闇に浮かぶ影
振り返った闇の空間に、人影が立っていた。月明かりにぼんやりと照らされたのは幾分小柄な人間だった。私は喉をしめられたように、言葉を失った。相手も何をするでもなく、ただそこに立っていた。
私は殺されるのだろうか、ただただ心臓が胸を叩く音だけが強くなっていった。まるでへびに睨まれた蛙のように、まったく動けなくなってしまった。
しばらく向かい合った後、最初に口を開いたのは相手だった。
「あの……木沢先生、ですか」
男の、少し高い声だった。
ぼそっと、うつむきながら放たれた言葉は、私の名前を呼んでいた。
「そうですが。何か?」
男の表情は読み取れない。うつむいたままじっとしていたが、ようやく目が慣れてくると、男の右手に刃物が握られていることがわかった。
「先生……10年前にお会いしたことがあるんですが、覚えてますか」
淡々と告げられる文章には色がない。恨みや悲しみ、懐かしさ、そのどれをとっても当てはまらない。私は10年前何をしたのだろうか。
「あの、少年院です。先生が見学に来た時です」
10年前、少年院。確かに訪れたことはある。少年院だけではない、私は創作のヒントを得るために、さまざまな施設を訪れたことがある。少年院を始め、児童養護施設、外国人労働者の訓練所など暇さえあれば話を聞きに行っていた。だが当然、目の前の彼のことは覚えていない。失礼なことは言っていないとは思うが。
「覚えてないですよね、10年も前のこんな自分のことなんか」
言い終えた後、ふっ、と笑みが漏れた。決して警戒心を緩めることのできない笑いだった。
「何か、私が言いましたかな?」
男はかすかに動いたようだった。しかし暗闇の中ではそれが何を意味しているのか計り知ることはできなかった。私は男の言葉を待つしかなかった。
「自分、親に虐待されてたんです。親なんて死んでも良いと思ってました、実際に殺されそうになったこともありますし」
少年院というと、反社会的組織や、いわゆる出来損ないの子どもというイメージを持つ人もいるかもしれない。しかし今はどちらかというと虐待など心の傷害を受けた子どもたちが多いという。被害者が加害者になる、二重の苦しみを彼らは背負わされることになる。
「もうどうでもいいって思ってました。そんな時先生、自分になんて言ってたか覚えてます?」
さあ、正直覚えていない。今更そんな恨みを持たれても、申し訳ないがどうしようもないではないか。そう考えていた私に待っていたのは予想外の言葉だった。
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