第2話 呼び方
俺たちが住むマンションの住所は事前に聞いていた。
一人で一軒家に住むのは広すぎるという理由からマンションに引っ越すことになっていたが、凪沙と一緒なら別に引っ越す必要はなかったのではないかと感じる。
きっと俺の知らない大人の事情ってものがあるのだろう。
数年住んだ我が家は売り払われるらしい。少し寂しさを感じる。
「ここが俺たちの家かぁ」
「そうだね」
母さんたちを見送った後、俺たちは残った荷物をまとめてマンションに移動した。大方の荷物は業者の人が運んでおいてくれているので、ちょっとした荷物だけだ。元我が家から徒歩15分くらいで着いた。
「お前は一回来たことあんの?」
「あるよ。当然」
凪沙は自慢げに、そして来たことがなかった俺のことを嘲笑うかのように言った。
泣ける。泣けてくる。俺が今まで信じていた家族ってなんだろう……。
マンションに住むことは聞かされていたけど、内覧には行かせてもらえなかった。その理由は中に入って、すぐにわかった。
「広いな」
「でしょー。私たち二人でも広いくらい」
明らかに高校生が一人暮らしをする広さではなかった。2LDKだろうか? もし内覧でこんな部屋に案内されたら、俺も違和感に気づくだろう。
白を基調とした部屋は清潔感に溢れていた。しかし、生活感のない部屋に中々慣れそうにない。そもそも、幼馴染と二人で住むという環境に慣れる日なんて来るのだろうか。
凪沙は同居することに関して、何とも思ってないのだろうか? 一応、年頃の女の子なわけだし、俺だって気を遣う。
「お前はさ──」
「あのさぁ!!」
「!??!?!?」
手に持っていた荷物を床に置き、話しかけようとしたら、突然凪沙の高音ボイスが耳を劈いた。部屋に何もないせいか、反響している。
「み、耳が壊れるんだけど」
「お好きに壊れてください」
どうやら同居人は何か不満が溜まっている様子だ。一切こっちを見ずに荷物を片付け始めた。顔も怖い。
同居初日からこの様子じゃ、毎日喧嘩になるんじゃないか? 俺は凪沙との同居生活もそう長くは続かないことを悟った。
「なぁ、何怒ってんだよ」
「んっ」
怒気に満ちた目で睨んできた。
「こえぇよ。すぐに怒ってお前の方がガキじゃねぇか」
「また言った」
「え?」
「またまたまたまた言ったぁ!!!!」
「声でけぇって。お隣さんに迷惑だろ」
「陸人も朝、でっかい声出してたけどね。ここ壁厚いらしいから大丈夫」
そういえば、そうだった。俺の場合、外だからセーフだけどな! 多分。
彼女の言い分だと、防音に優れているから大丈夫ということだが、いくら壁が厚いとはいえ、限度ってものがあると思う。しかし、これ以上言っても火に油を注ぐことになるので、口をつぐんだ。
「わかったわかった。で、お前は一体何に──」
「それだって!!」
「……それ?」
自分の言動の何が悪かったのか見当もつかず、疑問符が頭の中に乱立する。
「はぁ、お前って言うのやめてくれる? 私、凪沙って名前があるんだから」
「お前そんなことで怒ってたのかよ」
「また言った! ふんっ」
「ぐうぇっ」
凪沙は手に持っていた枕を思いっきり投げてきた。俺は避けることができず、見事顔面に命中した。
「いってぇなぁ! いきなりぶん投げんな! 暴力女!」
「はぁ? お前お前お前お前お前お前お前って、ずーーーーーーーっと言ってくる陸人が悪いんでしょ」
「何がそんなに嫌なんだよ」
「嫌なもんは嫌なの! 名前で呼んで欲しい。それだけの理由じゃ、ダメなの!?」
「なんでおま──な、凪沙がキレてんだよ」
久しぶりに『凪沙』って呼んだ。どこか懐かしさと気恥ずかしさが入り混じった感情で満たされる。
中学校に上がるタイミングくらいから『凪沙』って呼ぶことはなくなった。そもそも関わりがほとんどなかったけど、声をかけるときは『柏木』か『お前』って呼んでたと思う。
どうして呼び方が変わったのか、明確な理由は正直覚えてない。学年が上がるにつれて、名前で呼ぶことが恥ずかしくなってしまったのだろう、と自己分析する。
「……」
名前呼びをしたというのに、無視は酷くない? 沈黙が流れ続け、ついには何事もなかったかのように荷物の整理をし始めた。
これは完全に無視だ。無視された。今日だけでどれだけ俺は枕を濡らせばいいんだ……。
「無視しないでくれるか」
「ご、ごめん」
「どうしたんだよ」
明らかにさっきまでと様子が違った。動揺が見えた。
「い、いやー。名前で呼んで欲しいと言っておきながら、いざ呼ばれると、その……恥ずかしくて──」
「なんでそうなるのに呼んで欲しいとか言ったんだよ……頭大丈夫か?」
「陸人よりは成績良いはずだから、安心して?」
「そっちの意味じゃねぇ! あー、バカらしくなってきた。なんでこんなことで俺たち喧嘩してんだよ」
「知らないわよ! 誰かさんがお前って呼んでくるからじゃない?」
「へいへい」
俺たちは自然と笑みがこぼれた。凪沙との間にあった溝は少しなくなったような、そんな気がした。
「さっきは悪かった。気をつける」
「ま、まあ、私もちょっとは悪かったし。うん。ごめん。もう大丈夫だから。名前で呼んでね」
小さな子供のような、無邪気な笑みがそこにはあった。
その笑顔を見ていると、色々蘇ってくる。そして、思い出した。
凪沙が可愛いことを。正確には過去にそう思っていた。
なんだか顔が熱くなってきた。
「ん? どうしたの? 顔赤いよ?」
「うるせー。早く片付けするぞ」
つい、可愛いと思ってしまいそうになった幼馴染のことを見ないように、別の部屋に向かうことにした。これは照れ隠しだ。幼馴染に敗北したみたいで、なんだか悔しい。
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