第9話 お引越し

「ごめん下さ~い」

 と僕は大家さんの家の玄関扉の前で、チャイムを鳴らしながら声を出した。


 僕の後ろには花頼はなよりさんも居る。


 今朝、温泉宿をチェックアウトしてからそのまま僕が住むアパートに帰ってきたんだけど、大家さんにも挨拶をしておこうと思ったので、今ここにいる。


「は~い」

 と遠くから声が聞こえて、パタパタとスリッパが廊下の床を叩く足音が近づいてきたかと思うと、ガチャリと扉が開く音がして大家さんが顔を出した。


「こんにちは。201号室の帆地槍ほちやりです」

 と僕が言うと、大家の木我こがさんは僕を見上げる様に顔を上げて


「ああ、お帰り! 思ったより早かったんだね!」

 と元気に迎えてくれた。


 そして、僕の後ろに居る花頼さんの姿を見ると、

「ありゃ、もしかしてこの娘があんたの彼女さん?」

 と言って僕を見た。


 僕はうんうんと何度も頷いて

「はい、僕の恋人になった人です」

 と言うと、花頼さんが僕の隣に進み出て、軽くお辞儀をしながら

「はじめまして、帆地槍さんとお付き合いさせて頂いている、花頼と申します」

 と挨拶をしてくれた。


 木我さんは目を丸くして、

「あらまあ驚いた! なんてべっぴんさんなんだろうね!」

 と言いながら、「まあまあ、うちでお茶でも飲んでいきなさいな」

 と玄関扉を全開にして、玄関の上がりかまちに僕達の為のスリッパを二つ並べてくれた。


 僕が花頼さんの顔を見ると、花頼さんも僕を見ていて

「上がらせて頂きましょう?」

 と言ったので、僕は頷いて玄関の中へと入って行った。


「おじゃましまーす」

 と僕と花頼さんが言いながらスリッパを履くと、木我さんが一番手前の部屋のふすまを開けて、

「お茶でも沸かしてくるから、この中で待っててちょーだいね」

 と部屋に案内してくれた。


 部屋の中は6畳間の和室で、部屋の奥には縁側があり、窓の奥はあまり手入れのされていない庭が見えていた。

 庭の奥にはブロック塀があって、その向こう側に僕が住むアパートの壁が見えている。


 この部屋には何度も入った事がある。


 始めてこのアパートに住む時にも、両親と一緒にここに来た。


 お父さんは公務員で、お母さんは専業主婦だった。


 大家さんはお母さんの高校時代のクラスメイトらしいので、今年で75歳になるはずなのに、お母さんよりもすごく元気だ。


 僕のお父さんは5年前にガンで死んでしまったし、お母さんは7年前から老人ホームで介護を受けながら生活している。


 お父さんが木我さんに「息子を頼みます」と挨拶に来た時も、僕はこの部屋にお邪魔した事があった。


 木我さんは「静雄しずおちゃんはいい子だし、20年も住んでくれてるお得意さんだからね。まかしときな」と言って、僕を義理の息子の様に思っていてくれてるそうだ。


 だから、9月の契約更新の時に僕が挨拶に来て、恋人が出来たと話した時にもこの部屋に来たし、だから僕はこの部屋には何度も来た事がある。


「大家さん、いい人ですね」

 と花頼さんが言ったので、僕は頷きながら、これまでのそんな話をした。


 花頼さんは僕の話を聞きながら何度も頷いて、だけど少し悲しそうな顔で

「お母さんの事、少し心配ですね。今度一緒に会いに行きましょうね」

 と言ってくれた。


 ああ、花頼さんはなんて優しいんだろう。


 花頼さんと「本当の恋人」になれた僕は、きっと世界一幸せな人に違いない。


 その時、廊下の奥から木我さんの足音がパタパタと響き、

「待たせたね〜」

 と言いながら、両手でヤカンや急須を乗せた盆を持って部屋に入って来た。


「わざわざスミマセン」

 と会釈する花頼さん。


 僕も真似をして軽く会釈しながら

「わざわざスミマセン」

 と言った。


 木我さんが僕を見て驚いた様に

「まあまあ、静雄しずおちゃんがこんな事言ってくれるなんて、きっと花頼さんのおかげだねぇ」

 と言いながら僕を見るので、

「はい。花頼さんのおかげです」

 と僕は言った。


 木我さんの言う通りだ。

 僕が今幸せなのは、全部花頼さんのおかげだ。


「ふふふっ」

 と木我さんは笑いながら「どうぞ」

 と言ってお茶を差し出してくれて、花頼さんにも同じ様に差し出した。


 その後、木我さんは花頼さんと色々な話をしていたけど、その中で

「帆地槍さんと一緒に暮らせるところに引っ越しをしたいのですが・・・」

 と花頼さんが木我さんにお願いして、木我さんも「そうだねぇ」と頷いているのを聞いていると、どうやら僕の部屋を引っ越しする話をしているらしい。


 木我さんが一旦部屋を出て行って、しばらくして戻って来ると、古くなった大きな薄い本の様な物を丸めて筒状にしたものを抱えて戻って来た。


「これなんかどうだい?」

 と木我さんがその筒を広げてページをめくると、薄い青い紙に、青い線でどこかの家の間取り図が描かれていた。


「1戸建てですか?」

 と花頼さんが訊く。

 木我さんは頷いて、

「今風に言えば3LDKっていうのかね。トイレとお風呂も別だし、ちゃんとトイレも水洗だしね。二人で住むにはいい家だと思うよ」

 と笑顔で説明している。

 花頼さんは、少し困った様な顔で、

「でも、私達は一戸建てを買える様なお給料を貰えていないので・・・」

 と言っていたが、木我さんは、首を横に振って

「いやいや、これは賃貸で貸してた家だから、普通に毎月家賃を支払ってくれれば大丈夫だよ」

 と言っている。


 僕もその図面を何気なく見ていたが、L字型の敷地の奥側の広いところに四角い2階建ての建物がある間取りで、1階はLDKと洋室が一つと洗面、トイレ、お風呂があり、階段を昇った2階には、和室と洋室が一つずつ向い合せに配置されている家だった。


「この家は、主人がまだ生きていた時に私が住んでた家でねぇ」

 と木我さんが僕を見て言い、「当時は静雄ちゃんの両親も結婚したばかりだったんだけど、お隣には静雄ちゃんの両親が住んでて、私達がそこに家を建てて住みだした時から、それは仲良くしてくれたもんだよ」

 と語りだした。


 僕の両親が住んでた家の隣の家が木我さんの家だったらしい。


 という事は、僕が小学校の低学年まで住んでた家の事だと思う。

 僕が成長して大きくなったからって、小学校3年生の時に今の実家に引っ越したんだったかな。


 木我さんは遠い目をしながら花頼さんを見て、

「静雄ちゃんが小学校でひどいイジメに遭っててね、静雄ちゃんは気にしてないみたいだったんだけど、両親が心配してねぇ。それで今住んでる家に引っ越す事になったんだけど、私の亭主が知り合いの不動産屋を紹介した事を恩に着てたみたいで、引っ越した後も、よく家に遊びに来てくれてたんだよ」

 と思い出話をしている。


 僕がイジメられてた?


 よく思い出せないけど、僕の記憶とは違う気がする。


 クラスには友達も居たし、友達は僕と遊んでくれた。


 僕のノートをどこかに隠したりしてたけど、それは「かくれんぼだ」って言ってたから、イジメなんかじゃないと思う。

 僕の教科書に落書きをしてる友達もいたけど、それは「お前の教科書をカッコ良くしてやったぞ」と言ってたから、きっと親切でやってくれてたんだと思うし。


 僕はそれが嬉しかったのに、小学校3年生の時に突然引っ越しが決まった時は少し寂しかった。


 だけど、引っ越した後は「特別養護学級」っていう教室で授業を受けてて、大きな学校なのにクラスメイトが一人しか居なかったけど、先生がとても優しかったので、僕は新しい学校も楽しかった。


 だけど、運動会とかはあまり競技に出られなくて、フォークダンスは出られたけど、誰も手を繋いでくれなくて少し寂しかった。


 僕はそんな事を思い出していたけど、花頼さんは何か色々考えてくれているみたいだから、その横顔もとても綺麗だったから、僕はずっと花頼さんを見ていた。


「敷金とかはいいよ。庭の雑草とか、色々やってくれれば助かるしね。家賃は5万円でどうだろうね?」

 と木我さんが花頼さんに言っていて、それを聞いた花頼さんが

「ぜひお願いします!」

 と嬉しそうに言っているので、きっといい話だったに違いない。


 木我さんもいい人だから、きっと花頼さんにも親切にしてくれる。


「帆地槍さん!」

 と花頼さんが僕を見ながら僕の手を取った。そして、「ここに引っ越して、私と一緒に住みませんか?」

 と言った。


 僕は、花頼さんと一緒に住める事が嬉しくて、

「はい!」

 と言った。


 木我さんは

「静雄ちゃん、立派になったねぇ・・・」

 と嬉しそうに笑ってるけど、少し目に涙をにじませていた。


 僕は状況がよく解らなかったけど、花頼さんとずっと一緒に居られるなら何でもいいと思っていた。


 そして僕は、年内を目処に自宅を引っ越す事が決まったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る