あの夏に咲いた向日葵のように。

「――真美、疲れていないか?」


「うん、大丈夫、心配してくれてありがとう!! 陽一お兄ちゃんが座布団を敷いてくれたからお尻も全然痛くないよ」


 肩越しに聞こえる彼女のはずんだ声に僕はひとまず安心した。

 前のかごいっぱいに詰め込んだ荷物を気にしながら道路の段差を乗り越える。

 せっかく真美が早起きをして二人分のお弁当を作ってくれたのだから、中身を崩さぬようにしなければならない。

 古い舗装道路は補修を繰り返したためか継ぎ目が多かった。僕はわだちに自転車の進路を乱されぬようにハンドルをしっかりと握りなおした。

 今日の目的地に向かう真っすぐな道を進む二人乗りの自転車、一人の買い物と違い真美がいるだけでどうしてこんなに楽しいのだろう? 

 今日は彼女を夏祭りに誘えて本当に良かった。次の瞬間、両側の暴風林が途切れ一気に視界がクリアになる。


「わあっ!! 海だ……」


 真美が思わず歓喜の声を上げ僕の耳にも心地よく響いた。

 それもそのはずだろう。真近なこの場所から見渡す雄大な海の眺めは洋館の窓越しに見るのとは別物だから。

 海からのさわやかな潮風が頬を撫でる……。


 ――この景色を彼女と共有したかった。


 高校に入り、部活動もやらずに勉強漬けな毎日を送っていた僕に、親父はバイクに乗ることを勧めてきたが最初はまったく乗り気ではなかった。

 子供の頃親父の運転するバイクの後ろに無理やり乗せられたことがあり、まだ五歳くらいだった僕は泣いて怖がったそうだ……。

 そのトラウマのせいか幼い頃は二輪の乗り物があまり好きにはなれなかった。しかし費用も全て親父が負担するからと強く勧められて僕はなし崩し的に免許を取ったんだ。

 その後、親父のバイクを借りて県内を中心に休日はあてもなくツーリングに出掛けた。自分の行動範囲が一気に広がり、ふさぎ込んでいた気持ちに少しずつ光が差すように感じられた。

 バイクが趣味と呼べるようになった頃、僕は面白いことに気が付いた。バイク乗りには面白い習性があることだ。それは一人で訪れて感動した場所に大切な人ともう一度訪れたいと強く思う気持ちだ。その景色を見て貰い、相手にも同じように感動してもらえたら最高の気分だ。

 親父は何も語らないが人生の先輩として僕にバイクを勧めた理由が何となく理解出来た。


 この国定公園も良くバイクで訪れた僕のお気に入りの場所だ。 

 今日、大切な人と同じ思いを共有出来たことに心から嬉しい気分になった……。

 無邪気に笑う真美。その屈託のない笑顔は見違えるほど綺麗に成長した今も変わらない。

 一つだけ残念なのは愛車のトレーシーではなく、おんぼろの自転車ママチャリに乗ってきたことくらいか。今日もバイクの鍵は見つからなかったから仕方がないよな。


「ごめんな、今日は僕の気まぐれに付き合ってくれて。お弁当も早起きして作ってくれたんだ。ありがとな……」


「ううん、私も誘ってもらえて嬉しいよ。お兄ちゃんと一緒に夏祭りにお出掛けが出来るなんて夢を見ているみたい!!」


 こんなにもはしゃいだ真美をみるのは久しぶりだ。

 彼女が明るい笑顔を見せてくれるだけで僕はとても嬉しい。そんな単純シンプルすぎる感情がこみ上げ、これからの期待に胸が高鳴った。

 急な下り坂でブレーキを強く握りしめると二人乗りの自転車は減速するが、僕のはやる気持ちは前へ前へと引っ張られるようだった……。


 今朝、洋館の窓から見かけた場所に僕たちは向かっていた。

 岬の突端には展望台があり国定公園のランドマークになっている。まるで巨大なジャングルジムのような景観だ。

 対岸では大規模な花火大会も今夜予定されており、展望台の上から鑑賞出来たら最高だろう。

 

 今日は何もかも忘れて楽しもう……。


 胸の高鳴りが後ろの彼女にもまるで伝染したみたいに、僕の腰に回した腕にぎゅっ、と力が込められた。

 そんな心地よい拘束感を身体に感じ、僕は舞い上がってしまったんだろう。思わず柄にもない言葉を口にした。


「今日は一日、目一杯楽しもうな!! 昨日の刺繍のお詫びだ。やっぱり笑顔が真美には一番似合う。今日は一段と綺麗に見えるよ……」


 少し調子に乗りすぎたか? 


 普段なら彼女は、僕の言葉に真っ赤になって照れると思ったんだ。


「この景色、私、絶対に忘れない……」


 彼女は、まるで独り言のようにつぶやいた。


「……真美、これから夏祭りに行くんだよ。楽しみなのは分かるけど、いくら何でも気が早すぎじゃないの?」


 思わず路肩に自転車を止めて僕は笑いながら後ろを振り返った。

 彼女は自転車の荷台に横座りになり、その視線は真っすぐに青い海を眺めていた。

 潮風が彼女の長い髪を揺らす。白い帽子を飛ばされぬようしっかりと片手で押さえる仕草が僕にはとても愛おしく感じられた。真美のワンピースの裾が海風に揺れる


「真美……!?」


 彼女はその瞳に涙を浮かべていた。

 驚いたのは真美が泣いていたからだけじゃない。僕の肩に触れるその細い指先が、まるで愛おしいものを撫でるようなしぐさだったから……。


「真美、どうしたんだ。何か悲しいことでもあったのか!?」


「……ううん違うの、悲しいんじゃないよ。真美ね、何でもないことが本当に嬉しいんだ。お兄ちゃんの背中を見ていたら涙が止まらなくなったの。洗いざらしのシャツ、好きな人のために作るお弁当。二人で出掛ける夏祭り。ありふれているけど今の私にとっては最高の贈りギフトなんだって……」


「真美……」


「陽一お兄ちゃん、お願いがあるの。左手を出して貰ってもいい? そしたらね、指で真美とおんなじ形を作ってくれるかなぁ……」


 そして彼女は右手の人差し指と親指で、僕の前にを作り始めた。

 見よう見まねで彼女の指先を真似た。人差し指と親指を立てる。


「真美、これでいいか?」


「そうそう、それでね、真美の右手の指先とお兄ちゃんの左手の指先をして……」


 彼女は急に幼い少女のような口調になった。

 大人の女性に似つかわしくない言葉を耳にして僕は激しく気持がざわついた。

 何か大切な物を忘れていることに僕は気付かされた。 何故そんな気持ちになったのか自分でも良く分からなかった。

 まるで失くしたバイクの鍵みたいに不自然な出来事に思えてしまったから……。


「ねえ、 お兄ちゃんと私の指先、写真立てフォトフレームみたいに思えない?」


 お互いの指先で形どった、少しだけ不格好な四角い写真立てが完成した。

 その合わせた指先の中央には狂おしいほどのあおが飾られていた。

 目の前にある海の青色じゃない!? この写真立ては何を写しているんだ。


「何なんだ、この景色は……!?」


 突然、芝居の緞帳どんちょうを降ろした舞台さながらに周りが真っ暗になった。

 強烈なスポットライトが僕たち二人を照らし出し安っぽい四色セロファンを貼ったような照明が目まぐるしく切り替わる。

 舞台袖にあるようなビロードの布地が首筋に触れた。薄い上履きの足裏に感じる固いリノリウムの床材。そしてこの埃っぽい空気感には覚えがある。

 僕は遠い過去の記憶を必死で探った。あの日の全校集会の後に行われた恒例の学芸会。そしてスカートめくりの記憶が蘇る。そうだ、小学校の体育館にある舞台の上に僕は立っているんだ!!

 僕たちを照らすスポットライトの光量が眩しすぎて、体育館の観客席はこちらからでは全く見えない。セリフを忘れた大根役者のように僕はその場に立ち尽くしてしまった……。


「お兄ちゃんの左手と私の右手、ずぅっと仲良しでいられたらいいのに……。だけどもう無理みたい、一緒に過ごせる時間は終わってしまったから」


「何、言ってんだよ、この場所でずっと一緒に暮らせるだろ!! 今も、これから先も!!」


「そろそろ時間切れかなぁ? これが大人の真美の見せられる精一杯なんだ。ごめんね、陽一お兄ちゃん。意地悪してバイクの鍵を隠しちゃって。夏祭りを一緒に行きたかったな……」


 目まぐるしく色の変化する舞台上で、必死に言葉を紡ぐ大人の姿をした真美。

 僕は全てを理解した。これはきっと大人の彼女が見ている夢だ。

 その理想の夢の中に僕は足を踏み入れていたんだ。教室に入った後でいきなり場面転換した理由わけと一緒にいたはずの幼い頃の姿の真美が消えたのが何よりの証拠だ。

 トレーシーの鍵が見当たらなかったのも現実とを繋ぐ何かのキーアイテムだったんだろう……。


 ……でも大人の真美が存在するなんて絶対にありえない。



「陽一お兄ちゃんは、の幼い真美の約束を忘れちゃったよね?」


 もう一人の幼い真美との約束!?


『約束だよ、陽一お兄ちゃん。真美が大人になったら必ず迎えに来てね』


 あの夜の神社での約束の言葉が鮮烈に蘇る。


「馬鹿を言うなよ真美、僕が忘れるはずねえだろ!! もう一度お前に会うために、この場所に戻ってきたんだ……」


「それを聞けて安心したよ。私はあの場所でいつまでも待っているから、必ず迎えに来てね。大好きな陽一お兄ちゃん……!!」


 舞台の中央、差し向かいで立っていた大人の真美を照らすスポットライトが不意に消える。

 漆黒の闇が入れ替わりにその場所を支配した。

 観客席から耳障りな拍手が鳴り響き、思わず耳を塞いだ僕の手には失くしたはずの革製のキーケースが握られていた。耳元で鍵束が擦れる鈍い金属音を奏でる。

 僕は最後のセリフを喉も枯れんばかりに叫んだ!!


「もう一度、あの夏をやり直させてくれ!! 真美、まだ巻き戻せるのなら……」


 『……陽一お兄ちゃん、自分の教室に入らないの?』


  両手で完全に耳を塞いでいるはずなのに、頭の中に声が聞こえてきた。


  この少女の声を僕は良く知っている……。



  

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