君に捧げる小さな恋の旋律。
――駐車場に置いたままで夜露に濡れたヤマハトレーシーの車体を、取り出した布でシート部分を中心に丁寧に拭き上げていく。
吸収性の良いセーム革に面白いほど水滴が染み込むのが小気味よく感じられた。
続いて車体のサイド、フロントライトカウル、リアコンビネーションランプ、バックミラーの順番に拭き取っていく。そんな一連の儀式めいた動作。これがバイクに乗車する際、お馴染みのルーティーンになっていた。
たとえ車体が夜露で濡れていなくとも拭き上げる行為の中で車両の
ある意味、四輪の車よりも不安定な二輪の乗り物はちょっとした異常が重大事故に繋がる。
大事な幼馴染を後ろに乗せる聖地巡礼の旅となれば、なおさら慎重になってしまう。傍らの真美が小首を傾げながらじっと眺めていることに僕は気が付いた。
その顔には溢れるような微笑みが浮かんでいる。僕は気になって布を持つ左手をいったん止めた。
「……真美、何をそんなに笑っているの?」
「幸せだね、このバイクさん!! 真美にこの子のお名前を教えてくれるかな」
「ば、バイクさんって!? これは僕の愛車ではあるけど、
「陽一お兄ちゃん、別に隠さなくたっていいんだよ。この子とお話をしてたことを真美は知ってるもん!! これから頼むぞ、相棒って、今もお話してた……」
「……僕がトレーシーと話をしていたって!? 心の中でそう思ったことに間違いはないけど、声には出していないのにどうして真美には分かったんだ……?」
「前にも言ったよね、大好きな陽一お兄ちゃんのことなら知っていることも多いんだよ。 そうかぁトレーシーちゃんってお名前なんだね!! とっても可愛い外国の女の子みたいだ……」
僕がいつもトレーシーを擬人化して語りかけていることは真美は知らない。
彼女の時間はあの夏の日に永遠に止まってしまったから……。
また彼女は僕の心を読んだのだろうか? いや、真美はあの教室の前で僕に教えてくれたんだ。何でも知っているわけじゃない。自分で見た物しか分からないと言っていたはずだ……。
「とれいしいってお名前、真美、どっかで聞いたことがあるなぁ、何でだろう? ねえ、陽一お兄ちゃん!! トレーシーって名前、バイクじゃなくて他にもあるんだっけ」
「お前、トレーシーって名前に、ずいぶん興味を示すんだな。ちょっと待って、スマホで検索してやるよ。バイク以外でトレーシーなんてあんまり僕は知らないけどな……」
取り出した携帯のトップ
「トレイシー・パーキンズ!?」
その名前には僕も聞き覚えがあった。
だけど思い出してはいけない気がした。咄嗟に携帯のバックボタンに手が掛かる。
また身体の中で忘却したい過去との
ボタンに掛けられた親指が激しく痙攣を起こす。その拍子に触れた誤操作で、次の検索結果のページまで画面が一気に飛んでしまった。
目を背ける間もなく表示された検索結果トップの動画が自動再生される。少年少女の明るい笑い声に、ボーイソプラノのコーラス曲が重なった……。
「……この曲は!?」
「そうだ、陽一お兄ちゃん、この曲はあの映画の主題歌だよ!!」
「真美、その映画のタイトルは!?」
『『君に捧げる小さな恋の旋律!!』』
真美と同時に映画のタイトルをハモってしまった……。
そうだ、僕と彼女の思い出の恋愛映画で、小学五年生の夏に初めて二人っきりで隣町の映画館まで観に行ったんだ。
思えはあれが僕にとっては初めてのデートだったな。その映画の主演女優の名前がトレイシー・パーキンズなんだ!!
喉の奥につかえた魚の小骨が取れたような爽快感が僕の身体を駆け巡る。
思わず真美と手を取りあって喜びを分かち合う。あの頃と違うのは背丈の差で僕が膝を曲げて屈まないといけないのが少し残念だが……。
「すごい偶然だね!! 陽一お兄ちゃんが大好きだって言っていた可愛い女優さんと、このトレーシーちゃんの名前がおんなじなんて!!」
「そうだな!! えっ、ちょっと待てよ、僕が大好きな女優さんって……」
無邪気に喜びを全身で表して、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる真美。
その
急速に自分の頬が熱くなるのが感じられた。この事実を彼女には絶対に悟られてはいけない!!
「ええっと、真美、そろそろ次の場所に出発しようか? インカムマイクでも走行中にゆっくり話は二人で出来るから……」
「そうだね、ゆっくりお話しながらトレーシーちゃんで、お出かけしよう!!」
ふうっ、何とか誤魔化せたみたいだ。でも映画の話をまた振られたらどうしよう……。
そうだ!! その前にバイクで走りながらインカムマイクの交信でゲームをしようって約束をしていたじゃないか。そのゲームで真美の気を逸らす作戦にするか。
「……ねえ、陽一お兄ちゃん、あの柿の木の下でも同じ質問をしたけど、この荷物の中身はいったい何が入っているの?」
「まあ、目的地についてからのお楽しみにしておいて……」
真美が訝しがるのも無理はない。
僕の愛車、ヤマハトレーシーの聖地巡礼へ向かう出で立ちは後部荷台の左右に振り分けられたサイドバック、同じく後部荷台の中央に大容量のリアトランクボックスと積載に関してはフル装備になっているからだ。
おまけに希少なメーカー純正オプションのフロントインナーキャリアも装着しておいた。
最新モデルの大型スクーターならシート下にメットインも含めて収納スペースがあるが、昭和五十九年発売のトレーシーにはそんな気の利いた物はシートの下に存在しない。
他にも走りに関係ない便利機能は全て排除されている。ある意味スポーツ走行だけに特化した化け物スクーターだ。その狂った設計思想は当時、バイクメーカー業界二位のヤマハが業界一位のホンダを追い落とそうと血で血を洗うHY戦争の真っ只中に、切り札として投入されたモデルがこのトレーシーだったんだ。
当時スクーターで売上一位のホンダリードを潰そうと最速スクーターを目指して発売された。名車RZシリーズ直系の水冷二サイクル、十六馬力は現在でもクラス最強だ。
今回の装備は親父の道楽で集めた
「さあ!! 真美お嬢様、どうぞ後ろにお乗りください……」
二人乗り用のヘルメットをしっかりと着用したのを確認して彼女をトレーシーの後部座席へと導いた。
少々子供扱いし過ぎてしまったか? 彼女から非難の声を浴びせられるかと一瞬、身を固くして覚悟をしたが真美は予想外の反応を見せた。
「陽一お兄ちゃん、この後も真美をよろしく頼みます……」
僕に向かって深々とお辞儀をする彼女の姿に一瞬、もうひとりの大人の真美が重なった。
驚く僕に向かって、真美は微笑みを浮かべながらこう言った。
「真美を今日、誘ってくれたお礼を何かしたいな……」
僕が用意した群青色のヘルメット。その風防シールドを片手で下げる彼女。
どうやら操作のコツも二回目で覚えたようだ。濃いスモークの入った風防シールドで真美の表情がこちらからでは全く見えなくなった。
右手の人差し指と親指で
昔あの神社で遊んでいたときに僕が真美に向けて、ふざけて良くやった動作と同じだ。
「次の目的地でも、お兄ちゃんの言うことにいい子で従うから……」
僕のヘルメット内に装着されたインカムのスピーカーから真美の消え入りそうな声が流れてきた。
スモークシールド越しの彼女の表情はこちらからでは見えないが、声の調子から、たぶん幼い子供みたいに真っ赤になって照れているに違いない。
一瞬で子供と大人の間を行き来する。一体どちらが本当の彼女の姿なんだろうか?
夏の魔物に魔法を掛けられたのは彼女ではなく、この僕なのかもしれない……。
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