第9話 Passion fruit (4)

「最近のこの町、ちょっと不気味だよなー。芽森がなんか怖いこと言ってたし、火の玉みたいな女の子がおっさん襲ってたし……」

 米倉勇慈はそう呟きながら、何かを考えたわけでもなく、町にある大きなショッピングモールへと入った。

 今日は何かの記念日のようで、いたる場所に風船が浮いている。そのおかげか、いつもより天井が高く感じられ、米倉はかのシスティーナ礼拝堂を思い起こした。そう考えると、空中に浮かぶ風船が天使のようにも見える。家族づれも多く、子どもたちは喜びながら天井に手を伸ばしたり、指を指したりして、簡易的に作られた天井画を楽しんでおり、その様子を見て親たちは、子どもを落ち着かせるような素振りを見せている。しかし、当の親たちもこの光景に心を奪われているようで、立場上仕方なく大人然とした行為に至っているようにも見えた。或いは、はしゃぐ子どもに対して、無意識に自身の子ども時代を投影し、それによって心のうちに一種のノスタルジーが生み出され、不覚にもそれに浸ってしまっているのかもしれない。米倉は後者であると考えた。が、その後、その自分の考えが夢見がちな若者の考えに思え、米倉は少し笑った。

 米倉は、壁に貼られたセール中を知らせるチラシの一つに目を止めた。燃え盛る炎の背景に、『決算セール!!』と橙色で強調された文字が大きく書かれている。米倉は目に突き刺さるような錯覚を覚えた。

「ゲームも安くなってるんだ……、へー……、あ! これ、俺が前に芽森から借りて壊しちゃったやつじゃん! 芽森は弁償なんていいって言ってたけど……やっぱしなきゃだよな!」

 そう思い立ち、米倉はカバンからいそいそと財布を出し所持金を確認した後、くだんの電気屋がある3階に向かうべく、エレベーターに向かった。がしかし、家族づれが多いことも相まってエレベーターはすし詰め状態のものしかやって来ず、エレベーターホールも人であふれていた。イチゴのような模様が描かれた風船を笑顔で持っている子供や、孫に無理やり連れてこられたであろう疲労気味の老人、久々の外出なのか、やけにはしゃいだ様子で、乳児を抱えた夫を連れる女性などもいた。エレベーターホールの真横には、手洗いに続く道もあり、そこには長蛇の列が出来ている。あくびをしながら待っている人や、我慢しているのか妙に落ち着かない子供もいた。その列と先述の群衆が混ざり合い、ここの様子は正に混沌としている。米倉は、自分は若いんだし、と妙な理由をつけて、エレベーターを快く諦めた。その代わりとして、エスカレーターを使おうと思ったが、丁度近い場所に階段へと続く道があったため、そちらに行き先を変更した。

 家族連れたちは皆エレベーターに乗ることを目的としているのであろう、米倉は先ほどの滞りが冗談であったかのように、彼らの間をするすると通り抜けることが出来た。階段は、人ひとり見当たらず、耳が詰まるような静けさを放っている。その様子は、米倉に先ほどの喧騒は幻だったのか、と思い違いをさせるほどだった。米倉は階段を上っていく。足音が反響して、彼の中の現実感といったものが少しずつ増していった。米倉はスマートフォンを取り出しSNSを見始める。この時の視界というのはまさしく厄介なもので、自分では見えている、と思っているのだが、その実、目を瞑っているのと同じ位それは狭く暗いものである。案の定、彼が1.5階から2階へ上がる際、2階から降りてくる女子高生に彼は気づかない様子だった。尤も、彼女も前をよく見ていないようなので、お互い様の面もあった。

 彼と彼女はそのまま衝突してしまった。幸い階段を上る前に衝突したので、階段を転げ落ちるという災難は、互いに回避したようだ。しかし、女子高生はバランスを崩してしまったようで、大きく転倒した。何か大きなものが飛び出る音が数回。どうやら彼女は童話を何冊も持ち歩いているようで、それらが落ちた音であるようだ。奥に飛んで行った、一層古びた様子の一冊は衝撃で開いてしまったようである。

「うわ、眠れる森の美女だ……それにグリム童話集がこんなに……って、そんな場合じゃない! 大丈夫ですか! すいません、俺前見てな……く?」

 米倉は多数の童話に目を少し奪われた様子だったが、すぐに我に返り女子高生に駆け寄ろうとした。が、そこに高校生の姿はなく、そこには、水色と白色の、メイド服のようなワンピースを着たゲルマン民族系の白人の少女が、脚を擦りながらこちらを見ていた、見たところ6,7歳ほどか。奥にある開いた童話からは、いかにもメルヘンチックで煌びやかな光が放たれており、そこから口が裂けてしまうほど笑顔の猫が、香箱を組んだ状態で飛び出してきた。

「は、え? あのひとは?」

 米倉がただ慌てていると、白人の少女は、綺麗な蒼眼をキッと睨ませ、頬を風船のように膨らませた。先ほど転んでしまったせい(白人の彼女が例の高校生と同一人物なのかは、米倉にとっては甚だ疑問に思われたが)か、彼女の健康的な色の唇には、二、三本金色の髪が入ってしまっている。その躍動的な様子や、階段特有の薄暗い照明が生み出す明暗は、正にバロック絵画のようで、米倉の息をのませた。そんな彼に向け、彼女は少女特有の舌足らずでこういった。

「いけないわ! いけないわ! そんな”ひかるいた”にめをうばわれて、まえをみないなんて!あなたのようなひと、きっと、きっとジャバウォックにたべられてしまうわ!!」

 そう少女が言った後、猫がしっぽを振り、長い爪を鳴らしながら彼の近くに寄った。それはにやにやと歯を光らせ口を開いた。

「くるってる。おれも、アリスも、お前も!」

「うわぁあぁあ!」

 米倉は、突然起こったこの不可解な現実に目を塞ぎながら、身を仰け反らせて叫んだ。それと同時に、何かを閉じるような小さな音が、可愛らしく耳に駆け寄った。その時米倉は、何か恐ろしい物語が終わった安堵感のような、紙芝居が終わった後の、あの奇妙な高揚感や空虚感を覚え、目をゆっくりと開いた。

「すいません……、大丈夫ですか? あたし、前をよく見ていなくて……」

 前には、先ほど彼とぶつかってしまった女子高生が立っていた。キリリとした眉に、力強いアイラインの一重、薄い唇には、うっすらと赤い口紅が塗られており、長い髪をくるりんぱできれいにまとめている。その見た目は20代を経験したかのような大人びた印象を出しており、身に着けているセーラー服や学生カバンが、辛うじて彼女を学生たらしめていた。どう考えようとも、彼女をあの少女と見間違えるわけはなかった。

「え?あれ……、さっきの小さな子は? 変な猫は?」

「え?あ……、なんの、ことです?」

 その女子高生は米倉から目をそらした。この状況に芽森が遭遇していたならば、彼女のこの反応に、大きな疑問を抱くはずだが、生憎米倉はこのような機微に繊細に反応する才能を持ち合わせてはいなかった。

「白昼夢なのかなー……」

「白昼夢……、そうそう! 白昼夢! きっとそうですよ」

 女子高生は人差し指をクルクルとさせて言った。

「そう……、ですよねー。あんなへんなもの……、あ! すいません。本の回収手伝います」

 そういって米倉は、のろのろと立ち上がり、周りの童話を回収していった。

「ああ、ありがとうございます」

 そう女子高生も応答し、同様に本を集めていく。彼女が持ち歩いているのはその殆どが本革装であり、一冊持ち上げるのにも多少力を入れなければならないほどに重かった。

「そんなに怒らないでアリス……、あたしも前を見てなかったんだから……」

「え? 何か言いました?」

「ああ、いえ。こちらの話で……。はは……。ああ! 回収ありがとうございます」

 彼女は手を左右に振りながら、感謝の言葉を述べた。

「……大丈夫ですか? これ、男の俺でも結構重いんですけど……」

「はい、もう慣れましたので」

 彼女はそう口にした後、愛想笑いとも取れないほどの薄い笑みを浮かべ、本を受け取った。そして少しよろけた後、学生かばんに一冊一冊丁寧に入れていった。見た目に反しスペースがあるようで、入らないだろうと感じるほどの本の山を、彼女はあっという間に収納してしまった。

「回収、手伝ってくれてありがとうございました。あと、ぶつかっちゃってごめんなさい」

 彼女はそういって去ろうとしたが、米倉は、彼女の死角にある一層古びた本が忘れられていることに気が付いた。先ほどの奇妙な現象が起こったときに、開かれていた本である。いつの間にか閉じられていたが。

「あれ? あの本忘れてません?」

 米倉がそう指摘すると、彼女は、先ほどの本を全て抱えているとは思えないほどに素早く動き、その童話本を回収した。そして、大きな傷がついていないか確認しているのだろう、それをクルクルとまわしながら隈なくチェックした後、大切そうに胸に抱えた。

「よかった……本当に。見つけてくれてありがとうございます! では、今度こそ失礼します」

 彼女は深く礼をした後、機敏な動きで階段を去っていった。去り際、米倉はその一層古びている本が少し気になり、彼女の感謝に応答しながら、その胸にある本の題名をちらりと見ていた。そこには、薄れた金メッキで『ALICE'S ADVENTURES 不思議の国のIN WONDERLANDアリス』と書かれていたようだ。

 米倉は、電気屋へと向かうために階段に足をかける。すると、足先に何かが当たる感覚があった。不可解に思って足元を確認してみると、そこには学生証らしきものが落ちていた。

「これって……、さっきの人のじゃん。届けないと。んー、でももうどっか行っちゃったしな……、あの速さじゃもう遠くに行ってそうだし。一応持っておくか。……うわ、賢い高校だ。名前は、奈紗莉なさり来夢こゆめ……個性的な名前……いや、こんな悪趣味なことやめよ……」

 米倉はズボンのポケットに、それを丁寧に入れた後、階段を上っていった。

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