第5話 お泊り旅行(前編)

「下着が3つと、靴下が3つと、ズボンが2つと、Tシャツが3つと・・・」


 僕は今、旅行に行く為の荷物がちゃんと揃ってるか、ボストンバッグの中を確認しています。


 今日は仕事が終わったら、そのまま花頼はなよりさんと富士山が見えるところまで旅行に行く事になったからです。


 旅行の荷物を担いで通勤して、池袋駅のロッカーに荷物を預けて、それから会社に行くと便利だと、花頼さんから教わったので、ちゃんと教わった通りにした。


「よし、これで大丈夫だ」

 と僕は言って、仕事用のカバンとボストンバッグを担いで家を出た。


 ちゃんと玄関の鍵も掛けたし、昨日のうちに大家さんには旅行に行く事を伝えておいたので、大丈夫な筈だ。


 大家さんは、「今度その彼女さんを連れておいで」と言ってくれたので、いつか花頼さんが来てくれればいいなと思った。


 旅行の手配は花頼さんがやってくれた。


 河口湖っていう湖の近くにある温泉宿を予約してくれたみたいで、富士山もよく見えるし、「家族風呂」っていうお風呂があるみたい。


 僕は、高校生の時に、修学旅行で温泉に入ったけど、それ以降は温泉に入った事が無い。


 花頼さんが「硫酸塩泉りゅうさんえんせんだから肩こりに効きますよ」って言ってたし、「家族風呂はドキドキしますね」って言ってたから、きっとものすごく血行が良くなる温泉なんだと思う。


 僕の不整脈にもきっとよく効くに違いない。


 僕は今夜からの旅行をとても楽しみにしながら、今日も仕事を頑張ろうと思った。


 11月25日の金曜日。


 大宮駅まで歩いて30分、朝と夜は随分と寒くなった。


 服も厚着になって、僕は達磨だるまみたいになっている。


 大宮駅に着くと、周りのみんなも厚着をしているのが分かる。


 ホームはいつもより混雑していて、電車が止まっていたけど、ホームの乗客の列が入りきらなかったので、次の電車を待つ事にした。


 10分後に次の電車が来たので、僕はその電車に乗る事にした。


 電車の中は暖房が効いていて、厚着をしているせいで夏場よりも暑く感じる。


 僕は大きなカバンを持ってるので、みんなの邪魔にならない様に、車両の端に居る様にした。


「次は~、池袋~、池袋に止まります。お出口、右側が開きます」

 と車内アナウンスが流れ、僕は足元に置いていたボストンバッグのストラップを持ち上げた。


 電車は徐々に減速し、やがて池袋駅のホームへと入って行く。


 キキーっとブレーキの音が鳴って電車が止まり、プシューっという音がして扉が開く。


 乗客がどんどんホームへと出て行くのに合わせて、僕もホームへと降りる事が出来た。


 いつも通りに南口に向かう階段を昇って改札を出ると、壁際にロッカーがあった。


 僕がロッカーに向かって行くと、

帆地槍ほちやりさん!」

 と声がしたので、声がした方を見ると、そこに花頼さんが居た。


「おはようございます! 帆地槍さん!」

 と挨拶をしてくれる花頼さんは、僕が持ってるボストンバッグよりも大きなスーツケースを引いていて、「同じロッカーに荷物を入れようと思って、こっちまで来ちゃいました」

 と、いつもと同じ笑顔で言った。


 ああ、本当に花頼さんは綺麗だなぁ。


 と僕は思いながら、


「お、おはよう。こんなに早く会えると思わなかったので、び、びっくりしたけど、嬉しいです」

 と言った。


「ここの大きなロッカーになら、私の荷物と帆地槍さんの荷物が一緒に入りそうですよ」

 と花頼さんは言いながら、ロッカーの一番下の段の縦長の扉を開けてキャリーバッグを入れていた。


 花頼さんの言う通り、キャリーバッグの上には隙間ができていたので、僕の荷物もそこに入れる事にした。


 ちょっときつかったけど、僕の荷物をグイグイと押し込んで、何とか同じロッカーに荷物が入った。


 ロッカーの扉を閉めて鍵を掛けた花頼さんは、

「じゃ、一緒に会社まで歩きましょ?」

 と、笑顔で言ってくれたので、僕も、


「う、うん!」

 と、にっこりして言った。


 会社が入る雑居ビルに着くと、エレベーターはちょうど1階に止まっていたので、ボタンを押すとすぐに扉が開いた。


 エレベーターに乗り込むと、花頼さんと二人きりの空間になる。


 花頼さんが5階のボタンを押すと、エレベーターがガコンと音を立てて動きだす。


 エレベーターが5階に着くまでの間、花頼さんが僕の左腕に自分の腕を絡めてくれた。


 僕が花頼さんと恋人同士になってから、花頼さんは、いつもこうやって腕を絡めてくれる。


 この前はエレベーターの中で、ほっぺにキスをされた。


 ものすごく驚いたけど、帰宅途中の電車の中で、花頼さんの唇の柔らかさを、何度も何度も思い出して、凄く嬉しくて、その日はほっぺを洗わなかった。


 アパートには風呂が無くて、いつも共用の洗面台で足から頭まで洗っていたので、ほっぺだけを避けて洗うのがとても大変だった。


 だけど、翌日会社でその話をしたら

「ダメですよ、ちゃんと綺麗にして下さいね」

 と言いながら「でも、お風呂が無いんですね…」

 と少し俯いて考え事をして、それから顔を上げると


「じゃあ今週末のお休みに、一緒に温泉に行きましょう!」

 と言ってたのを思い出した。


 そうだった。


 僕がちゃんと顔を洗わなかったから、花頼さんが温泉宿を予約してくれたんだった。


 僕はものすごく楽しみにしているけど、同じ屋根の下に宿泊するというだけでもドキドキして仕方が無い。


 僕は花頼さんに恋してると思うし、ドキドキは不整脈かも知れないけど、これはきっと悪い事じゃないと思うし、女の人と一緒に2泊もするなんて、生まれて初めての事だと思うし、そもそも恋人ができた事が生まれて初めてなのだから、花頼さんと何をしても全てが生まれて初めての経験だ。


 だから僕は、全てを花頼さんから教わろうと思う。


 花頼さんが嫌がる事はしないし、花頼さんがして欲しい事は何でもしよう。


 そんな事を考えているうちに、エレベーターの扉が開いて、僕と花頼さんはエレベーターを降りた。


 オフィスは既に鍵が開いていた。


 いつも早い時間に出勤している4階の配送担当者が開けてくれたんだと思う。


「おはようございます」

 と僕は扉を開けて言った。


「おはようございます!」

 と花頼さんも言いながらオフィスに入り、タイムカードを僕の分も一緒に打刻してくれた。


「あ、ありがとう」

 と僕が言うと、

「どういたしまして」

 と花頼さんがにっこりして言ってくれる。


 ああ、これだけでも僕は幸せなのに、今日は仕事が終わったら、もっとすごい事が待っているだなんて。


 きっと、世界中で一番幸せなのは僕じゃないかと思った。


 だから、そんな幸せを僕に与えてくれる花頼さんの為に、今日も僕は仕事を頑張ろうと思った。


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「ただいま帰りました」

 と僕は言いながら、営業の外回りから帰って来て言った。


「おう、ご苦労さん」

 と社長が言った。


「お疲れ様です!」

 と花頼さんも笑顔で挨拶してくれる。


「き、今日も沢山注文書が貰えたので、下の階で手配をお願いしてきます」

 と僕は言って、部屋を出ようとした。


 すると、

「おう、帆地槍。ちょっと待ってくれ」

 と社長が言って、僕を呼び止めた。


「はい、何でしょうか?」

 と僕が返すと、社長は席を立って僕の元まで歩いて来て、


「今日、K商事さんから連絡があってな。明後日の日曜日にイベントをやるらしいんだけど、人手が足りないらしいんだよ。 今日はもう帰っていいから、日曜日にK商事さんの手伝いを頼むわ」

 と言った。


 え? 明後日?


 僕はおどおどしてしまったと思う。


 花頼さんの方を見たら、心配そうに僕を見て、社長の方を睨んだりもしていた。


 だけど不思議な事が起こった。


 僕は、花頼さんの幸せの為に仕事を頑張っていたから、花頼さんがすごく楽しみにしていてくれた温泉旅行を無駄にしたくなくて、自然と社長にこう言えたのだ。


「す、すみません、社長。日曜日は予定があるので行けません」


 社長は少し驚いた顔をしていた。


 花頼さんも驚いた顔をしていた。


 事務長の入江さんも顔を上げて僕を見ていた。


 経理の牧田さんは目を見開いて僕を見ていた。


「おいおい、帆地槍。今日はもう帰っていいって言ってるんだから、予定なんて今日か土曜日のうちに済ませておけよ」

 と社長は少し不機嫌な顔になった。


 僕は、お世話になってる社長を不機嫌にしてしまったみたいだ。

 それでまた頭がパニックになったんだと思う。


「あ・・・、あの・・・」


 と声が出なくなってしまい、手が震えてしまう。


 だけど、また花頼さんの顔を見たら、花頼さんが、すごく心配そうな顔で僕を見て、そして怒った様な顔で社長の方を見ていた。


 すると、また不思議な事が起こった。


 僕の手の震えが止まり、僕は社長が恐くなくなった。


 そして僕は理解できた。


 これが恋をするって事だったんだと。


 僕はこの数年間、花頼さんの幸せの為だけに頑張って来た。


 だから、花頼さんが笑顔だと僕も元気になるし、花頼さんが悲しそうだと、僕は花頼さんを励ましたくなる。


 そして今、花頼さんにこんな顔をさせる社長の言う事は、聞かなくてもいい事なんだと理解した。


「社長、僕は予定があるので行けません」

 ともう一度言った。


「ああ!?」

 と社長が声を上げた。「お前が行けなきゃK商事さんが困るだろ? お前はそれでもいいのか?」

 と社長の声はさっきよりも大きな声になっていた。


 だけど、僕は花頼さんの顔を見ながら、花頼さんが楽しみにしている旅行だけは絶対に守ろうと思った。

「K商事さんが困らない様に、吉田君に行ってもらえないんですか?」

 と僕は言った。


 すると

「吉田はまだ未熟だからダメだ」

 と言うので、


「じゃあ、山本部長なら安心です」

 と僕が言うと、

「山本は忙しいからダメなんだよ」

 と言った。


「じゃあ、社長が行けば間違いないですね」

 と僕が言うと、

「ああ!? 何で俺が行かなきゃならないんだよ!」

 と言うので、


「だって、K商事さんを困らせたくないんですよね?」

 と僕が言うと、


「だからお前が行けって言ってるんだよ!」

 と社長は少し怒った様な声を出した。


「だけど、僕にも大切な予定があるので、どうしても行けません。なので、僕がK商事さんに謝罪をします」


 と僕が言うと、社長は

「余計な事をするんじゃねーよ!」

 と言って机を叩き、「誰がお前を今まで雇ってやったと思ってるんだ!? お前は俺の言う事を黙って聞いてりゃいいんだよ!」


 僕は、もう一度花頼さんの顔を見た。


 すると、花頼さんは少し目に涙を溜めながら、スマホのカメラで僕と社長を撮影していた。


 何でカメラで撮影しているのかは分からないけど、花頼さんの事だから、きっと何か大切な事なんだと思った。


 それに、花頼さんが涙を溜めているのを見て、僕は心の中に、今まで感じた事が無い感情が生まれた気がした。


 違う。


 僕が見たいのは、花頼さんがこんな顔をする世界じゃない。


 僕が見たいのは、花頼さんが幸せになる世界だ。


 だから、やっぱり僕は、花頼さんがあんなに楽しみにしていた旅行の約束を守らなくちゃいけないんだと思った。


「社長。やっぱり僕は、どうしても外せない予定があって、K商事さんには行けません」

 と僕は社長の顔を真っすぐに見ながら言った。


「てめえ・・・」

 と社長が僕の胸ぐらを掴んで、僕の身体を押した。


 僕はその勢いで床に転んで、注文書がカバンから飛び出して部屋に散乱してしまった。


 その時、

「いい加減にしてください!」

 と花頼さんが叫ぶ声がした。


「社長! これ以上帆地槍さんに酷い事をしないで下さい!」

 と叫ぶ花頼さんの声は、少し涙声になっていた。


 社長は花頼さんを見て、

「いやいや、花頼君。酷いのはコイツの方だよ?」

 と言って僕を指さした。


 僕は、散乱した注文書を1枚1枚拾い上げながら、

「あ、ありがとう。花頼さん。ぼ、僕は大丈夫だから・・・」

 と言ったけど、花頼さんは涙を零しながら


「ごめんなさい、帆地槍さん。でも、これ以上は、私が大丈夫じゃないんです」

 と言って社長を睨んだ。


「社長。いまのやり取りは動画に撮影して、いまクラウドに保存が出来ました。これ以上酷い事するなら、私はこれを持って、労基署と警察署に行きます」


「おいおい、花頼君。帆地槍なんかの為に、何をそんなにムキになってるんだよ」

 と社長は、苦笑しながら花頼さんをなだめようとして、花頼さんの方に手を伸ばした。


 すると花頼さんは

「気持ち悪い・・・」

 と言って社長の手を振り払い、「私に触れないで下さい。今度触れようとしたら、セクハラで訴えます」

 と言って社長を睨んだ。


 そんな花頼さんを見るのは、僕は初めてだったし、社長も初めてだと思うし、他のみんなもそうだと思う。


 みんな花頼さんの剣幕に目を丸くしていて、入江さんが、

「花ちゃん、落ち着いて・・・」

 と言いながら「社長もちょっと大人げないですよ」

 と言った。


 僕は注文書を全て拾い終えたので、

「じゃ、僕は注文書を持っていくので、花頼さんも一緒に行きませんか?」

 と花頼さんを見て、「その後一緒に、警察に行きましょう」

 と僕が言うと、花頼さんは「はい!」と言って頷き、僕の手を引いてオフィスの扉を開けて部屋を出た。


 そして、階段を下りながら、階段の踊り場で、花頼さんは声を上げて泣き始め、僕の胸に顔を押し付けて鳴き声を消そうとしているみたいだった。


 僕は花頼さんの身体に手をまわして、背中をさすりながら、

「あ、ありがとう。いっぱい勇気を貰いました。僕は、花頼さんの為だけに頑張ります。それから、ごめんなさい。僕は、こんなんだから、花頼さんを泣かせてしまって・・・」

 と、思いつく限りの事を伝えようとしたけど、花頼さんは首を横に振って


「帆地槍さんは素敵でした。帆地槍さんより素敵な人なんて、この世には居ないと思います」

 と、まだ少し目が赤かったけど、僕の顔を見上げて言ってくれた。


 僕より素敵な人はいっぱいいると思うけど、花頼さんがそう言うなら、そうなのかも知れないと思った。


「うん。花頼さんに、そう言ってもらえて、嬉しいです」

 と、緊張もせず、パニックにもならず、本当に自然に、そう言えた。


「とりあえず、せっかく帆地槍さんがとって来た注文書ですし、これだけはちゃんと持っていきましょうね」

 と花頼さんが言ったので、僕達は4階まで階段を下りていったのだった。

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