ただいま、私の大好きだったお兄ちゃん。
――この坂を登り切ったら、あの日出来なかった告白をしよう。
だけど君の笑顔を見た途端、僕は何も言えなくなってしまうのかな……。
潮風が頬に心地よく感じられ、自転車のペダルをこぐ足にも力がこもる。
今更ながらサドルの高さを調整してこなかったことが悔やまれた。明らかに僕の身体に合っていない。調整用のミニツールがあれば、すぐにでもサドルの高さを調整出来るのに。
借り物の自転車に文句を言っても仕方がないな。僕は姿勢を立ちこぎに切り替えて目の前にそびえる心臓破りの急坂に挑んでいった。
「くそっ何で今日に限って、トレーシーのキーケースが見当たらないんだ!!」
僕たちの暮らす家に置いてきたヤマハトレーシーだったら、こんな坂ぐらいアクセルひと捻りで楽々クリアが出来るのに。
それにしても不思議なのは革製のキーケースにはスマートトラッカーと呼ばれる紛失防止タグを付けているのに、いくらスマホのアプリで捜索しても見つからない。
こんなことは初めての経験だ……。
僕が乗っているのはおんぼろのママチャリだ。ふらふらと急坂を蛇行しながら必死でペダルをこぎ続けた。
あと少しで見えてくるはずだ。あともう少しで……。
肩で激しく呼吸をしながら立ちこぎでペダルを回し続ける。永遠に続くと思われた激坂の頂上に差し掛かり夏の太陽が僕の背中に容赦なく降り注いだ。
手の甲で額の汗を拭った次の瞬間、一気に視界が開けた。
真っ青な海を背に対照的な白い壁の洋館が現れる。そのコントラストに思わず目が眩んだ……。
「あっ、陽一お兄ちゃん、おかえりなさい!!」
青々とした広い草原を切り裂くように、目的地の洋館に向かって一直線の道が伸びる。
建物の前にある屋外の物干し台で、洗濯物の白いシャツを小脇に抱えたままの彼女が満面の笑顔で僕を出迎えてくれた。白いワンピースの裾が風に揺れる。
「ただいま、真美!!」
「暑かったでしょう? 自転車で離れた街まで真美の買い物を頼んでごめんなさい。先にシャワーを浴びればいいのに……」
取り込んだ洗濯物の中から真美がタオルを用意して、僕の額や首回りの汗をていねいに拭いてくれた。
夏の日射しをいっぱいに吸い込んだタオルの感触が肌に心地良く感じられる。
「こんなに汗びっしょり!? 陽一お兄ちゃんの具合が悪くなったら私、困るな……」
心配そうに僕の額に手を当てる。
「……大丈夫!! 真美の顔を見たら、急に元気が出たから……」
「本当に陽一お兄ちゃんは調子がいいんだから……。もし、夏風邪をひいても真美は絶対に看病しないからね!!」
「ごめん、ごめん、ちゃんとシャワーも浴びるから。そうだ!! 真美も一緒にお風呂に入らない?」
さらに調子に乗った僕の冗談に、みるみる彼女の顔が赤くなる。
「陽一お兄ちゃんなんか知らない!! 真美、もう口を聞かないから……」
頬を膨らませながら、ぷいっと横を向いてしまった。真美の笑顔を見た途端、つい嬉しくなってしまった……。
ちょっとやりすぎたな。慌てて謝ろうと一歩踏み出した途端、僕は足元に置かれた洗濯かごにつまずいた。
その拍子に身体のバランスを失って、思わず目の前の真美にしがみついてしまった……。
「おわっ!?」
「きゃあ!!」
大きな洗濯かご一杯の中身を派手にぶちまけながら、もつれ合うように地面の芝生に倒れ込む僕と真美。大量の洗濯物が二人の周りに散乱する。偶然、その中の白いシーツに僕は視界を奪われた。
「な、何だ!? 真美、前が見えないぞ!!」
「ふふっ、陽一お兄ちゃんったら、びっくりして子供みたい!!」
慌てて目の前のシーツを自分の左手で剥ぎ取った。
ダブルベッド用の白いシーツは大きくて、二人が余裕で包み込まれそうなサイズ感だ。
真美はいたずらっぽい微笑みを浮かべながら、僕の頭にもう一度シーツを被せてきた。
「ぶはっ!? いきなり何をするんだよ、真美!!」
白いシーツに包まれながら至近距離でお互いを見つめ合った。
夏の日差しがシーツ越しに降り注ぎ、自然のレフ板のようにキラキラとした太陽光を僕たちの顔に浴びせかける。
「小学生の頃と同じだね……」
真美が先に口を開いた。
「えっ、同じって何が?」
「私が放課後の河原で、陽一お兄ちゃんを驚かせたのと同じ。あの日も真美のスカートを頭に被せられて、目を白黒させていたんだよ!!」
そうだった、忘れもしない。僕が左利きのせいでクラスの男子たちとケンカになりかなり落ち込んでいたのを、あの河原で真美が必死に慰めてくれたんだ。
まさかスカートを頭に被せられるとは思わなかったが、偶然、彼女のスカートの下に見えた白い布地と共に今でも鮮烈な思い出だ……。
――真美のワンピース姿が大好きだった。
僕の想い出の中の彼女はいつも水色のワンピースを
「夢みたい!! また大好きな陽一お兄ちゃんと一緒に過ごせるなんて」
「真美……」
「なんてね、一人ではしゃいで私、恥ずかしいかも……」
急に照れたのかシーツの端を両手で引き上げ、顔を隠そうとする真美。
頬を覆ったシーツの白い布がまるで花嫁衣装のケープ姿に思えた。僕はそんな彼女を心の底から愛おしいと感じたんだ……。
「真美、僕と一緒に暮らしてくれて本当にありがとう」
じっと見つめる僕の視線を、何故か不意に逸らす彼女。
どうしたんだ、何か心配事でもあるんだろうか?
「……陽一お兄ちゃんには悪いんだけど、もう駄目みたい」
「えっ、駄目って……!?」
「だから、もう一度洗濯をやり直さないと駄目みたい。
だって白いシーツも、お兄ちゃんのシャツも泥だらけだから……」
気が付くと僕たちの周りにはベッドシーツを始め、地面で汚れてしまった洗濯物が散乱していた。
無言で真美とお互いの顔を見合わせる。
「ぷっ、あははは!!」
そのまま、ぎゅっ、と抱き合いながら笑い転げる僕と真美。
そして腕の中の幸せが消えてしまわぬうちに あの日どうしても言えなかった想いを告げた。
「……おかえり、僕の大好きな真美!!」
「ただいま、私の大好きだった陽一お兄ちゃん……」
夏に咲いた
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