語りかける

「先生はこう言ってくれました。まず君は悪くない、って。君が生まれてから、何も知らない、何もできない幼い時に大人から受けた影響が君の行動の元になっている、だから全て君の周りの環境に原因があるんだって。でももし君がこれから大人になって社会に出るなら、人に迷惑をかける行動をする場合、社会は君を排除しなければならない。だからこれから歩き方を学んで、前に進んでいけばいいんだって」

 男の声が幾分和らいだ気がした。私もはっきりとは覚えていないが、そんなことも言ったかもしれない。

「そうだよ、過去は変えられない。だから今から変わればいんだ」

「はい、その後これを渡してくれたんです」


 そう言って男は手に持っていた刃物を見せた。よく見ると、ぎざぎざのついた果物ナイフのようなものだった。思い出した、あの時の少年か。


「先生覚えてます? このナイフに紙粘土を練り込んで、周りをきれいに包んで見せたんです。人間ってみんなこんなもんなんだよって。中身はみんな尖ってたり傷を持ってたり色々だって。これは自分が物心つく前に作られたものだから、どれだけ醜くても変えられないし、その人のせいじゃない。どれだけ傷物だったとしてもその周りをうまく、この紙粘土みたいに形作っていけば、外見上はきれいに見える、それでいいんだって。いつか粘土が崩れて醜い部分が見えてきたら、また練り直せば良い。それを繰り返せばいいんだって」


 そうだ、その通り。彼らは被害者だ。我々だって数多くのにある傷を抱えながら、隠しながら生きている。しかし彼らのそれは我々の想像を遥かに絶するハンディを背負わされているのだ。社会がそれを救ってあげなければならない。


「その後先生言ったんです。もし君が前に進みたいなら、どうすればいいかその答えを私は持っているって。もし聞きたくなったら会いに来なさいって。あの時の自分はよくわかんなかったから、聞けなかったけど、今になってちょっと気になっちゃって」


 やっと私は自分の肩に力が入っていたことに気づいた、そして抜いた。幾分空気も暖かくなってきた気がする。そろそろ電気を点けてもいいかもしれないと思った、実際点けておけばよかったのだ、この後にあんなことになるのなら。


「君はその話を聞きにきたのかい?」

「はい」

「不法侵入してまで?」


 男はしばらく沈黙してから小さく頷いた。


「あの……どうすれば会えるか、わかんなくて——」


 はあ、とため息をついた。人に会いに行くのにガラスを割るやつがあるか。まあいい、私は思ったことをいうことにした。


「君のことは覚えているよ、あの時言いたかったことはね、あの時の君にはわからなかったかもしれない。でも今ならひょっとしたらわかるかもしれない、今君はこの言葉を受け止める器を持っている」


 男が少し顔を上げた。暗くてよくわからなかったが、決して清潔な顔立ちはしていなかったが、その瞳はまっすぐ、まるで少年のように透き通って見えた。


「君は両親にひどい仕打ちを受けた、恨む気持ちもわかる。君の両親がしたことは決して許されることではないし、許す必要もない。でもね、もし君が前を向いて進みたいなら、君は許さなければならない。君の両親を、ではなくて君自身を」


 後ろで強い風が窓を叩きつける音がした。


「憎しみや恨みはその相手に向けられるものではなくて、君自身を縛り付けている鎖なんだ。もし君が楽になりたいなら、もし君が少しでも君の人生で憎む相手を減らしたいなら、それは相手を殺すことじゃない、殴ることじゃない。君が相手を許すこと、憎まなくてもいい心を持つことなんだ。そこに行きつかない限り、君は一生その鎖から逃れることはできない」


 男はじっとこちらを見つめていた。


「あんな……ひどいことをした人でも、ですか」

「そう。もちろん簡単にはいかないのは分かっている。今できなくても良い、5年後、いや10年後でもいい。なんなら一生できなくても良い。でももし君に少しでも今より輝いた未来があるとしたら、それは君が君のご両親を、そして自分を許している姿がそこにあるはずなんだ」

「許す……自分を——?」

「そう、10個、100個ひどいことをされたと思う。でももし1つでも何か良いことを見つけられたら、それだけを考える。それ以外は考えない。その1個に感謝する、感謝し続ける。それは君のご両親のためではなく、君自身のために」

「良いこと……なんか——」

「あるじゃないか、一つだけ。とても大きなことが」


 男の手が震えているようだった。


「君がこの世に生まれることができた。望まれようと望まれまいと、どんな理由であれ君の両親がいなければそれは成り立たなかった。それ以外はもうどうでもいいよ、でもそのことに感謝したい。少なくとも私は感謝している、見ず知らずの君の両親に。だってこうやって君と出会えるチャンスをくれたんだから」


 男の手だけでは無い、顎が震えていた。鼻をすする音が響いた。


「こんな……自分でも、ですか」

「君、何を言ってるんだ」

「もし、自分を許して、あの人のこと許せたら、自分も少しは先生みたいな……立派な人に、なれますかね」


 男が顔を上げた、初めて上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔からは笑みが溢れていた。やはりまるで少年のように無邪気な笑顔だった。


「やっぱり先生だ。もっと早く、先生に出会ってれば、こんなことには、ならなかったかも——」


 何かおかしい。そう思った時はすでにことは動いていた。数人が、玄関を抜け、私の家に入り込んできた。


「止まれ!」


 低く、力強い声が響くのと同時にライトが男に照らされた。

 眩しすぎるその光に男は目を覆うべく、手を上げた。それからここからは推測だが、男は辺りが見えないがゆえにどちらに行けば良いのかわからなかった。

 不幸なことに、そのふらつく姿はナイフを振り上げ、突入してきた警察官に襲いかかるように見えた、のだと思う。

 「思う」というのは、もうそれを確認することは叶わなくなってしまったからだ。

 正当防衛を行使した警察官の1発目の銃弾は男の肩をかすめ、2発目は腹部を貫いた。男は倒れ込んだまま、結局目を覚ますことはなかった。

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