恐竜さんの刺繍じゃない。
――もう見知らぬ少女の夢は見なかった。
その
カーテンを閉め忘れた窓から、僕の寝ている部屋全体に朝の
窓辺に
昨日、頼まれた買い物リストの中に含まれており真美が部屋の窓辺に吊るしてくれたんだ。窓がとても広く日中でも明るい部屋にサンキャッチャーを吊す必要はないんじゃない?
今思い返すとあまりにも無粋な質問を投げかける僕に彼女は笑いながら答えてくれた。
「朝、目が覚めて外が晴れていると
真美の言うとおりだ。たしかに雨の日は憂鬱になる。
特に中学、高校と自転車通学だった僕は雨合羽を着ても、学校に到着する頃には袖口や裾から下に着ている服が雨で濡れてしまい、それだけで気分がダダ下がりになったものだ。
「……サンキャッチャーを飾る
子供の頃から占いやおまじないが好きな彼女らしい言葉だ。
もともと日照時間の少ない北欧がサンキャッチャーの起源で、僅かな太陽の光を部屋一杯に取り込む工夫から生まれたそうだ。
そして部屋だけでなく人間の悪い気も浄化してくれるそうだ。僕は思い出し笑いを浮かべながら頭の中にある不安を慌てて振り払った。
今は真美との暮らしに集中しよう。すぐ疑って掛かる僕の悪い癖だ。
妹の
『お兄ちゃんも言ってたじゃん、大好きなオートバイも日葵の乗る自転車も、自分の見た方向に進むって……』
そうなんだ、オートバイや自転車どちらにも言えることだが、速度域の高いバイクに例えるとカーブを曲がるコーナーリングでは運転しているライダーの視線が重要だ。
目で見た方向に車両は進んでいく特性があり、視線でオートバイの車体を安全に導くと説明したほうが分かりやすいな。
人の感情もその時の気分で決まる。良い方向に考えるのと悪い方向に考えるのでは人生の舵取りが変わってきてしまう……。
出来ればポジティブにいきたい物だ。ベッドから立ち上がった勢いで窓辺のサンキャッチャーが揺れ、屈折した光がまた部屋中に差し込んできた。太陽の光だけでなく言葉にも幸せを運ぶ力があると真美は僕に教えてくれた。
「……僕は成長した真美に本当の幸せを運べているのか?」
真美と子猫を育てると約束したあの神社。そこまでの記憶は今でもはっきりと覚えている。
そして僕の中に抜け落ちた記憶の欠片と悔やみきれない後悔だけを残して消えてしまった真美。死ぬほどつらい思いをしたのはきっと彼女なのに……。
僕は真美との記憶を勝手に封印して自分に都合の良いことだけを覚えている。そして彼女との思い出の詰まった故郷から都会に逃げ出して見てみぬ振りをしていたんだ。
まるで高性能なレタッチソフトで写真の邪魔な物を消すように真美を黒く塗りつぶしていたんだ。
確かに見栄えは良くなるかもしれない。だけど綺麗なだけの写真には魂を揺さぶる力はないんだ!!
人生には苦しくてもノイズみたいな物、自己にとって都合の悪い物も絶対に必要なんだ……。
「それなのに僕は、勝手に真美を消し去って……」
岬の突端を見下ろす高台の場所に建つ白い洋館。二人だけでは広すぎる建物だ。
広大な自然公園内に建てられているが真美が言うにはこの場所は私有地のようで、外部の人間は入ることは出来ないそうだ。僕と彼女だけの時間がゆっくりと営むことが出来る。
かすかに朝食の用意をする音が階下から聞こえてくる。真美と寝室は別にしてある。あんなに待ち望んだ同居生活なのに、何故かお互いを意識してぎこちなくなってしまう……。
「……夜の八時に就寝って、僕は小学生か」
昨晩の真美とのやり取りを思い返す。
僕が自転車で買い出ししてきた食材で初めての夕食を作った。
汚してしまった洗濯物は午後の時間帯だけではとても乾ききらず、二階に続く採光部の吹き抜け部分に真美の提案で干してみた。
リビングから見上げるとそこだけが所帯じみた空間になり、せっかくのお洒落なインテリアをぶち壊しにしていた。
「私はこっちのほうが落ち着くかな……」
二階で洗濯物を干す僕に一階のリビングから真美が笑いかける。
吹き抜けから見下ろすとテーブルにはすでに料理が並べられ、夕食の準備が整っていた。
「そうだな、贅沢な話だけどこの家は綺麗なモデルハウスみたいで、何だか落ち着かないと思ってたんだ……」
かいがいしく用意をする真美のエプロン姿。思わず見とれてしまうが、それを悟られないよう努めて明るい返事をした。
オレンジ色のエプロン。胸ポケットには刺繍がしてあったが遠目には何の刺繍かまでは分からなかった。
「何で真美をそんなにじっと見つめてるの? あ、もしかしてこのエプロンかな」
穴が空くほど彼女を見つめていたことに、やっぱり気付かれてしまったようだ。
「昨日の夜、お裁縫して作ってみたんだ。でも私、昔から不器用なのはお兄ちゃんも知ってるよね。だからあんまり近くで見ないで、
頬を染め照れる彼女の仕草がとても愛おしく思えた。
そう言えば昨晩ミシンの音が聞こえていたな。階段脇の中二階に作業スペースがあり、そこにハンドメイド用の裁縫道具が一式分揃っており、最初にそれを見つけた真美が目を輝かせていたことを思い出した。
「陽一お兄ちゃんにお使いを頼んじゃって本当にごめんなさい。買って来てくれたエプロンの仕立て用の布地、すっごくいいオレンジ色だったよ!!」
僕が見とれた理由の半分は、その目の覚めるようなオレンジ色のエプロン姿だった。真美にはとても良く似合っていた。
「お安いご用だよ、食材の買い出しついでだったし……」
それは嘘だ。僕は布地を探して手芸の店を何軒も自転車ではしごをしたんだ。男の僕には恥ずかしかったがどうしても真美の喜ぶ姿が見たかった。
「もうすぐ洗濯物を干し終わるから、もっと近くで真美のエプロン姿を見せてよ!!」
「まだ駄目!! 陽一お兄ちゃん。うるさく言って悪いけど洗濯物の干し方が適当過ぎだよ。もっと間隔を開けないと全然乾かないから……」
真美に言われて物干しハンガーの洗濯物を確認すると、たしかに一つ一つの間隔が近すぎるようだ。
こんな所でも普段から家事をやらないことが彼女にバレてしまうな。
「……それに近くでエプロン姿を見られるのは恥ずかしいな」
「何!? 良く聞こえない!!」
僕はエプロン姿の真美を見てちょっとした悪戯を思いついた。
洗濯物の間隔を綺麗に干し終えてから空の洗濯かごを抱え、足音に気を使いながらゆっくりと階段を降りる。
一階のリビング奥にあるカウンターキッチンの向こうに立つエプロン姿の真美。両手にキルトの鍋つかみをはめ、ちょうどIHコンロに置かれた大きな鍋に手を掛けた様子だ。
こちらに背を向けた彼女は僕が二階から降りてきたことにまだ気が付いていない。
「近くでエプロン姿を見てもいいかな、真美!!」
細い肩にそっと手を触れる。驚きで肩が震えるのがこちらにも伝わってきた。
「陽一お兄ちゃん、駄目だよ!? 鍋で火傷しちゃう!!」
鍋を持ったままの彼女がたまらず抗議の声を上げた。僕にとっては両手が使えない今がチャンスなんだ。
真美が鍋をIHレンジの上に戻すのを完全に見届けてから、両手で掴んだ肩を優しくこちらに引き寄せた。
「えっ、陽一お兄ちゃん……!?」
まわした両腕に収まるほど
「不意打ちなんてずるいよ……」
急激に僕の体温も上昇する。決して暑いキッチンだからだけじゃない。小学生の頃みたいに安易に彼女に触れたことを今更ながら後悔した。僕は自分の行動に照れてしまった……。
「……真美!?」
僕の固唾を飲み込む音だけが静かなキッチンに響いた。妙に彼女を意識してしまう。自分では見えないがきっと僕の頬は真っ赤だったに違いない。
「お料理、冷めちゃうといけないよ……」
真美がポツリとつぶやく声に、僕は慌てて彼女の肩にまわしたを腕を振りほどいた。
そのままお互い無言でリビングに向かい、差し向かいでテーブルの椅子に座った。
ぎこちない時間が二人の間に流れる。真美の作ってくれた料理は驚くほど美味しかった。地の新鮮な食材中心で作ったお皿が豪華にテーブルを彩る。肉巻きのピーマンは味付けも絶品で白いご飯に良く合う。ミニトマトを和えたサラダも都会暮らしが長くて不摂生になりがちな僕の健康を考えてくれたみたいだ。とてもありがたいな。
「……真美の作ってくれた料理、全部美味しいよ!!」
重苦しい沈黙を破った僕の感想に、緊張している様子の真美がやっと笑顔を見せてくれた。
「良かった、お兄ちゃんに喜んでもらえて……」
やっぱり、困った顔じゃなく彼女には笑顔でいて欲しい。
「そう言えば真美の作ったエプロン、何の刺繍してあるの?」
照れ隠しに思い出したふりで急に話題を変えた。
エプロンの話を出した途端、それまでニコニコしていた真美の表情が固まるのがこちらからも見て取れた。
「……どうしても見せなきゃ駄目なの?」
「うん、見たい!!」
そこまで隠されると逆に見たくなるのは男の
「仕方が無いな……。 本当に笑わないって約束してくれる?」
なぜ、エプロンを見せることに、こんなにも抵抗するんだろう。
「んっ!?」
エプロンの胸ポケットの刺繍で僕の視線が止まる。目に飛び込んできた物は!?
牙を剥いたような恐竜の刺繍。そして恐竜の頭には何か虫みたいな物体がちょこんと乗っかっている。
これはいったい何のキャラクターの刺繍なんだ? 良く分からないけど取り敢えず褒めておこう。
「……真美、恐竜の刺繍、とても上手だね」
「違う、恐竜じゃないよ!! 陽一お兄ちゃん……」
真美の顔色が瞬時に曇るのが僕から見ても良く分かった。
「だから見せたくないって言ったのに……」
がっくりとうなだれて落胆する彼女。何かまずいことを言ってしまったのか?
「えっ、それって恐竜と虫の刺繍じゃないの?」
「真美の刺繍が下手だから、陽一お兄ちゃんに分かって貰えないんだ……」
間違いなく地雷を踏んでしまったみたいだ。
そして僕は大変なことを見落としていることに気が付いた。
今まで隠していた彼女の指先には絆創膏が貼られていたことに……。
こんなに料理が得意な真美が裁縫で怪我をするわけがない。それは僕の勝手な思い込みだった。きっとあの刺繍で悪戦苦闘して指先を針で怪我をしたんだ。本当はそこまでして僕に刺繍を見せたかったのかもしれない……。
「ご、ごめん、真美……」
「陽一お兄ちゃんが謝ることじゃないよ。下手な刺繍をしたのは私だから……」
その後は、また食卓に気まずい空気が流れて、夕食の片付けをしてから、お互いに別々の部屋に戻ったんだ。昨晩は早く寝てしまったのはそのせいだ……。
このままでは駄目だ。
今日は真美と何とか仲直りをしなければいけない。何かいい方法はないんだろうか? しばらく窓の外を眺めながら僕は思案に耽った。この部屋からはちょうど岬の公園が良く見渡せる位置だ。
「そうだ、これで行こう!!」
僕は岬のある風景をみていいアイディアを思いついた。そのまま部屋を出てキッチンで朝食の用意をする真美に、二階の吹き抜けから顔を出して声を掛ける。
「真美、おはよう!! 今日、僕と一緒に夏祭りに出掛けないか?」
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