第6話 お泊り旅行(中編)

「いい景色ですね」

と花頼さんが言った。


「う、うん。ほんとに、いい景色だね」

と僕も言った。


僕達は電車の車窓から、赤紫色に染まる空の下でうっすらと富士山が見えて来たのを見てそう言った。


会社を出たのが17時半。

そこから電車を乗り継いで、1時間位でここまで来れた。


今日は会社で社長と揉めてしまったけど、あの後、花頼さんの剣幕に驚いた社長が「好きにしろ」と言って、僕達はちゃんと週末に休みを取れる事になった。


「こ、これも花頼さんが助けてくれたおかげです」

と僕はそう言って花頼さんを見ながら頭を下げた。


花頼さんは僕の手を握って首を横に振り、

「そんな事は無いですよ。帆地槍さんが勇気をくれたからできただけで、自分でも驚いてるんです」

と言ってくれた。


僕は窓際の席に座っていて、花頼さんは廊下側の席に座りながら車窓の景色と僕の顔を交互に見ているみたいだ。


「でも本当に、一緒に旅行に来れて良かったです」

と花頼さんは本当にほっとした様な顔をしている。


「ぼ、僕も、本当に良かったと思います」

と僕も正直に言った。


「次は、河口湖〜、河口湖、終点です。お出口、左の扉が開きます。お降りの際は、車両とホームの隙間にご注意下さい。またのご乗車をお待ちしております」


そんな車内放送が聞こえて、電車が徐々に減速していくのを感じた。


「もうすぐ駅に着きますね」

と花頼さんが僕を見て言った。


僕は頷いて

「もうすぐ駅に着きますね」

と返した。


僕はこうした花頼さんとの会話が嬉しくて堪らない。


これまで、僕とお話してくれるのはお得意先の担当者だけで、ほとんど商品の注文や納期の事しか話さないし、プライベートでその人達と接した事は無い。


会社では社長がよく話しかけてくれてたけど、花頼さんの話だと、社長は僕に面倒な仕事を押し付ける為だそうで、休日出勤の給与が付いてないとか何とか、ちょっと僕には難しい内容で、よく分からなかった。


僕はあまり頭が良くないので、給与の事とかは経理の牧田さんにお任せしてたけど、ちょっと何か間違いがあったみたいで、花頼さんが色々直してくれたみたいだった。


本当に僕は幸せだと思う。


詳しい事は分からないけど、8月末頃に、花頼さんと労働基準監督署という所に行ってから、少し給与額も上がったし、僕が分からない事を一生懸命に僕に教えてくれるのは花頼さんしか居ない。


難しい内容で僕が分からない時は、花頼さんはノートに絵や図を描いてくれたりする。


内容が難しくても、僕は花頼さんの声を沢山聞けるのが嬉しくて、勉強する様にしていて、そんな僕を花頼さんが嬉しそうに見てくれるので、僕はこれまで以上に花頼さんの幸せの為に仕事を頑張ろうと思った。


休日は、僕にも分かりやすい様に、内容の無いお話をする事も多い。


そんな時の花頼さんは、僕の顔を見て嬉しそうにしてくれる。


だから内容が無いお話でも、お互いの顔を見ながら会話をしてくれる花頼さんとの時間が、嬉しくて堪らないのだ。


そんな事を考えてたせいで、僕はすごくにっこりしてたみたいだ。


花頼さんが首を傾げながら、だけど僕よりニッコリした顔で

「すごく楽しみですね」

と言った。


「う、うん!」

と僕は応えた。


もう既に楽しいのに、花頼さんが僕を温泉宿に連れて行ってくれるなんて、どんなに素晴らしい事なのか、僕には想像出来なくて、だけど、花頼さんも楽しみにしているから、きっとすごく楽しいに違いない。


そうしているうちに電車が駅のホームにゆっくりと停車した。


僕は座席の上にある棚からボストンバッグを取り出した。


花頼さんは、キャリーバッグの取っ手を伸ばして座席を立って、僕が通路に出るのを待ってるみたいだ。


僕はボストンバッグを肩に掛けて通路に出て、電車の出口に向かって歩いた。


花頼さんは僕の手を掴んで、ホームに降りて僕の手を引いてくれる。


改札口を出ると、駅前は小さなロータリーになっていて、タクシーが2台停まっていた。


花頼さんが先頭に停まっているタクシーに近づくと、タクシーの後ろの扉と、トランクが開いた。


運転手が出てきて、花頼さんのキャリーバッグをトランクに入れる。


そして僕のボストンバッグもトランクに入れる様に促してくれたので、僕はボストンバッグを自分でトランクに入れた。


「じゃあ、帆地槍さんが先に乗って下さいね」

と花頼さんが僕の手を引いてくれる。


「う、うん。ありがとう」

と僕はちゃんとお礼を言って、タクシーの後部座席に座って、花頼さんも乗れる様に運転席の後ろに移動した。


すると、トランクの扉を閉めた運転手が運転席に乗って、花頼さんも後部座席に座ると、運転手が「どちらまで?」と訊きながら、少し首を回して花頼さんの方を見て、少し視線を落とした。。


花頼さんは

「湖畔荘っていう温泉宿までの道は分かりますか?」

と運転手に訊きながら、脚を閉じてスカートの裾を直していた。


何だろうな。


少し花頼さんの声がいつもより固い気がしたな。


僕もタクシーに乗るのは生まれて初めてだけど、花頼さんも、もしかしたらあまりタクシーに乗らないのかも知れないな。


でも、大丈夫だと思う。


僕でも緊張してないんだから、タクシーはそんなに怖い乗り物じゃないと思う。


だから僕は、花頼さんの右手を掴んで

「大丈夫だよ」

とだけ言った。


すると花頼さんは、ひとつ大きく息をしてから

「ありがとうございます」

と言って、僕の左肩にもたれ掛かり、身体の体重を預けてきた。


タクシーの運転手は、少し舌打ちみたいな音を立ててから

「湖畔荘ね」

と言って車を走らせた。


タクシーは10分も走らないうちに細い路地に入って行き、少し道路が広くなった行き止まりの所で停まった。


「車で来れるのはここまでだよ」

と運転手が言いながら振り返り「1360円です」

と言って、また視線を落とした。


花頼さんは財布からお金を出して、タクシー代を払ってくれた。


タクシーの扉が開き、花頼さんは両膝を揃えたままスカートの裾を手で押さえてタクシーを降りた。


僕も開いた扉からタクシーを降りた。


するとタクシーのトランクがガチャリと音を立てて開き、運転手が降りてくる。


僕は先に花頼さんのキャリーバッグを取り出して降ろし、次いで僕のボストンバッグを取り出して肩に掛けた。


「あ、ありがとうございました」

と僕はタクシーの運転手にお礼をすると、運転手は

「またどうぞ」

と少し無愛想に言って、運転席に乗り込んだ。


隣で花頼さんがふうっと息をついて辺りを見回し、

「あそこから入って行けるみたいですね」

と、木々に囲まれた門扉を見つけてそう言った。


その門扉は開放されていて、石で出来た門柱には「湖畔荘」という文字が彫り込まれている。


門の奥には、御影石の様な模様の石畳が敷かれた細い通路が伸びていて、更に奥には竹を編んで作った様な塀があり、その塀の手前で通路は右へと折れていて、その先は木々の影になって見えなくなっている。


「行こう」

と僕は言いながら花頼さんの手を取り、門の方へと歩き出した。


花頼さんは、方向転換をして走り去るタクシーを見送りながら頷くと、キャリーバッグをゴロゴロと引きながら僕と一緒に門を潜った。


「だいぶ暗くなりましたね。もう7時ですもんね」

と花頼さんが言った通り、門を潜って木々に囲まれた通路を歩いていると、ただでさえ薄暗くて足元にランタンの様な小さな照明が並んでいるだけの通路は、木々の影になって、更に暗く感じる。


しばらく進むと、通路は右へと折れて、左手に高さ2メートル位ある竹を編んだ塀が続く石畳の通路が更に20メートルくらい伸びていた。


「あ、花頼さん。建物が見えて来たよ」

と僕は、趣深い歴史を感じさせる木造の建物が見えて来たのを見て言った。


建物の正面玄関が近いてくると、大きなガラスに「湖畔荘」と書かれた引違いの木製扉の奥に、赤い絨毯が敷かれた玄関ホールが見えている。


「着きましたね」

と花頼さんが言いながら、玄関扉を引いて「スミマセ〜ン」

と玄関ホールの奥に向かって声を掛けた。


すると

「はいはい〜」

という女性の声と共にパタパタとスリッパを履いた足音が聞こえ、和服に身を包んだ初老の女性が現れ、「ようこそいらっしゃいませ」

と笑顔で迎えてくれた。


「予約していた帆地槍です」

と花頼さんが言った。


どうやら僕の名前で予約していたみたいだ。


「お待ちしておりましたよ、帆地槍様ご夫婦、2名様ですね」

とその女性が言いながら、僕達の前にスリッパを二人分並べてくれた。


僕は少し聞き間違えたかも知れない。

この人、僕達を夫婦だって言ってたみたいだ。


でも、僕は何だか嬉しくて、

「宜しくお願いします」

と言って、ボストンバッグを担いだまま、靴を脱いでスリッパに履き替えた。


花頼さんも踵の低いミュールを脱いで、スリッパに履き替えてからキャリーバッグの取っ手を畳んでいた。


僕は

「あ、僕が運ぶね」

と言って花頼さんの荷物を持ち上げ、和服姿の女性の方を見た。


「素敵な旦那さんですね」

と笑顔で言いながら「お部屋までご案内しますね」

と続けて赤い絨毯が敷かれた階段を昇って行った。


二階に上がると、廊下も赤い絨毯が敷かれていて、案内してもらった部屋の扉の上には「桜の間」と書かれた木の板が掛けられている。


「こちらのお部屋になります」

と言って和服姿の女性が引き戸になっている扉を開けると、中にもう一つの玄関扉の様な扉があって、「こちらが鍵になります」

と言いながら、カード型の鍵を穴に差し込むと、カチャリと音がしてドアハンドルを掴んで扉を開けてくれた。


その先は大きな座卓が置かれた8畳の和室があり、更にその奥には小さな丸テーブルと、向かい合わせに置かれた椅子が2つあった。


その奥は大きな窓があり、もうかなり暗くなっているが、かすかに富士山の輪郭が見えていた。


「朝になると、富士山が綺麗に見えますよ」

と和服姿の女性が教えてくれた。


「この後はお部屋にお食事をお持ちしますね。温泉は1階の廊下の突き当りにありますよ」

と和服姿の女性は更に教えてくれて、「家族風呂は少し狭いですが、鍵が開いてる時はいつでもご利用出来ますよ」

と続けた。


「ありがとうございます」

と花頼さんが部屋に入って言い、「素敵なお部屋ですね」

と笑顔で言いながら僕を見た。


「う、うん。こんなに富士山が大きく見えるなんて、凄いね」

と僕は言いながら、「ありがとうございました」

と和服姿の女性にお礼を言って、部屋の鍵を受け取ったのだった。

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