第2話 異界漂流
凶悪な光に塗りつぶされた白い視界は徐々に心地の良い闇の黒へと変わっていく。身体に伝わる全てが穏やかなものに変わっていく。
吹き抜ける熾烈な風は心地の良い風へ姿を変えてる。耳元で草々が揺れる音がする。
春先に感じる暖かくゆったりとしたような風と、それでいてまだ抜ききれていない冷たさによって張り詰めたような風が入れ替わり立ち替わりで頬を撫でる。
「ここは……」
青年はそっと目を開ける。荒んだ結果に至った虚な瞳でも世界は映してしまう。
瞳は焚かれたカメラのフラッシュのように点滅する強烈な光に慄いたのか、少し怯んでしまう。手庇を作って目の前の光景を見つめる。
映ったのは、大きく屹立する淡い桃色の花弁がついた巨木であった。
どうやらあの点滅は、風に揺れ差し込んだ木漏れ日のようだ。
「……いい馨り」
青年は今まで嗅いだことのない香りに、ホッと胸を撫で下ろす。彼は一面に広がる絶景に目を緩ませ相好を崩す。
美しい巨木を中心にして円状に広がる多種多様で万彩の花々には、自身が今まで居た場所とはまるで違うものが宿っているように思えた。
ここには誰かが死んで流した鼻につくような金気の混じった血の匂いもせず、倒壊した建物などが撒き散らす餌付いてしまいそうな空気もない。
恐らくここは死地だろう。消滅した先のなにか、自身が映した心象世界かもしれない。
青年は自分の心がここまで澄んでいるとは到底思えなかったが。
(心地のいい……ずっと寝ていたい……)
それでも青年は透けてしまいそうなほど澄み切った青空と空気に涙が出てしまいそうだ。それでも後悔の念は消えない。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
一度目を閉じて、自身がやったことに向き合う。最低最悪の魔王は誰にも届かない懺悔の声を嗚咽に変えて漏らす。
「うぐっ……え、あうぇ」
暗闇の中に立てば先ほどまでの光景が目に浮かぶ。突如として剣を抜いて襲いかかってきた仲間と民に、腕の中で消える命。
「アリス……」
血に濡れた手を何度も拭った。力を使おうとしたが、すでにその存在は壊れていた。
壊れた存在は元に戻せないのが、この世の常。
その手を覆い隠すかのように、別の血で濡らした。明らかに衝動的な行動で、考えなしの愚行。悔やんでも悔やみきれない自身の行動。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何分間か、何時間か分からないが目を赤らめるほどに時間が経つ。
御伽噺に出てきても相応しい場所で、彼は今一度横になり微睡む。
(ここの花々は幸せなのだろうな……誰も立ち入らない自分達だけの庭。汚されることもなく、奪われることもなく……)
一人きりとなったからか、花に心を添える。まるで自分も花になったように風に合わせて身体が揺れる。
(奪わない……何もしない……だから、私もそっとここに居させておくれよ)
身が花や草木と同化する。そこにあるのはただの平穏な心だけだ。
「あら……」
「……?」
そんな一人きりの世界に、何者かの侵略を感じる。ゆったりとした足取りでこちらに向かってきている。
身体は起こさず、顔だけを動かして声がした方へ視線を動かす。
「今日は先客がいらっしゃったのね」
青年はギョッとして顔を一瞬顰めてしまう。声の主はどうやら人間の女性であった。
大きめのハットのつばに顔は隠れてしまっているが、若く華やかな立ち姿から相当の麗人なのだろうと思わせる雰囲気がある。
普通の人であれば、そのような女性に出会えば息を呑んで見入ってしまうだろうが、青年はそれよりも【恐怖】が勝ってしまったようだ。
「どうされたのかしら……?」
怯えるようにして顔を背けてしまった青年に女性は首を傾げる。
しかし、仕方のないことなのだ。
彼女は知らない。
青年は【王】である。最低最悪の魔王であるのだから。民を信じ戦い抜き、勝利を収めながらも裏切られ同胞の血で手を汚してしまった魔王なのである。
そうして同胞であった者たちを四つの世界諸共–––––
(あれ……?)
–––––消し去った。
ならば自分はなんだ?
青年は問う。自身の存在に。
彼女はなんだ?
青年は思う。彼女の存在を。
(なぜ、生きている?)
青年達の世界は人間界・精霊界・神界そして魔界の四つだけに区分される。『だけ』というのが非常に重要で、四つの次元が相互的に作用する世界において他の次元が入り込む隙間はない。そのため人間や悪魔、精霊、神問わず死亡する時は冥界と呼ばれる死人が逝く世界は存在せず、消滅の一途を辿るか、魂が強い者に限っては転生する。
(ならば、転生したのか? いや、おかしい。何故昔のことを覚えている?)
狙って転生することは確かに可能だ。しかし、それを実行する者はいない。
まず転生できる者は前述のように限られに加えて、魂の強さは基準が曖昧なのだ。どんな困難であったとしても決して挫けない不撓不屈の精神を持つ者、愛する者を奪われ全てに復讐という目的を完遂した者、優しさを捨てずに手を掴み続けた者、いずれにしろ青年には当てはまらない。
そして転生した時は過去のことは忘れてしまう。赤子のうちはある程度覚えているらしいが数週間から数ヶ月で全て忘れてしまう。
故に転生ではない。
そもそも、元の姿のままなのだ。転生な訳がない。
(ではなんだ? なんで人間がいる?)
人類は一人残らず滅亡させた。
ならば、そばにいる女性はなんだと言うのだろうか。
(世界崩壊によって時間を超えたのか? 吹っ飛ばされたのか? いや、そんな機能はつけていない)
唯一可能性があるとすれば過去に戻ったと考えられるが、片目で彼女の服装を見る。
白いシャツのうえにゼニスブルーのガウンカーディガンを着ている。一応、そのような服装があることは知っていたが、戦争の真っ只中にそんないい服を着ているものはいなかった。
貴族であっても、良い服は礼服と数着ぐらいで外に来ていけるほどの物ではない。
それにここが過去であるならば、辺り一面の花畑など存在しないだろう。
もしかして、ともうひとつの可能性が浮かぶ。
(……いや、でもそんな。荒唐無稽なこと)
ならば確かめなければならない。
ハッとして青年は起き上がり、女性の方に身体を向け震えた口調で話し始める。
「ね、ねえ、君……」
「なんでしょう?」
女性は優しげな笑みで青年を見つめ返す。
瞳に恨みのような邪念はない。まるで自分のことなど一切知らないように。
「……ぼ僕のこと、知ってる?」
青年の質問に笑みから一転、鳩が豆鉄砲を撃ったような顔をしてしまう。
困惑しながらも、記憶を探るように考える。一刻が過ぎ、うん、と頷く。
「知りませんわ」
キッパリと言い切る彼女からは嘘をついている様子は皆無だ。
「なら、ここはどこです……?」
「………」
(すっごい目で見られてる……)
不信感と呆れを含んだ視線でじっと見てくる。
「……本当に知らないのですか?」
「え、ええ……少々浮浪の旅をしている者でして、地図もないのでここがどこなのか分からなくて」
女性は「そうでしたか」と数度頷くと、ロングスカートに着いたポケットから何やら長方形型の薄い機械を取り出す。
「お隣よろしいでしょうか?」
「あ、えぇ……と……は、い……」
渋々了承すると女性は躊躇わず青年の隣に腰を下ろす。それに対して青年は反射的に距離を取ってしまう。
「……? どうしたのですか? それでは見えませんよ。ほら」
「あ、ありがとうございます」
離れた距離を詰めて女性はその機械を見せてくる。
「これは?」
「知りませんか、リィト。魔法の産物ですわ」
「魔法……? 法術じゃなくて?」
「?」
「?」
ふたりして首を傾げてしまう。
青年の世界では人間が使う術は神より授かりし法術と呼ばれるものだ。この世界の人間は授かったのか、単独で持ち得ているかは今の青年には知り得ないが、魔法を使うようだ。
やはり–––––
「で、こうすると」
「おお……」
女性が手をかざすと、自然に機械に光が灯る。画面の中に映された数種類のマークからひとつ選ぶと、その上に緑の光が照射される。
その光は立体的な球を作り出す。球体は紛れもなく青と緑の星であり、人類が住む人間界【アスランド】であった。
しかし、その地球の大陸や海の配置は青年の知っているものではない。五つの大陸に五つの海に分かれた世界はなにか幾何学模様のようなものに見える。
女性が四つの大陸のうちグランリード大陸と書かれた大陸を触る。すると大陸が拡大され、それに合わせて球体も平らな地図になっていく。
「私たちが居るのはここ、《レガロリア王国》の
「レガロリア……ヒリト……」
どれも聞き覚えのない名前だ。そんな名前の国や都市の名前など過去に読んだ文献にも載っていなかった。
–––––タチの悪い夢かと思いたくなるが、可能性としてはこれしかない。
(並行世界、か……)
四つのバランスが取れていた次元を滅ぼした影響で、別次元の人間界に飛んできてしまった。
それが青年の考え出した結論であった。思わずため息をついてしまう。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ。困っているのであれば、助けるのが道理ですから」
「……良い人ですね」
青年は目を落としてしまう。
「今度はわたしから聞いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「では……どうしてここに?」
それはこの国にたどり着いた理由を聞いているのか、この花畑にいる理由なのか。女性の瞳が花畑に移ったことから後者であることがわかる。
どう返答したものか。
たまたまここに飛ばされただけに、来た理由はない。
けれども、
「心の禊、ですかね」
「禊、ですか?」
青年は、頷く。
「自然は雄大です。身体を預ければ何も言わずにそばに居てくれて、寝そべり誰も聞いてくれないような心の内をうわ言のように呟いても、空や木々は寡黙に聞いてくれる。そんな大きな彼らの身体をお借りして自らの罪と向き合いながら溶けるんです」
「…………」
「血に濡れた手足でここにいても認めてくれる。それだけで––––」
突然何を言い出したのか、青年自身にも分からない。だとしてもこの花々へ思いを馳せるとしたら、
女性は顔色も変えずに真摯に聞いてくれる。
「……」
「……そうでしたか、大変だったのですね」
「?」
【大変】。そう言われた理由が青年にはわからない。分かるのは、ただ何故か彼女は俯いた青年の顔から覗かせる赤く腫れぼった眼を見ていたことだけだ。
「私も似たようなものです。ここに来ると、疲れや邪念が消えます。気持ちをリセットしたい時に来るんです」
「なら、今日も?」
「ええ、抜け出して来ちゃいました」
儚く口元を歪ませる。女性は見た目によりも幼いように思えた。まだ精神が成熟していないがそれでも立派に生きようとしている。
素晴らしいな、と青年は思う。
「ちょっと困ったことになりまして……もっと、強くならなきゃいけないのに……」
その言葉には強い悲しみと後悔、そして恨みが篭っている。
こういう時、なんというべきか。
王として声をかけることは多々あったが、隣人として、しかも先ほどあった間がらでなんと声をかけるべきかわからない。
縦しんばかける言葉あったとしても、彼女にそれを告げる資格など––––––ない。
「………」
彼女は微笑む。
「もし、なにかお困りになったらリヒトにあるアリアンドラという家に来てください。数のある家名でもありませんので、直ぐ見つかると思いますよ」
「は、はあ……」
戸惑いながら青年は頷く。
「……?」
不意に彼女が口を噤む。
「え?」
女性の瞳が映していたのは、青年の傍らにあったもの。その先へと手を動かすと、あったのは一振りの剣だ。
(なんだ……?)
漆黒の両刃の剣には黄金の閃が魔法文字を刻みながら奔る意匠されており、その刃の中心には四つの宝石が並ぶように嵌め込まれている。神秘的で荘厳なその剣は青年–––魔王–––が振るう絶対最強の
しかし、いつからあったのだろうか。
「それは貴方の?」
「ま、まあ……そうですね……」
「…………」
目深く被った帽子によって表情は読めないが、女性は剣と青年に魅入られたように息を呑んでいる。
そうして口を開こうとした瞬間。
轟く悲鳴で空気が一気に張り詰めた。
「なんだ……」
「西の方角から……まさか【魔獣】が!?」
彼女は血相を変えて飛び出していった。青年はその時の彼女が噛み締めた口許に既視感を覚えた。
「……」
残された青年は首をすくめたまま、座り込む。
「この世界にも【魔族】は、いるんだな……」
濡れていない手に泥のような感覚を想起させながら、頭を抱えて項垂れていた。
その首筋をさっきまでとはまるで違う、心臓を撫でる嫌な風が吹き抜けていった。
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