第3話 P.T(3)
「次はー終点……」
そんなアナウンスで芽森は飛び起きた。一瞬状況を掴みかねたがすぐに思い出し、心臓がせわしなく働き始めた。彼女が高確率で別の駅にすでに降りたであろうと考えたからだ。だが、彼のそんな悪いシナリオはまやかしであった様で、集中して、彼女の人型を何もないところに当てはめていくように見渡すと、彼が眠りに堕ちた時と同様の場所に彼女は立っていた。彼女は長時間立ちっぱなしで疲れているのか、足をそわそわさせて壁に寄りかかっている。座席は有り余るほどに空いているのに頑なに座らないのは何か理由があるのだろうかと、彼は少し寝ぼけた頭で考えていた。この電車はかれこれ2時間半ほど走っているようだ。
(この電車で終点までって……県二つほど跨いでないか? なんでわざわざそんな遠いところから……)
眠たげな眼をごしごしと擦りながら芽森は訝しげに見つめた。こんなに人のいない状況下でジッと見つめられているにも関わらず、少女は気づくそぶりも見せなかった。恐らく、気づかれない体質のせいで自身に視線が集まるときの、独特の寒気というものを知らないのではないか。芽森はそう思いながら小さく伸びをして、口を小さく開けてあくびをした。
不意に身体が右側に引っ張られた。どうやら終着駅に近づいてきたようだ。彼女はグッと体制を整え、コツコツとローファーを鳴らしながら芽森の座っている一番近くの扉の前に立った。彼女のスカートがさわさわと彼の肘を撫でた。芽森はすぐ横に彼女がいるという状況にぞわぞわと動悸が少し起こり、身体がこわばった。彼女のにおいが彼の鼻をくすぐる。香水類を余りつけないのか、自然な女性の香りがした。それでいて、その匂いは、卑しいわけでもなく、そのような気持ちにもさせなかった。
「終点ー、終点です。足元にお気をつけて……」
アナウンスに合わせて扉が開いた。扉が完全に開くのを待ってから彼女はすっと扉を通り抜けていった。芽森はそのあとを少し遅れて出ていった。大きめだが少しさびれた駅で、人も少ししか残っていなかった。ひび割れたコンクリートが寂しさを一層引き立てている。
彼女はICカードを使って改札を通った。その様子を見ていた若い駅員がひどく驚いた様子で、後ろに腕を組んで座っている上司と思われる駅員に話しかける。上司はいつものことだといわんばかりに眉をひそめて手を横に振った。おそらく彼女が見えていないから、改札が勝手に開いたように見えたのだろう。
芽森も自身のICカードを使って改札を通った。900円ほど払う羽目になってしまったが、彼女を見失わないように集中していたこともあって、彼はその無駄ともいえる出費に気づくことはなかった。
外に出て、その特有のまぶしさに思わず眉をひそめる。どうやらこの町は今日曇りのようだった。春に成り切れていない風が芽森の顔を冷やしていく。恐らく彼女の顔も足も同様に。太陽の光の温もりを今一度教え込まれたように感じた。
駅を少し出てすぐ右に曲がった場所に、この閑静な街には気味の悪いほど似合わない、広いスクランブル交差点が広がっていた。反抗期の風たちはこれを機に、と言ったようにビュウビュウと音を鳴らして交差点を駆け回っている。歩行者信号が赤い光を発している。車はほとんど通っていなかったので、芽森はすきを見て通れそうだと考えていたが、彼女は律儀に信号の許しを待っていたので彼もそれに従うことにした。
おおきなトラックが一台通っていった。思わず耳を塞いでしまいそうな轟音だ。彼女は少しその音にびっくりした様子を見せた。
トラックが通っていったと同時に歩行者信号が青に変わった。トラックの音も去ったあと、信号から流れる軽快な音も聞こえてきた。二人は信号を足早に通っていった。
その先、信号を向こうまで渡った後、少し歩いて右に曲がる。さびれたビル群、といった印象を受ける景色が見えた。ただ、その中に比較的新しい雰囲気を帯びたビルがあった。壁が白に塗られており、あまり剥げていない。ほかのビルがさびれている分、特段目を引いた。それだけでなく、「聳えている」という言葉をモデルにこのビルが作られたのではないか、と思われるほどに高く設計されている。芽森は思わず口を開きながら見上げた。
いかんいかんと、彼は頬を叩いて、また彼女を見つけ出す、すると彼女は、驚いたことにそのビルの前で足を止めていた。彼女もこのビルに目を奪われたのかとも思ったが、そうではなく、彼女はそこに入っていった。
急いで彼もビルに入ろうとする。しかし、不法侵入という言葉がよぎり思わず足を止める。彼の特殊な潔癖症が表に現れたようだ。このような潔癖は善良な人間でなくとも持ち合わせているが、彼はそれが少し強かった。足を止めたことにより、入り口にある看板が目に入った。荘厳のようで、手書きのようにも感じる変わったフォントが目に入る。そこには「果無研究所」と大きく書かれていた。その文字に、彼の生得的好奇心が強く刺激された。そして彼は、自身の内に眠る絶対的タブーを破る決意をした。入り口の前にある階段を一歩一歩進んでいく。カツカツといった音が、彼の夢見心地の脳を現実にゆっくり引き戻していっている。彼はこの音を以てして、現実にタブーを侵している事実に身を寄せ、警戒することが出来た。階段を登り切り、取り付けられている扉を見たとき、彼は完全にボーダーラインを越えてしまったことを自覚した。
この時、彼はボーダーラインを越えてしまっただけでなく、平穏な運命の糸も焼き切ってしまったように思われる。きっとそうだろう。そうしたのだから。
そっと、割れ物でも触るかのようにドアノブを握り、音を鳴らさないようにゆっくりと扉を開けた。白い廊下が目に入り、思わず瞑る。眩しい蛍光灯の光が、曇り空に慣れた芽森の目を刺激したのだ。芽森は手を額に当てながら廊下に出た。オフィスのようなにおいが彼の鼻をつく。彼は足音を鳴らさないよう忍び足でそろそろと歩いて行った。廊下には白い扉が数十個あった。
「この中から彼女のいる部屋を見つけ出すのか……しかもバレずに?」
芽森は眉をひそめたが、自身が始めたことであるので、何にも文句を言えず、忍び足で一つ一つの扉を確認していった。幸い新しめの扉であるので、音を鳴らさずに、少し開けて中を覗くことが出来た。
「ここも違う、ここも違う……うわ、ここカギかかってる……ちょっと音なったけど大丈夫かな……、ん?」
部屋を一つ一つ確認していると、少し先から話し声が聞こえてきた。
「学校は……あれは……、そうかー……」
男性と誰かの話し声が聞こえる。ただ、男性の声は比較的はっきり聞こえるのだが、話し相手であるはずの人物の声がいやに遠く、全くと言っていいほど聞こえなかった。このフィルターがかかったような声を聞いて、彼は直感的に彼女であろうと考えた。消え入るような彼女の雰囲気を彼はその雑音のごとき声から感じ取った。
声をたどって彼はある一つの扉にたどり着いた。ほかの扉とほとんど見分けのつかない扉だ。幸いカギがかかっておらず、気持ちよくドアノブを回すことが出来た。彼は音を鳴らさないように気を付けながらそっと覗けるほど開けた。
中では一人の若めの男性がオフィスチェアに座りながら話していた。白衣を着ており、ネクタイがちらりと見える。足はすらっと伸びているが、座りながらの仕事が多いのか、病的に細い足だ。男性にしてはかなり長い髪を雑にポニーテールで結んでいる。長い前髪は白いメッシュが入っているが、それ以上の手入れされておらず、右目が隠れている。隠れていない左目は垂れた一重で、優しい印象を受けた。
その研究者と思しき男性は、同じく前にあるオフィスチェアに向かって話しかけていた。そこには誰も座っていないように見えたが、ゆっくりと左右に動いている。この動き方は自然のものではなく、間違いなく人的なものだと彼は思った。
(あの椅子に彼女が座っているに違いない……)
芽森はグッと目を凝らして椅子を見た。ただ、さっきのようにはいかず、うまく見えずに彼は難儀に思っていた。そして、会話も聞こうと耳も凝らす。すべての感覚をこの部屋に一点集中させた。
その時、ガシッと誰かに肩を掴まれた。芽森は全ての血液が抜けていくような、心臓が先行して逃げて行ってしまいそうな感覚を覚えた。彼は止まらない震えを抑えながら恐る恐る後ろを向く。
「な、なにやってるんですか。あなた……」
神経を集中させていたので、彼は後ろに歩いていた女性研究員に気づかなかった。女性研究員は、焦りからか、恐怖からか、青ざめた顔で芽森同様震えていた。
「い、いや、あの、あ、あ、あ、怪しいものでは……」
手を力いっぱい横に振って否定する。行き場のない舌が暴れまわりうまくしゃべれない。目も同じような状態であった。すると、後ろの扉が大きく開いた。そこから、先ほどの男性が顔をのぞかせる。騒ぎを聞きつけたのだろう。
「なんだい、なんだい。騒がしいなぁ。そんな蜘蛛の子を散らすような声で……」
頭を掻きながら面倒そうに言っていたが、芽森を見た瞬間少し驚いた顔をした。
「誰だい……? 君……」
芽森が言い訳を考えて固まっていると、男性の後ろからひょこっと何かが顔を出した。それは例の彼女だった。
(さよなら……僕の人生)
そう思いながら彼は観念し、額を地面につけた。
「ごめんなさい!!」
今の彼にとって唯一の幸運は、彼女の顔がはっきりと見えないことだろう。
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