兵舎に

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 ──兵舎に



 ガブリエラはいつものように陸軍会館から徒歩で陸軍省に通った。


 陸軍会館から陸軍省までは徒歩20分というところで、路面電車を使えばもっと早いが、早朝の路面電車は込んでいる。


 陸軍の軍服を着て街を歩くのもいいもので、警官は敬礼を送ってくれるし、子供は『軍人さんだー!』とはしゃぐ。


 昼食はもっぱら軍人ならばただで食事できる陸軍省の食堂で食べるのだが、ちょっと考え事がしたいときなどは陸軍省に向かう途中にあるパン屋でサンドイッチを買う。


 このサンドイッチがなかなかの絶品で、野菜は新鮮で、チーズはコクがあり、ハムはお肉の味が嬉しく、それらが口の中で合わさることにより実に楽しい食事ができる。


 それに軍人ならば割引してくれるのだ。店長の父が元歩兵少佐だったらしく、前大戦で勲章を受けたとか。そのおかげで割引してくえるのだ。


 最近の国家戦線党の熱心な宣伝も功を成したのか、共和国の世論はかつてないほど親軍的だ。共和国市民のほとんどが軍備拡張を熱狂的に支持している。


 前大戦後は“負け犬の軍隊”と呼ばれていた共和国陸軍も、派手なパフォーマンスとマスコミでの宣伝の効果もあってか、“共和国の防人”と呼ばれるまでになった。


 前大戦は結局白紙和平で終わった。


 だが、次の大戦では、ということだ。


 共和国が仮想敵国に挟まれていることを共和国市民は認識している。


 仮想敵国──王国、連合王国、帝国。どれもが脅威だ。


 そして、社会主義者たち。


 共和国はいかなる政治イデオロギーも弾圧しないとしても、プロレタリアート独裁という共和国の民主主義を根幹から揺るがす思想は、共和国の秘密警察たる国家保安省が監視し、動きがあれば軍も動員して弾圧していた。


 この間も海軍省前に爆弾を持った男が現れ、衛兵に射殺されたばかりだ。


 そのことがあったせいか、ミヒャエルがガブリエラの通勤に彼の従兵の運転する車を送ると言ったが、ガブリエラは断っていた。


 ただでさえ、愛人疑惑がかかっているのに、これ以上上級将校のミヒャエルから便宜を図ってもらってはテロリストに殺されなくとも、嫉妬した陸軍婦人部隊の隊員に殺されかねない。


「おはようございます、ブロニコフスキー大佐殿」


「おう。おはよう。早速だが、今日は貴様の引っ越しだ」


「ああ。兵舎にですね」


「そうだ。いつまでも陸軍会館暮らしというわけにはいかん」


 ガブリエラは暫定的に陸軍会館に宿泊しているが、いずれは兵舎にという話になっていた。その時が来たのだ。


「兵舎と言っても貴様を所帯の場所に放り込むわけにはいかん。陸軍省に近く、食堂があり、安全が確保されている陸軍の保有する物件となると、このアパートになる」


 ミヒャエルはそう言って地図を指さした。


「近いですね。歩いてもあまり陸軍会館と変わらない程度」


「ああ。兵舎と言っても陸軍省の官僚たちが単身赴任する際に使っている場所だ。警護の衛兵もおるし、食堂も軍人ならただだし、住宅費と光熱費も陸軍持ちだ」


「いいですね。引っ越しましょう」


「うむ。早速準備しろ。今日は俺の従兵を貸してやる」


 ミヒャエルはそう言ってガブリエラを見送った。


 準備と言ってもガブリエラにあるのはドレス一着と陸軍の制服ぐらいだ。


 これから陸軍会館という便利なホテル暮らしを止めるならば、いろいろと買わなければならないなと考える。


 とりあえずベッドは必要だ。それから前々から思っていたが寝間着。バスタオルや石鹸、シャンプーといった陸軍会館では自動的に補充されていたアメニティグッズ。


 来客時のためのティーセット。食堂が閉まっていたときに簡単な料理が作れる調理道具の類。普段使いの衣服。ラジオ。それから……。


 いやいや。いきなりそんなに運び込む必要はない。


 とりあえず、寝て、お風呂に入れて、通勤できるなら問題はない。


「では、今日はよろしくお願いします、ヘンツェ伍長」


「はい、少尉殿」


 ミヒャエルの従兵は中肉中背の特徴のない男性で、ミヒャエルの車の運転から食事の手配、今回のような雑用までこなしている。


 ガブリエラはミヒャエルの副官だが、副官らしいことをした覚えはない。


 とりあえずは持ち運びに問題のないアメニティグッズをとガブリエラは商店街に繰り出す。様々な店の並ぶ首都ならではの商品豊富な場所だ。


「まずは何を?」


「お風呂と洗面関係の商品を」


「化粧品は?」


「化粧品……。陸軍って化粧してもいいんですか?」


 疑問だったのはそこだった。


 陸軍婦人部隊では化粧している人もいるし、いない人もいる。


 階級の差かと思ったがそうでもないようで、ガブリエラは化粧をしていいものかどうか迷っていたのだった。


「もちろんです。今は平時ですから。戦時なれば化粧品のような贅沢品にも制限がでるかもしれませんが、今は特に制限かかかっておりません」


「では、ちょっと化粧品を」


 実を言うと気にしてはいたのだ。


 これまではフル武装というのもなんだが、化粧をして外出しないことなどなかった。そのため自分がみすぼらしく見えているのではないかという危惧はあった。


 だが、軍人だからという理由で化粧は避けてきた。


 まあ、今の立場からすると化粧などせずとも頭を回していればいいと思われるかもしれない。そのことで給料を持っているのであり、別に婚約者の機嫌を取る必要もないのだから。


 それでも、儀礼的な化粧は必要だとガブリエラは思う。


 ガブリエラはまだ大学卒業したばかりと若いが、化粧をせずに人前に出るというのはなかなか抵抗があったものだ。


 化粧洋品店に向かい、簡単な化粧のセットを購入する。


 前に実家で使っていたものと比べれば安物だが、それで今は十分。


 それからお風呂、洗面用具を購入すると、いよいよベッド選びとなった。


 ベッドは癖があると眠れないタイプなので、展示品に横になってみる。


 ふかふかのものもあれば、固めのものもある。その中間ぐらいがいいなと思った。


 そして、ふわふわし過ぎず、固すぎずの中間の品を購入。


 ベッドは運びましょうかという業者の心遣いに感謝し、そのサービスを受けることにした。やはり軍人だと受けがいいのか部屋までの運び込みを行ってくれるおとになった。


 それから新居である兵舎──もとい、官舎に向かう。


 間取りは事前に見せられたように1DLK。


 ひとり暮らしのガブリエラには少し広いくらいだった。


 とりあえず購入した家具を従兵とともに運び込み、生活できる準備を整える。ベッドはその日のうちに届き、寝床もできた。


「では、自分はこれで。要件がおありの場合はブロニコフスキー大佐殿を通してください。いつでも伺います」


「助かりました、ヘンツェ伍長」


 ヘンツェ伍長は最後まで手伝ってくれた。


 しかし、とガブリエラは思う。


 立派な家を貸してもらったなと。ハーフェル=ブランデンブルク首都州でこれだけの物件を借りれば相当な家賃になるはずだ。


 それがただとは。


 実家も宮廷貴族だったころの名残でハーフェル=ブランデンブルク首都州に屋敷を残しているが、その維持費だけで相当苦労している。


 税金はかかるし、物価も、人件費も高い。


 兄は外務官僚として大学を出てすぐに働いているが、それでもガブリエラとその妹と両親を養うだけで精一杯だった。


 両親のうち父も外務官僚として働いていたが、さほど出世はできず、これといって代わりの利かない技術もなかったために早期退職している。


 実家がますます困窮するときに自分がこんな贅沢な暮らしをしているとはとガブリエラは呆れると同時にミヒャエルに感謝した。


 明日は礼を言っておかなければなと思いつつ、風呂に入って、今日は眠った。


……………………

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