第2話

 狭野さのが大学を卒業してなんとかかんとかの研究室で働くようになって結構忙しいってことを俺だって知ってたけど、でも俺には狭野チェックが入ってない台本を他人に渡すことができなかった。狭野がすぐには読めない、すまん、と連絡を寄越してくる回数は徐々に増えていったけど、俺はその度に「いいよ。待つよ」と返した。何がいいよだよ、全然良くねえよ。狭野にも劇団員にも無理をさせてさ。俺は最低だ。


 でも俺には狭野しかいなかった。狭野は俺の神様だった。


 俺ん家には何もなかった。パパは社長、ママは俳優、ふたりはおしどり夫婦ってことでよくテレビとか雑誌に出てたしお宅訪問〜! なんつってしょっちゅう家の中を赤の他人に見せびらかしていたけど、ふたりはもうとっくのとうに愛し合ってなかったし、愛し合ってないふたりのあいだにいる俺はもっと愛されてなくって俺はずっとひとりぼっちだった。ママは演技が上手だから学校での三者面談の時なんかには最高にいいママを装っていたけどほんとは全然、もうマジで全然俺が生きてるか死んでるかにすら興味ない感じで、パパに至っては家にいない。俺が持ってたのはパパとママが時々渡してくれる現金と、なんかぱっと見カッコ良く見える服と、あとママにそっくりな綺麗な顔。それだけ。中は空っぽだった。


 俺の中に俺以外のものを詰め込んでくれたのは狭野が初めてだった。

 狭野に音楽のことを尋ねたのは気紛れだった。だって狭野ったらいつも誰とも喋らないで、修行僧みたいな顔でイヤホンを両耳に突っ込んで何かを聴いているんだもの。あいつだったら俺の知らない音楽知ってるんじゃないかなぁ、センパイの度肝抜いてやりてえなあ、って思って声をかけたら、狭野は俺が思っていたよりずっとすごいものを持ってきてくれた。俺は狭野のことが大好きになった。いや、大好きの前に尊敬した、かな。だって一方的にベタベタ付きまとってくる俺みたいな鬱陶しいやつのために、あんなカッコいいCD貸してくれたんだよ。すごい。尊敬する。優しい。


 狭野と一緒にいると空っぽの俺の中がひたひたに満たされていく、そんな感情に襲われた。狭野が教えてくれる本は全部俺が知らない世界で、読めない漢字とかがあると狭野はすぐに教えてくれた。馬鹿にされたことなんて一回もなかった。俺は本当に演劇部を辞めようと思った。帰宅部になって狭野と毎日おしゃべりをしていたかった。でも狭野が。

「続けた方がいいよ」

 って言ったから。


 ばかやろう。俺の神様。

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