もう私のことを悲しまないで。

「――真美の新しい事実だって!? 日葵ひまり、今頃になって何をおかしなこと言ってるんだ」


「陽一お兄ちゃん、私の話をちゃんと聞いて!!

 いつものように途中で話をさえぎらないで!! お願い……」


「僕が話を遮るって!? お兄ちゃんはいつもお前の話を聞く役まわりじゃないか。子供の頃も、そして大人になった今でも。僕が親父に反発して家を飛び出した後も、日葵とだけは電話で近況を報告しあっていたことを忘れたのか!!」


「そうね、いつもお兄ちゃんは私の良き理解者だった……。

 日葵が困ったことがあると中学生の頃から何でも相談したし、学校でも学年の教室が違う以外はいつも一緒にいてくれたよね。 『日葵ってさあ、兄妹でそこまでベッタリってありえなくない?』 そんな言葉で同級生の女の子たちからお兄ちゃんとの仲を冷やかされるくらいに……」


 電話越しの妹の声は、いつもの冷静さを失っていた。

 僕たちの母親は妹の日葵が保育園に入る前に亡くなった。

 その後、家事全般を仕切ってくれていたお祖母ちゃんも他界して、日葵があとを引き継ぐカタチになった。ある意味、妹が僕の母親がわりでもあったんだ。

 もともと家事が大好きだし、花嫁修業がタダで習得出来るなら、私は得しちゃったのかもね!! そういって日葵は僕の前で嫌な顔一つも見せなかった。

 母親のいない空白を埋めるように僕たち兄妹は何でも話せる間柄あいだがらだった。

 そんな日葵が、僕のせいで同級生から冷やかされていた!? 

 寝耳に水とは、まさにこのことだ。


「……日葵、お前は僕のせいで、中学時代にそんな目にあっていたのか?」


「今はそんな話はどうでもいいよ!! お兄ちゃんは私の話をいつも親身になって聞いてくれた。 それにはとても感謝しているよ、亡くなったお祖母ちゃんの言いつけを守っていたんでしょ。 郵便局の叔父さんみたいに立派な人にようちゃんはなりなさいって。本当にお前は叔父さんにそっくりだから。そうお祖母ちゃんから言われたときのお兄ちゃんは本当に嬉しそうだった……」


「……僕が郵便局の叔父さんみたいに!?」


「そんなふうに誰にでも親切な陽一お兄ちゃんが、子供のころから日葵の自慢だった……。だけど、を起こしてから、お兄ちゃんはある一点だけは、まるで別人みたいに変わってしまった。がまるで最初から存在しなかったように頑なな態度を取って、その名前を日葵が口にするだけでいつも話を遮った。 誰よりもお兄ちゃんのことを心配しているのに、話を聞いてもらえない私の気持ちなんて絶対にわからないくせに!!」


 今まで妹の日葵が胸の奥に押し殺していた想い。一気にダムが決壊するように言葉の濁流だくりゅうが激しく僕を飲み込んだ。

 ただ僕はその感情に身を任せるしかなかった。それが罪滅ぼしにならないとわかっていても、身じろぎせず受け止めるのが妹へのせめてもの礼儀に思えた。


「その子の名前を口にするのが、私だって身を切るほどつらいのに!! 苦しんでいるのは陽一お兄ちゃんだけじゃない!! 日葵だってもう一度、会いたいよ……」


『……真美がいなくなったせいで、いっぱい悲しませてごめんね』


「えっ!? なんで陽一お兄ちゃん以外の声が電話から聞こえるの……」


 突然、真美が通話に割り込んできた!? 


 しまった!! インカムへの着信通話設定を僕の単独回線にしておかなかった。

 真美にこれまでの通話内容をすべて聞かれてしまった……。


「この女の子の声は……!? お兄ちゃん!! いったい何の冗談なの!! 日葵が真剣に話しているのに。陽一お兄ちゃんの悪ふざけも空気を読んでから仕掛けてよ!! どんなトリックか知らないけど、真美ちゃんに似た声をわざわざ用意するなんて、吐き気がするほど気持ち悪いんだけど……」


「日葵、悪ふざけなんかしていない、だって僕と一緒にいるのは……」


「……まだそんなことを。一緒にトレーシーでツーリングに出掛けたのは真美ちゃんだって言いたいの。だったら新しい事実を教えてあげるから!!」


 今回は僕が話を遮られる番だった……。

 日葵が怒りで我を忘れているのが、声だけで分かるほどの激しい剣幕だ。


「お前は僕を信じて送り出してくれたんじゃないか!? だって作ってくれたお弁当の中身は全部、真美の大好物だったから。そして……」


 そして群青の蒼について僕に警告をしたじゃないか!! その言葉が喉まで出掛かったが、慌てて続きを飲み込んだ。

 日葵が言ったんじゃない、誰かに取り憑かれて言わされたに違いない。


「それは……。 たしかに全部真美ちゃんの好きな物ばかりお弁当に入れたよ。陽一お兄ちゃんはを精算するために、この街に戻ってきたんだと日葵は思ったの。一人で真美ちゃんの思い出の場所をトレーシーで巡って、その場所にお弁当をお供えして欲しかった……」


「僕だって最初は信じられなかったんだ!! 真美の住んでいた県営住宅に行くなんてただの気まぐれだった。そこで僕は彼女に出会ってしまったんだ……。あの夏の日に消えた小学四年生の姿のままの真美に……!!」


「……陽一お兄ちゃんの気持ちはよくわかるけど、これから日葵の話すことが悲しいけど現実なの。あの口の悪い近所のおばさんのことは覚えている?」


 あれほど激昂していた妹が、急に子供をあやすような穏やかな口調に変わった。

 口が悪いおばさん!? 真美の住む県営住宅の住人と関わりを持つなとか。両親の離婚の原因を吹聴していた、あのおしゃべりおばさんが何だって言うんだ。


「あのおしゃべりおばさんだろう。もちろん覚えているよ……」


 通話を聞いている真美を傷付けないように言葉を選ぶ。

 彼女は先程、言葉を一言だけ発した以外は黙り込んだままだ。

 まるで最初から存在しないように……。


「造園の仕事でお父さんが、偶然、あのおばさんの家の工事をしたんだって。そこで真美ちゃんについて最新の話を聞いてきたの。 ごめんね、お兄ちゃん。県営住宅で彼女と再会したって話をしてくれたけど残念ながらそれはありえないの……」


「なにがありえないって言うんだ!! 僕はあの県営住宅の真美が住んでいた部屋の前で間違いなく彼女と会ったんだぞ……!!」


 自然と口調が激しくなってしまう、胸に湧き上がる名前ラベルのつけられない怒りを抑えきれない。


「そのおばさんが言っていたそうよ。県営住宅にはもう真美ちゃんの家族は誰も住んでいないって。あれだけの有名な事件の当事者になった関係もあって、いわれのないうわさが原因なのかわからないけど、かなり以前に引っ越したらしいの……」


 ぎゅっ!!


 僕の腰にまわした真美の腕に力が込められた。日葵の言うことが事実だとしたら、じゃあ僕の背中に温もりを与え続けてくれるこの少女はいったい何者なんだ!?


「……」


「……私もつらいけど、逃げちゃ駄目!! しっかり最後まで話を聞いて!! お兄ちゃんと真美ちゃんが小学生のころ、お互いの家で飼うのを反対された捨て猫を連れて、二人で家出した事件は小学生だった私もよく覚えているわ。行方不明のニュースで長く報道され続けたから。そして警察の大掛かりな捜索の結果、お兄ちゃんしか発見されなかった事件の結末も……。 発見されたお兄ちゃんの姿をひとめ見て私は心から嬉しかった。もう無理だと諦めていたから。最初は髪の毛が白髪まじりになった姿に驚いたけど大好きなお兄ちゃんが生きていてくれた!! だけどそんなふうに喜んでしまう自分が許せなかった。お友達の真美ちゃんが見つかっていないのに本当にひどい女の子だよね……。 だから罰を受けなければいけないのは日葵も同じだよ」


 僕が覚えているのも日葵が話してくれた部分だけだ。

 すっぽりと行方不明の間が記憶から抜け落ちている。僕と真美はあのお稲荷さんのある神社で子猫を一緒に育てる約束を交わしたが、お互いの家で猫を飼うことを反対されて二人でリュックに入る荷物だけで家を飛び出したんだ……。

 子猫も僕のシャツの襟元に入るほど小さかった、この小さな生命をどうしても守りたかった。子猫がざらざらした舌で、僕のあごを舐める感触は今でも覚えている。

 そして、真美と初めて手を握った近所の白い橋を起点スタートにして川の上流ゴールを目指してあてもない逃避行に出発したんだ。


 きっと僕はあの映画に感化されていたに違いない。

「君に捧げる小さな恋の旋律」だ。


 真美と初めてデートをした隣町の小さな映画館で観た古い恋愛映画だ。

 物語の舞台はイギリスの公立小学校。大人の常識を押し付けられ交際を禁じられた主人公とヒロインが結婚を宣言する。未成年の二人の驚くべき告白に当然、両親や教師たち大人は猛反対をするんだ。でも友人たちの協力もあり家出に成功する。

 トロッコに乗って恋の逃避行に出掛けるラストシーンに僕は感動した。

 隣の席に座る真美の手を、映画館では恥ずかしくて握れなかったことを鮮明に思い出した……。


 世界的に大ヒットしたあの映画の続編は制作されなかったそうだ。

 可憐なヒロイン役を演じた女優、トレーシーパーキンズに僕が夢中になったのも、どこか真美に面影が似ていたからだと、大人になった今なら理由わけが分かる。

 こんな恥ずかしいことを知られたくないから、僕は前回立ち寄った施設の駐車場で彼女が思い出した映画の話題を慌ててごまかしたんだ。

 そしてバイクのトレーシーに妙な愛着を感じるのも、憧れの女優さんと同じ名前だからだと僕は思い当たってしまったから……。


 あの名作映画の続きを自分で演じてみたかったのかもしれない。

 無理やり逃避行という名の家出に、彼女を連れ出したのはほかでもない僕だ。


「……だから陽一お兄ちゃん、もう充分だから帰ってきて!! 真美ちゃんはあの夏の日に行方不明になったままなんだよ。お兄ちゃんはこの街を出ていったから何も知らないだろうけど、交番やコンビニに貼られた真美ちゃんの情報提供を呼びかけるポスターも以前ほどは見かけなくなってしまったの。 悲しいけどこれが風化していく現実なんだよ。私だって真美ちゃんのことは忘れたくないけど、人は過去だけに生きているわけにはいかないから!!」


「……日葵、これから僕はどうしたらいいんだ?」


「陽一お兄ちゃん、もうこれ以上、過去から逃げないで、現実に生きてほしいの!! そうじゃないと私まで、この場所からいつまでも出ていくことが出来ないよ!!」


 日葵のすすり泣く声が僕のヘルメットの中を駆け巡った。

 僕の知らない妹の偽らざる想いを初めて耳にした。幼い頃、いつも僕の後ろを金魚のフンみたいにちょこまかとついてきて正直わずらわしかった。

 僕が同年代の男友達をあまり作らなかったのは、妹のせいも多分にある。

 僕も日葵には言えないが、妹とばかり遊んで女々しいやつと、同級生から陰口を叩かれていたのは知られたくなかった。

 だけどもう僕の後をついてくるなとは言えなかった。妹の悲しむ顔は見たくなかったからだ。


「一瞬でも醜い考えを思い浮かべてしまった日葵を、真美ちゃんはきっと許してくれないよ!! だから彼女があの頃のままの姿で、お兄ちゃんと一緒にいるなんて妄想だとしても考えたくない。お願いだから、これ以上私を苦しめないで……」


 泣きじゃくる日葵に僕はなにも声をかけることが出来なかった……。


『ひまわりちゃん、もう私のことを悲しまないで……』


「だから悪ふざけは!! えっ、ひまわりちゃんって呼び方は!?」


 いままで会話に参加せず沈黙を貫いてきた真美がやっと口を開いた。

 日葵のことを呼んだのか? 僕も初めて聞く呼び方だ。


「えへへ、ご無沙汰しちゃったね。 ひまわりちゃんって私がつけたあだ名だから、いきなり呼んでびっくりさせちゃったかな。 陽一お兄ちゃんの前では恥ずかしいから絶対に呼ばないでって、太平堂でたい焼きを食べながら話した二人だけの秘密だったね……」


「うそ、でしょ!? って、私を呼ぶのは世界中でたった一人しかいない……」


「ねえ、ひまわりちゃん、私の秘密のあだ名はもう忘れちゃったかなぁ?」


「……ばかあっ!! 私が忘れるわけないよ……!! いったい日葵と何年してたかも忘れて、一言もいわずに消えてしまったのは、まみーぬちゃんでしょ!! 動物が大好きなのに社宅だからワンちゃんをお迎え出来ないのが寂しいって、いつも言ってたじゃない。

 せめてあだ名のなかにワンちゃんを入れたい、まみ、いぬって可愛くない? ギャグめいた名案を思いついて、きゃあきゃあ言いながら二人ではしゃいでいたのに……」


「まみーぬか、懐かしいなぁ。ひまわりちゃん、ありがとね!! こんな私をまだお友達呼びしてくれるなんて……」


「まみーぬ、本当に真美ちゃんなの!? ちょ、ちょっと待って、陽一お兄ちゃん。これは夢じゃないよね!? 本気まじで近くにいたら私の頬をつねって貰いたいくらい。 そうだ!! いま行く、すぐ行く!! 本当に夢じゃないか確かめたいからそこで待ってて、サンマのTZRですぐに行くから、絶対にその場所を動いちゃ駄目だよ!! あ、それと位置情報を送って……」


 ……日葵は激しく気が動転していたが言いたいことだけを僕に告げて、そこで通話は途切れてしまった。


 昔から猪突猛進なところがある妹の日葵らしい、僕は現在地を確認する。

 先程の信号から通話の安全のために広い駐車場にトレーシーを移動したんだ。この場所は海沿いの国道に位置する大きな噴水のある道の駅みたいだな。

 位置情報とあわせて、僕が撮影した真美の記念写真もメールに添付する。

 これを見たら日葵はさらにびっくりするだろうな。文面にここまで来る際の事故への注意喚起を書き込んておく。


「ねえ、陽一お兄ちゃん、日葵ちゃんはなんていってたの?」


「これから、こっちに来るってさ、あいつもオートバイに乗るんだぜ。昔から考えたら想像がつかないだろ。まみーいぬちゃん!!」


「もうっ、間違ってるよ、まみーいぬじゃないから、まみーぬ!! それに私をそのあだ名で呼んでいいのは仲良しの日葵ちゃんだけなの!! またお兄ちゃんの頭をポカポカするよ」


「これ以上僕が記憶をなくしたら、お前はどう責任を取ってくれるんだ?」


「ふーんだ、調子の悪いテレビみたいに叩けばきれいに映るかもよ。ようちゃんのぽんこつな頭も」


「なんだ、さっそく仕返しかよ。その名前で僕を呼んでいいのは亡くなったお祖母ちゃんだけだぞ……」


「……だったら大丈夫だよ。陽一お兄ちゃんのおばあちゃんも、それにお母さんにもで、ご挨拶をしたから、おばあちゃんは優しそうな笑顔はぜんぜん変わってなかったよ!! 陽一お兄ちゃんのお母さんは日葵ちゃんにお顔がそっくりだね、真美びっくりしちゃった!!」


 ほのぼのと会話をしていた僕は、屈託のない真美の笑顔に隠された不穏なワードをあやうく聞き逃すところだった。


 真美が実在するのは日葵もなんとか信じてくれそうだ。だけどそれが根本の解決にはなりはしない。


 おしゃべりなおばさんの言った話も気になる。


 そして真美が僕のお祖母ちゃんだけでなく、絶対に顔を知らないはずの亡くなった母親が日葵にそっくりだと言ったことも。


 今回はこちら側のターンだと思っていたが、手駒にされて踊らされているのは僕のほうかもしれない……。


次回に続く。


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