必ず迎えにきてね。

『――陽一お兄ちゃん、自分の教室に入らないの?』


 両手で固く耳を塞いでも、この言葉ループからは逃れられないのか!? 

 妙に芝居掛かった幼い少女の言葉セリフが、まるで閉幕の合図のように僕が立っている舞台の照明が一気に暗転した。

 PTAの寄贈品である金文字が書かれたビロードの舞台幕が下ろされ、木枠のパネルに貼り付けられた安っぽい書き割りの背景画をいつの間にか現れた黒子たちがテキパキと舞台の袖に運び出した。

 分厚い舞台幕の向こう側では見えざる観客たちの異常とも思える称賛の拍手喝采が鳴り止まない。

 嵐のような熱狂の渦に飲み込まれ意識が遠のいていくのが感じられた。いつしか歓声が耳障りな蝉の声に変化するのと同時に、汗ばむような夏の湿った空気が僕の身体をねっとりと包み込む……。


 僕はまた教室の前に舞い戻っていた。この状況が巻き戻されたことだと妙に冴えた頭は瞬時に理解したが、首から下の自由がまったく効かない!? 

 まるで操り人形のごとく意志とは裏腹に身体が勝手に動き出した。一周目と同じ動作で目の前にある教室の扉に手を掛け一気に開け放つ!! 

 そんな姿を想像したが僕の左手は止まったまま動かなかった……。

 前回と違っていたのは右手がそれを必死に阻止していたからだ。幼い頃からのトラウマの象徴である軽く湾曲した不自由な右手。そんな負の象徴が反対側の左の手首をしっかりと掴んで押さえ込んでいたんだ。

 身体の中で奇妙ないさかいが起こっているのをどこか俯瞰ふかんで眺める自分を認識する。

 そして教室の扉からゆっくりと指を離し傍らに佇む真美に視線を落とした。



 *******



 夏の生暖かい夜風が遊歩道の草木を揺らす。その風の音に負けじと蝉の鳴き声が一段と大きくなっていく。僕たちは元の現実世界に戻っていた。もう二度目の過ちは起こさなかった……。


「……真美、本当にすまない。もう二周目はないんだ。僕がさっきまで触れていた扉も、あの教室もすべてが君の作り出した幻想……。誰も傷付かない優しい夢の中の世界だったんだろう?」


「本当にあやまるべき相手はの私じゃないよ。でも茶番劇と言わないのが陽一お兄ちゃんの優しさだね。その気配りは大人になっても昔とまったく変わっていない……。子供の頃も自信過剰で自分勝手なガキ大将になりきれなくて、いつも私や妹の日葵ちゃんを他の意地悪な男子から全力で守ってくれたよね。でも夢の考察は半分は正解で後の半分はハズレかな? 子供の私が見せたのはこの教室の扉までの。お兄ちゃんがこの扉の向こう側で体験した生活はもう一人の私、大人の真美が見ている夢のセカイの中だったんだ……」


「多分、そうだと思ったよ……」


「お兄ちゃんはいつから夢だって気が付いていたの?」


「そうだなあ、これを言ったらお子ちゃまのお前にぶっとばされるかもしれないけど、成長した真美はとても綺麗だったんだ。年の頃はちょうど今の僕と同じくらいかな。背もすっげえ伸びてさ!! 良かったぜ、大人のお前に背が抜かれてなくてさ。真美が僕の前から姿を消してから何回、成長した姿を想像したか分からないよ。手を伸ばしても絶対に届かないと思っていたから……」


「それじゃあ、真美の質問に答えていないよ!! 日葵ちゃんにも昔から良く言われてたでしょ。陽一お兄ちゃんは人を傷付けたくないから、言葉を選びすぎるって、逆にその遠回りする言葉が誤解を招いたり人をもっと怒らせるんだって……」


「……真美も良くそんなことまで覚えているな!? 母親のいない僕にとっては口うるさい妹が亡くなった母親の代わりだったから」


「そうだね、村一番の柿の木がある広場で私たち女の子二人から同時に責められて、真美まで日葵ちゃんの肩を持つのかよ!? って良く拗ねて陽一お兄ちゃんは柿の木のてっぺんに登って逃げていたよね。そして夕方五時の防災無線が鳴るまで降りてこなかった……」


「まったく、真美は何でもお見通しだな。お前に嘘は付けないよ。答えを後で言うけど決して怒らないと約束してくれるか?」


「うん!! 陽一お兄ちゃんの答えによるけど」


「……お前、それ、ぜんぜん約束になってねえから」


 逆に質問攻めにしたいのは僕のほうだったが、不思議と幼い真美との会話を楽しみたい気分になった。大人の真美と交わした最後の約束が僕の脳裏に蘇る。


『私はあの場所でいつまでも待っているから、必ず迎えに来てね』


 ……あの海を見下ろす白い洋館で暮らした日々。


 きっと大人の真美の願望が反映されていたはずだ。 そして彼女が何処かで夢を見ているとしたら!? 何らかの超自然的な力によって目の前にいる幼い真美と別の場所に幽閉されていると仮定したらどうだ!! 

 そんな荒唐無稽な考えもおかしく思えないほど、僕は今日一日で不思議な体験をいくつも経験していたんだ……。


 自分が故郷に帰省してまだ一日も時間が経過していないなんて!? とても信じられるはずがない。まるで一週間以上が経過したような疲労感だ。無味乾燥な都会にいた頃の生活を思い返すと一日仕事以外の会話を口にすることが殆どなかった。

 一人暮らしのワンルームの部屋と仕事現場の往復、たまに交わす日常の会話は行きつけのコンビニの店員と二言三言くらいだ。

 そしてこの場所で今まで起こった不可解な現象すべてを受け入れ、目の前の幼い真美と軽口を交えて会話していることが妙に笑えてしまう……。


 これでは都会にいた頃の何倍も饒舌じょうぜつじゃないのか? そう言えばいつから僕は軽口を叩かなくなったんだろう。親父の期待を裏切って造園屋の二代目経営者のレールに乗せられることを拒否して、この街を古い曲の歌詞に感化されて飛び出したあの日か……。


 思えば僕は昔から漫画や歌にすぐ影響を受けやすい性質たちだったな。

 中学時代に妹の日葵が大好きだったコボルト文庫の少女漫画を馬鹿にしてやろうとあら探しのために読み始めたらミイラ取りがミイラになって日葵よりも、どハマリして大ファンになってしまい、一時は漫画の主人公と同じ獣医を目指して北大を志願したいとか親父に宣言した一件は今でも笑える一件だったな。思えばあの時も感化されすぎて漫画の舞台である千葉県八千代市に聖地巡礼をしたんだっけ……。


 日葵にものめり込み過ぎてお兄ちゃんはキモいと呆れられたほどだ。あの繊細なタッチの描線を描いていた少女漫画の先生が、いつしか週刊少年誌で極道漫画の大御所になるとは、あの頃の僕と日葵にもしもタイムマシンで会いに行って教えたとしても本気マジで冗談だと言ってとても信用してくれないだろう……。


「陽一お兄ちゃん、今考えていることを当ててみせようか?」


 真美は僕に向けて、お団子取りの夜にあの神社で見せた悪戯っぽい微笑みを、何年経っても色褪せない写真のように浮かべていた。


「……何だよ、僕の心まで見透かせる能力があるのなら、最初から試すようなことをするなよ!! そうやって僕をからかって楽しんでいるんだろう? あのお団子取りの夜みたいに……。分かった、答え合わせをしてやるよ。大人の真美と暮らしてこれは夢だと気が付いたのは……」


 また照れ隠しの少年時代が顔を出す。 少し彼女に意地悪を言って困らせてやりたくなった。本当に僕はお調子者で駄目な性格だ。注意欠陥な所も日葵に何度怒られても改善できない。何度これで学校や仕事で失敗してきただろう……。


「じゃあ、ちょっとしたゲームをやろうぜ!! それくらいは僕に権利をくれよ。の真美、二人に翻弄されて、僕はただでさえ若白髪を気にしているのに今日一日で驚きと恐怖で老人みたいに髪の毛が真っ白になってしまうかもしれないから……」


「ええっ、陽一お兄ちゃんって白髪があるの!? だって今の髪の毛はまっくろじゃない……」


「これは部分的に白髪染めを使っているんだよ。のほほんと暮らしているように見えるけど、フリーランスのカメラマンって結構苦労しているんだぜ!!」


 まずかったか!? 調子に乗りすぎて言わなくて良いこともつい口走ってしまった……。

 白髪が多くなった本当の理由わけは心配を掛けるからとても言えないな。慌てて苦労人のふりをして真美に悟られないように振る舞った。


「ねえ、ゲームってどうやるの? 真美にルールを教えて!!」


 ……良かった、彼女はゲームのほうに関心があるようだ。幼い真美で安心した。

 大人の真美だったら簡単に誤魔化せないだろう。


「あれっ、陽一お兄ちゃん、何で駐車場に戻るの。 さっきの建物に行かないのかな?」


「ああ、あそこはもういいよ。所詮まがい物の小学校の外観をお前に見せても意味がなかったからな。僕の回りくどい会話の癖と同じだ。遠回りをしても仕方がないことに気付かされたんだ……」


 中途半端な空白なんて意味がない……。

 時間がないんだ青春は!! と言ったのはいったい誰だったのか? 

 有名な漫画のセリフか、それとも往年のラブソングのサビの部分だったのか。


「真美、お礼を言わせてくれないか。 きっとお前は現実から逃げ回ってこの歳になるまで何も成し遂げずに、都落ち同然で故郷におめおめと戻ってきた情けない僕のために現れてくれたんだろう……」


「陽一お兄ちゃん、私はそんな……」


「何も言わないでくれ、僕はもう過去から逃げないよ!! それを気付かせてくれたのは真美なんだから……」


 駐車場に置いたヤマハトレーシーが見えてくる。

 センタースタンドで立つその姿はまるで可愛い忠犬が主人の帰りを待っている伏せの姿勢みたいだ。

 随分長く待たせてしまったな相棒よ。心配していた荷台の荷物も大丈夫そうだ。大事なお弁当とが入っているから心配だったんだ。

 取り出したスマホを確認すると時間はこの駐車場を出てわずか三十分しか経過していなかった。同時に妹の日葵からの着信が入っていることに気がついた。

 やはりトレーシーのキーケースに取り付けている位置情報が確認出来なかった件と同じく通常の着信もあの夢の世界までは届かないのだろう……。


「さあ、これから仕切り直しで本当に、二人っきりの聖地巡礼に出掛けよう!!ゲームのルールはバイクに乗りながらインカムのマイクで説明するよ。そのほうが時間が無駄にならないからな」


 二人乗り用の青いヘルメットを真美に手渡した。その群青の色を見ても僕はもう怖気づいたりはしない。

 おばあちゃんが幼い頃、夏の日の蚊帳の中で僕に言ってくれた古いことわざを思い出す。毒を食らわば皿までだ。危険の中心だろうが知ったこっちゃない!! 

 僕には真美が一緒にいるんだ……。


「……見違えたよ、陽一お兄ちゃん。 時間を無駄にしないで計画的にを進めるなんて。ここに日葵ちゃんがいたらきっと喜ぶよ!!」


「そうだな!! 日葵も……」


 そこまで言いかけて、僕は後の言葉を必死に飲み込んだ。軽口も度が過ぎると人を傷つけてしまうから……。


(日葵もお前に会ったら腰を抜かして驚くよ、だってお前は小学四年生のあの夏の日に……)


 僕はこんな場面だけ自重出来る冷静な自分に心の中で毒ついた。

 そして後で振り返ると、優しさという名の気配りがさらに大切な人を傷つけたことをまだ知らなかった……。


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