちゃんは安請け合いの王様だから……。自分で自分の首を絞めてるんだよ。いつか人生で取り返しの付かない大失敗しても日葵は知らないよ!!)って、
今回も何だか胸騒ぎがするぞ。
『う~ん、回数が無制限じゃ、陽一お兄ちゃんにも悪いし、そうだな、きりのいい数字で五回分でいいかな!!』
『わかった、約束するよ。真美のお願い五回分。何でもお願いを聞く回数券、大滝銀行のATMにて発行完了。チーン、ガチャ、ガチャ!!』
おどけてみせるおバカな僕にむかって、彼女が屈託のない笑顔を見せてくれた。
『ぷっ、あははっ、陽一お兄ちゃん、じゃあ、さっそく一枚目を使用するね!!』
真美の最初のお願いはいったい何なんだろう?
『陽一お兄ちゃん、お願いをする前に恥ずかしいけど告白するね。真美が何でお兄ちゃんとおしゃべりしないのか、かなり勘違いしているみたいだから……』
『えっ、僕が劇で相手役の女の子と仲良くしていたのが、気にいらなかったんじゃないのか? それで怒った真美のことをフグみたいなんて茶化したから、一週間も口を聞いてくれないんじゃないのかと僕はてっきり……』
『……それは陽一お兄ちゃんが勝手に思い込んでいただけだよ。本当に真美が嫉妬して怒っていたら最初から一緒に登下校なんてしないから。日葵ちゃんには真相を話していたんだけど……。そうか、お兄ちゃんには言わないでいてくれたんだね。真相はこれを口の中に装着していたからお話しが出来なかったの』
真美が手提げバッグのケースから取り出して、僕の前に差し出したのは透明なゴムで出来た歯型のような物体だった。
『……真美、それは何!?』
『歯の矯正用のマウスピースなの。ほら、私って八重歯があるでしょ、これってそのままにしていると虫歯や歯並びが悪くなる原因になるんだって。 だからこうやってね』
彼女は口を開けて自分の前歯に透明なマウスピースを装着してみせたんだ。
『最初の日はすごく違和感があって、口の中がとても嫌な感覚だったの。だから頬を膨らませたりしていたのを、お兄ちゃんに怒っていると勘違いさせちゃったみたい……』
真美が口を尖らせて見せた。その顔を僕は怒っているものだと早合点してしまったんだ。
『じゃあ、一週間、僕と口を聞かなかったのは、怒っていたからじゃないのか!!』
『……うん、歯並びがきれいになるとはいえ、このマウスピースを装着しているお口でおしゃべりして、お兄ちゃんに可愛くない私を見せたくなかったの』
『じゃあ、何で今日からは大丈夫なんだよ?』
『最初の一週間よりマウスピースが目立たない材質の物に変わったから、これなら、大好きなお兄ちゃんと我慢していたおしゃべりが出来るって嬉しかった。真美ね、歯医者さんにも無理を言ってお手紙まで書いてお願いしたんだよ!!』
真美が僕にその手紙を見せてくれた。
その内容を見て僕は安易に土下座をした自分の軽率な行動を深く恥じ入ってしまった。
(歯医者さんの先生へ、私にはどうしても毎日おしゃべりがしたい男の子がいます。その人と一日おしゃべりが出来ないだけで、私の心は深い湖のような
『とっても優しい先生でね、この手紙はその男の子に読ませてあげなさいって、それが真美を助けてあげる条件だから。そう言ってくれたの……』
『真美、お前は僕との会話をそこまで楽しみにしてくれていたのか……』
『私、お兄ちゃんにぜんぶ告白しちゃったね。かなり恥ずかしすぎるかも……。 ふうっ!! じゃあ、こうなったら恥ずかしいついでに最初のお願いをするね!!』
彼女が照れながら口にしたお願いとは……!?
『……陽一お兄ちゃんと一週間も話せなかったからおしゃべりしたいことがいっぱいあるの。この白い橋からスタートして私の家まで、いつもより遠回りして帰ってもらってもいいですか?』
彼女は小首を
一週間ぶりにみた真美の笑顔は格別の輝きを放ってみえた。
『陽一お兄ちゃん、これが真美の一回目のお願いだよ……』
『……真美』
『ねえ、私のお願い、かなえてくれますか?』
初めてのデートで僕と観た、あの映画のヒロインと同じセリフを彼女は口にした。
真美、君なら歯の治療でさえも可愛く思えてしまうよ。
もし彼女を見ておかしいとか笑うやつがいたら、僕は絶対にそいつを許さない……。
次回に続く。
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