お兄ちゃんが私にくれたもの。

「――真美、少しだけ待っていてくれないか」


  予期せぬ災厄トラブルは、いつ我が身に降り掛かってもおかしくはない。

 田舎道に多い野生動物の急な飛び出しで、あわや重大事故になるところだった。

 聖地巡礼へ向かう僕らの旅も何の変哲もない田舎道で頓挫とんざしていたのかもしれない。

 このあとも旅が続けられる幸運に僕は心の底から神様にむかって感謝をした。いや、こんな時だけ都合よく神様を思い浮かべるのはお門違いだな。

僕の家系は先祖代々仏教徒なのを忘れるな。神と仏では大違いだ。そんな節操のない行為をしたら亡くなったお祖母ばあちゃんが草葉の陰で泣いてしまうだろう。

 田舎の家でおなじみの天照大御神あまてらすおおみかみと書かれた掛け軸を思い浮かべながら、トレーシーを停めた道路脇で僕は暗闇にむかって深々と頭を下げた。


「陽一お兄ちゃん、なんで誰もいない場所でお辞儀をしているの?」


「ああ、これか……。さっきトレーシーで事故に遭わなかったお礼をしていたんだよ。僕がお祖母ちゃんっ子なのは真美も知ってるだろう。お祖母ちゃんから子供の頃に良く聞かされた迷信の一つさ。ご先祖様はいつも僕を見守っているから陽一も常に正しい行動を心掛けなさい、何かあったらご先祖様にむかって感謝のお礼を忘れないこと。自分でも古い迷信を信じているみたいで、本当に笑っちまうけど身体に染み付いた癖って大人になっても消えないもんだな……」


「ううん、陽一お兄ちゃんは偉いよ!! ご先祖様をうやまうことはとっても大切だよ。そして私にだけじゃなく困っている人がいたら、お兄ちゃんは昔から躊躇ちゅうちょなく手を差し伸べるよね。そんな優しいところに真美はいつも感心していたんだよ。だから便に似ているって言われていたんだよね……」


「おっ、懐かしいことをお前は覚えているんだな!! 郵便局の伯父おじさんの話なんて僕自身もすっかり忘れていたよ。亡くなったお祖母ちゃんの口癖だったよな。陽ちゃんは伯父さんの生まれ変わりみたいだって……」


 郵便局の伯父さんとはお祖母ちゃん方の親戚で、地元の郵便局に勤めていて若くして結核で亡くなった男性のことだ。

 僕は家にあった古びたアルバムの写真でしか顔を見たことがない。

 お祖母ちゃんいわく聖人みたいに優しい人で、親族だけでなく誰からも好かれていて亡くなった葬儀には弔問の参列が途切れなかったそうだ。

 生前はバイクとカメラが大好きで僕の親父も子供の頃に伯父さんのバイクの後ろに乗せて貰い一緒に出掛けたりと、かなり可愛がって貰ったそうだ。


 僕や親父も含め大滝おおたきの男は皆、車やバイクにはまってしまうのは亡くなった郵便局の伯父さんから受け継いだ血筋じゃないかと、お盆や正月の集まりでは恒例の会話になっていた。

 いや、男だけとか断定したら妹の日葵ひまりから、凄い剣幕で怒られるだろうな。あいつまでバイクに乗り始めた今となっては、大滝家の血筋と言い換えたほうが適切だろう……。


「夏休みに陽一お兄ちゃんの家へ遊びに行くと、おばあちゃんはいつも井戸でスイカを冷やして用意してくれたよね。それにとうもろこしまで!! とっても美味しかった。本当の孫みたいにおばあちゃんは私に優しくしてくれて、すごく嬉しかったんだよ……」


「お前には優しかったかも知れないけど、僕にとっては怖いお祖母ちゃんでもあったんだぜ。子供の頃、僕が悪いことをして家の裏口から慌てて逃げ出したら、お祖母ちゃんが履物も履かずに裸足で追いかけてきたこともあったな。物置の裏でとっつかまって首根っこを押さえられながら怒られたっけ。悪いことをする子供ガキお狐様きつねさまの巣に放り込むぞ!! って、お祖母ちゃんからさんざん脅かされたんだよな……」


「……お狐様」


 僕の耳元に微かな真美の呟きが聞こえた。

 インカムマイクの性能はこれまでの道中で折り紙付きだ。確かに彼女は一言、お狐様と呟いた。

 次の瞬間、先程まで山間やまあいにかくれんぼをしていた満月が、しびれを切らしたように真ん丸な顔を覗かせる。

 鬼に見つかった!? と言わんばかりに満月はその明るさを僕たちにむけて誇示し始めた。

 ちょうどヘルメットを脱いだ真美の背後から柔らかな光が差し込んだ。 

 ヘルメットから解放された艷やかな黒髪に流れるような光沢を、まるで一流のヘアメイクのような手さばきで鮮明に浮かび上がらせた。

 彼女の髪は何故、ヘルメットで乱れていないのだろうか? 

 そして真美がここでヘルメットを脱いだ意味を考えた。僕が言った言葉の中に何か引っ掛かりを感じたのだろうか。


「ねえ、陽一お兄ちゃんのお仕事はカメラマンだよね……」


「カメラマンだよねって!? 傷つく言葉だな。これでも一応、新進気鋭のカメラマンとして大きなコンテストで入賞したこともあるんだぜ」


「うん、知ってるよ!! 私も遠くから見ていたし横浜の豪華なホテルが会場で、お兄ちゃんの晴れ姿はとっても格好良かったよ!! でも一つだけ真美が気になったんだけど、あの背広は誰かに選んでもらった物なのかなぁ? もしかしてお兄ちゃんのだったりして……」


 真美が頬を膨らませて拗ねていた。

 小学生の頃も同じ表情を僕に見せたことがあったな。

 同じクラスの女の子と恒例の学芸会でロミオとジュリエットを演じるために、ペアで練習をしていた日の放課後の帰り道だ。

 真美はいつものように白い橋を越えても僕に手を握らせてくれなかった。

 頬を膨らませて拗ねた表情の彼女を茶化して、フグみたいと言ってしまった僕は一週間、真美から口を聞いてもらえなかったんだ……。


「馬鹿!! 何を心配しているんだよ。僕にはいい人なんかいないよ、妹の日葵に携帯電話で相談して、表彰の式典に出席するには、どんな背広が良いか見立てて貰ったんだよ……」


 真美は何も答えず、くるりと僕に背を向けた。

 水色のワンピースの薄い生地の部分に月明かりが差し、彼女の身体のラインを薄っすらと青く浮かび上がらせた。

 その自然なライティングに僕は思わずジャケットの腰に付けたバッグからコンパクトカメラを取り出した。

 シグマDP初期型。既にカタログ落ちしているコンパクトカメラだが旅の相棒には打って付けの機種だ。

 僕は軽いカスタマイズを施して外装に革を張り込んでノーマルでは滑りやすい筐体をグリップ感を高める工夫をしてあった。それ以外にも……。

 おっと、好きな物の話になると語りすぎるのは僕の悪い癖だ。こんなところまで亡くなった伯父さんに似ていると良く言われていたな……。


「……お兄ちゃん、あのね」


 こちらに向き直った真美の頬は真っ赤に染まっていた。

 あのふくれっ面ではなかった。僕は二度目の失言をしないように、ジェスチャーで自分の口にファスナーを閉める仕草をしながら、もう一方の片手でカメラの電源を入れた。

 僕の動作に気が付いた彼女が、背後の大きな満月も霞むような可憐な微笑みを、その頬に浮かべる。


「陽一お兄ちゃんと真美、再会してから初めての記念写真を撮ってくれる?」


 こんな最高の笑顔を撮らなかったら、僕はカメラマンとして失格だ……。


「真美の良かった探しね、もう二個目になっちゃった。これもお兄ちゃんがくれたものだよ……」


 僕は光学ファインダーに投影された彼女にむかって夢中でシャッターを切った。



 次回に続く。

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