三月三日(一)

 そして、私は“始まり”に辿り着いた。

 何だかおかしな日本語になってしまった気もするけど、私が考えていた「始まり」は――つまり青田さんに説明しようと考えていたのは――この日に私が体験した出来事から。

 説明が問題の「三月三日」に近付くに従って、私は座り方を忘れてしまったような気持ちになっていた。実際にはもちろんそんな事は無く、私は安っぽい学食のプラスチック製の椅子にきちんと腰を下ろしている。

 ジーンズの、ごわごわした感触も確かに感じる事が出来た。

 やはり私はあまり話したくは無いのだろう。渡良瀬遊水地への旅行の顛末の後半、つまり追い出しコンパの説明についてはさっさと済ませてしまったのも、手早く済ませたいという望みがあるからだと思う。

 実際にコンパでは大した出来事は無かった事も確かなことではあるし。


「――神田さんの様子がおかしい。いや、もっと限定すると衰弱していたように見えた」

 青田さんの確認に私は頷いた。

 三月三日。あの日、私の前に現れた和夫さんは変わり果てていた。最初に考えたのは病気――それもガンとかそういう大病を患ったのではないかと。あるいは、そんな事を告知されたのではないかと。

 あの時の和夫さんの出で立ちは、ベージュ色のタートルネックのセータ。それにグレーのジャケット。

 思い返してみれば、それは渡良瀬旅行の時に和夫さんが来ていたものと同じ取り合わせだった。私はそれに気づけなかったのか。

 いや同じ取り合わせだったから、表情や様子の違いが際立ったのかもしれない。

 目は落ちくぼんでいて、頬も痩けていたような。顔を上げないまま幽霊のようにフラフラと歩いていた。

 そんな和夫さんの様子を表現するなら、それは青田さんが言うように「衰弱」と言うことになるのだろう。

「それが昼過ぎのことだと。当然その後は――」

「ええ、病院に行こうと言いました。ですが、和夫さんはそれを嫌がるんです」

「それは病院を嫌がっているということですか?」

「ああいえ……そうではなくて、病気では無いと。だから、病院行くまでのことは無いって」

 だけど私にはそんな風には見えなかったわけで。

「では、とにかく休もうという流れになりますね」

 青田さんから、見透かしたような言葉を送り込まれた。私はその勢いに押されるように深く頷く。

「休むのは当然なんですけど、どこかで腰を下ろそうとか、そういう考え方も悠長なように感じて……」

 結局は和夫さんの部屋に行くことになったのだ。

 病気では無いにしても、調子が悪いことについては和夫さんも認めるしかなかったようで、実際足元もおぼつかない様子ではあったのだ。

「地元が群馬ですから、神田さんはこちらに部屋を取られているわけですね。この大学の周りにも学生向けのアパートやワンルームマンションが多くあるんでしょう」

「そうだと思います。それで、和夫さんの部屋というか住んでいる場所が、何か古いというか、廊下が屋内にあるんですよ」

「廊下が屋内……? ああ、木造で古い感じで、ガラス戸の両開きの扉がある玄関があって、すぐそこに下駄箱があって、スリッパに履き替える感じの?」

「ああ、そんな感じです。……もしかして一般常識ですか?」

「いや、それはどうなんでしょうね? そういった環境にノスタルジックを覚える方もおられるでしょうけど、別に知っていなければならないということも無いと思います。今回は私が想像しやすかったので、その点では幸運でした」

「その点?」

「結局、そういった部屋に住むことは不便ということになるんでしょうね。その不便さと家賃を比べて、神田さんはそういった部屋を選ばれたんでしょうし」

 つまりそういった部屋を選ばざるを得なかった選択肢の少なさが、和夫さんの不幸ということだろうか。

 ……いや、それなら「ノスタルジックを覚える」なんて言葉は出てこないはず。

 青田さんの言葉の意味が読めない。それ以前に意味なんて無いかも知れない。

 だけど今は……

「……そう、ですね。廊下も歩くだけで軋む音が聞こえてきました」

 青田さんの話に付き合うしか無い。

「では、部屋までお送りになった?」

「ああ、そうです。肩を貸して、それで廊下がさらに軋んだのかも」

 二階建てだったけれど、和夫さんの部屋は一階にあった。それは確かに幸運だったのだろう。玄関を中心に左右に廊下が延びている造りで、それぞれの突き当たりに窓が設置されていた。

 採光に関しては十分とは言えないだろう。けれど昼の間は蛍光灯すら点けないみたいで、あの日は曇りだったせいもあって随分薄暗かった。

 確か……部屋の扉は三つ並んでいて、和夫さんの部屋は左側に伸びた方で、その真ん中だった。

 ベニヤ板にも思えた扉を開けると、あまり広くもない部屋の全貌が視界に収まる。

 最初に目に付いたのは敷きっぱなしの布団で、和夫さんはそれを畳もうとしたけれど、私はそれをやめさせて、そのまま和夫さんに横になって貰った。

 そこで一旦部屋を出て玄関の方向にとって返し、コップに水を汲んで――

「常備薬はありましたので、よくわかりませんでしたが、とりあえず風邪薬を飲ませました」

「神田さんが抵抗されるようなことは?」

「ええ、それはもう形だけみたいなもので。布団に横になることで、気が緩んでしまったのか、何とか上着だけは脱いで貰いましたけど」

 それをハンガーに吊すことで、私は和夫さんの部屋を上から見下ろす形になったのだ。

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